Episode Spring:3 出会い
「あ〜っ、遅刻しちゃう〜!」
「早くしろよ! もうマジでヤバいって!」
案の定、のぞみは寝坊した……。
俺は目覚まし時計をセットして眠っていたのだが、初登校前夜の緊張のためか目覚まし時計が鳴る前にパッチリ覚めてしまった。
トイレを済ませて顔を洗いに洗面所へ向かう時、廊下でのぞみとすれ違った。挨拶をすると眠たそうな声ではあったが返事をかえしてきた。
その後部屋に戻り真新しい制服に袖を通し、再び部屋を出る。するとトイレの前で恭子さんが困った様子で立っていた。
「おはようございます、恭子さん」
「あら、おはようございます」
俺の顔を見ると一瞬笑顔を見せるが、その表情は曇ったまま。
「どうかしたんですか?」
俺は恭子さんに何かあったのか訊ねてみる。
「ええ、実はのぞみがちょっと困ったことになってしまいまして……」
「え? のぞみがどうかしたんですか?」
すると恭子さんはトイレの扉へ視線を向けた。
………………
「何でトイレの中で二度寝しちまうんだよ! このバカ!」
「あ〜、バカって言った〜!」
最悪だった……。
のぞみは朝が非常に弱い。朝起きて夢と現実の狭間をゆらゆら揺れながらトイレへと入った。そしてこともあろうにトイレの最中に眠ってしまったのだ。のぞみの姿がみえないことに気付いた恭子さんがまさかと思いトイレに耳をあてると、扉の向こうから気持ちのよさそうな寝息が聞こえてきたことで発覚した。その後俺と恭子さん二人で扉を必死で叩いた結果、三十分後ようやく目を覚まし、現在に至る!
「ちょっとこーへー、おいていかないでよ〜」
「おいていくか! つーか、俺は学校の場所わかんねえから、行きたくても行けないんだよ! 頼むから早くしろって!」
玄関で待っていると、食パンを咥えたままというベタな格好で制服姿ののぞみが駆けてきた。
「やっと来たか! 行くぞ!」
「お母さん、いってきまーすっ!」
俺とのぞみは自転車にまたがり、慌しく出発。因みに俺の自転車は吾郎さんのお古を譲り受けたもの。
「行ってらっしゃい」
この慌しい朝、恭子さんだけが落ち着いていた。
「急げ、急げ!」
俺とのぞみは自転車で海岸沿いの道を激走! 車の間をすり抜けたり、赤信号でも突っ切る。俺ものぞみも最早「遅刻」の二文字を回避するために形振り構わぬ想い一心だった。
「なあのぞみっ、間に合いそうなのか?」
「け、けっこうヤバいけど、このペース保っていったらギリギリセーフかなっ! あ、次の角右に曲がって!」
俺とのぞみは必死にペダルをこぐ。お互い始業式早々遅刻するわけにはいかないのだ!
角を曲がった後、しばらくすると道の向こうに学校らしき建物が見えてきた。時間は……八時二十八分。何とか間に合いそうだ。しかしすれ違う同じ制服を着た生徒たちはみんな走っているから、かなりギリギリの様子だ。
「こーへー、自転車置き場こっちだから!」
先に校門をくぐったのぞみが俺に向かって叫ぶ。言われなくても自転車に乗っている奴等みんな同じ方向に向かっているから一目瞭然だ。俺はのぞみの後姿を追い左へターンする。
「よっしゃ、間に合った!」
その時、
「危ない!」
と、誰かが叫んだ。
ギリギリセーフだったことによる達成感に浸っていた俺は、前をよく見ていなかったのだ。要は油断していたわけだ。俺の自転車の前には一人の女子生徒が立っていたのだ。
「だーっ!」
俺はあわてて自転車のハンドルを切る! しかし……、
ガッシャーン!
目の前の人を瞬時にかわせるスーパーテクニックなど当然持っている筈もなく、バランスを崩した俺は盛大にクラッシュしてしまった。
「い、いってて……」
クラッシュした時に肩を思い切り痛打してしまった……。つーか、人通りの多い校門前で大クラッシュを演じてしまってかなりの取り巻きができてしまった。痛い以上に、恥ずかしい……。
「あ〜ちくしょう! 新品の制服が……」
俺は立ち上がって自転車を起こす。そして制服についた泥をはらった。その間、通りすがりの生徒数人が心配そうに声をかけてきてくれたりした。
「そういえば!」
俺はハッと思い出し周りを見回す。あのぶつかりそうになった女子生徒は大丈夫なのだろうか?
「あれ?」
するとそれらしき女子生徒はどこにもいなかった。周囲の生徒に訊ねてみても結局判らなかった。
「こーへー!」
すると遠くからのぞみの声が聞こえてきた。
もっとよく女子生徒のことを探したかったが、間もなく予鈴も鳴ったので俺は急いでのぞみの元へと走った。
「へ〜、それは災難だったね」
体育館での始業式が終わった後、教室へと向かう廊下でのぞみが校門での出来事を訊ねてきた。何だかムカムカしていた俺は事情をテキトーに伝えた。
「でも大したことなくてよかったね」
「まだ肩が痛いぞ……」
「気のせいだって!」
のぞみは自信ありげにグーサインをみせる。痛いってのは俺なのに何の自信だよ……。
「あのな、少しは『大丈夫?』とか心配の言葉をかけようとかそういうのはないのか?」
俺はのぞみを横目で睨む。
「いや大丈夫だと思ったから。別に骨が折れて飛び出ているわけでもなし、肉が裂けて血がドバーッと出ているわけでもなし」
するとのぞみはキョトンとした顔でR指定級の返答をする。
「そんな状態の人間が普通に学校の廊下を歩けるか!」
「え〜、でもこの間磯釣りのお客さんで磯から転げ落ちた人がいて、太ももの骨がみえるくらい肉が裂けてて血がドバーッて出てる人がいたけど、普通に自分で車運転して帰っていったよ」
「そんな超人と一緒にするな!」
「お母さんが大丈夫かって聞いたら、『職業柄、こんなの日常茶飯事です』って」
「知らねーよ!」
何だよ、何の職業に就いてんだよその人!
「つーか、どこいったんだろ? 今日が初登校だから名前とか全然わからんし……」
「あ、教室着いたよ!」
俺がブツブツ言っていると、のぞみが俺の袖を引っ張る。いつの間にか教室前まで来てしまっていたようだ。
俺はそのままのぞみに引っ張られる形で、これから学校生活を過ごす教室の中へと入った。
俺とのぞみは同じクラスだった。何でも俺とのぞみが同じクラスになったのは偶然ではない。見知らぬ土地の学校に来た俺に対する学校側の配慮によるもので、要は同じクラスに馴染みの人間がいることで俺の精神的負担を軽減しようというものらしい。
「なあのぞみ、俺の席ってどこだ?」
「えっと、ちょっと待ってね」
のぞみは鞄から始業式の時に配られたプリントを取り出す。
「こーへーは男子の八番だから、この列の一番後ろだね。因みに私は、廊下側の一番前!」
「女子の一番か。まあ名前が池澤だからな」
「うん、でも一番前はヤだな……」
「反対に一番後ろは居眠りしててもバレないぞ〜」
「あ〜、ずるい!」
しかし我ながら何という低レベルな会話だ……。
すると教室の扉がガラガラという音を立てて開いた。
「あ、先生が来た。こーへー、また後で」
「おう!」
担任の教師が来たので俺とのぞみはそれぞれの席に着く。教室にいる他の生徒たちも一斉に各々の席へと向かう。正面をみると俺たちの担任は二十代後半と思われる女性教師。けっこう美人だ!
俺は心の中で弓引きガッツポーズ!
その時、
「…………」
俺の隣の席に誰かが座った。普段は大して気にもしないのだが、担任が来て教室内がそこそこ静まり返っていたので、その音が妙に耳についた。
俺は思わず横目でチラリと見てみた。
「……!」
俺は思わず声を上げそうになり、手で口元を押さえる。
俺は横に座っている人物を見てドキッとした。今朝校門前で危うく自転車で轢きそうになった女子生徒らしき人が、俺の隣にいたからである。あの時は一瞬しかその顔はみていないが、何故か脳裏に焼きついて離れない瞳をしていた。
「あの時の、女子だ……」
まだ横顔しか見ていないが、いつしかそれは確信に変わっていた。
「…………」
この女子生徒、席に着いてから前を向くことはなくずっと下を向いている。その視線は机のどこを見ているのかは判らない。
何故だか判らないが、俺はこの女子生徒が気になった。俺は視線を女子生徒から離せないでいる。
「……君。野島浩平君」
「え……」
誰かが俺の名を呼んだ。俺はハッとなって視線を前方へ戻す。すると教壇で担任が困惑の表情を浮べていた。
「どうしたの? 呼んでいるのに全然聞いてくれなくて」
「え、あ、そうなんですか? す、すみません……」
どうやら担任はさっきから俺の名前を呼んでいたらしい。クラス中の視線が俺の方へ集まっていた。
「で、何すか?」
すると担任はますます顔をしかめた。
「う〜ん、先生の話全然聞いてくれていなかったのね……。今はクラスメイトの自己紹介タイムで、次が野島君の番なんだけれど」
俺の気付かない間にそんなコーナーが進行していたらしい。教室のあちらこちらでクスクスと笑い声が聞こえてきた。
「ちゃんと聞いていて下さいね。それじゃ野島君、改めてお願いします」
担任は苦笑いをしながら再び俺に振ってきた。
そして俺は立ち上がり、
「みなさんはじめまして。野島浩平といいます。よろしくお願いします」
と、至って無難な自己紹介をして席に着いた。
その後自己紹介タイムは進行していき女子の番となる。トップバッターののぞみは明るく元気な女の子をイメージさせるような自己紹介。のぞみらしいといえばのぞみらしい。
俺の後の男子同様、女子の自己紹介も聞き流していたが、ある人物の自己紹介だけは非常に興味があった。それは勿論俺の隣の女子生徒。そして遂にその順番がまわってきた。
「橋本さんありがとう。それじゃあ次、長谷川さんお願いします」
担任に促されると、俺の隣の女子生徒は立ち上がった。
「長谷川……咲希です。よろしく……お願いします」
か細い声で自己紹介を終えると、うつむいたまま静かに席に着いた。
「長谷川 咲希か……」
俺は再び横目でこっそり隣を見る。長谷川咲希は自己紹介の時と同じく、ずっと机のどこかを見つめている。その瞳はとても深く、そしてその底に何かが眠っているようであった。
そしていつの間にか自己紹介は終わり、またホームルーム自体も終了して、下校となった。
初登校日、これにて終了というわけである。
学校からの帰り道、のぞみは自己紹介の時のことを訊ねてきたが、ボーッとしていたと適当に答えてはぐらかした。
「変なの……」
のぞみの言う通りだった。自分でも意識するくらい俺は変だ。何故だか判らないけれど、あの長谷川咲希という女子生徒のことが気になって仕方がない。ホームルームが終わった後、のぞみが俺の席にやってきて話しているうちに、長谷川咲希の姿は見えなくなっていた。校門を出るまでそれとなく探してみたが、結局見つけることはできなかった。
「…………」
何でだ、何でこんなにも気になるんだ?
俺とのぞみは自転車をこぎながら海岸沿いの道へと出る。俺はのぞみの他愛もない話に相槌をうっているが、実際のところ頭の中は長谷川咲希のことで一杯だ。
その後しばらく海岸沿いの道を走っていると、
「あっ!」
のぞみがいきなり声を上げ、自転車を止めた。
「どうしたんだ?」
「ゴメン、今日部活の顧問の所に行かなきゃいけないの忘れてた!」
「顧問?」
のぞみは吹奏楽部に入っている。因みに楽器はトランペットだ。
「ゴメンこーへー、先に帰っててくれないかな? 帰り道はこの海岸沿いの道ずっと真っ直ぐ走ったらいいから」
のぞみは顔の前で手を合わせ、申し訳なさそうな表情。
「ああ、俺は全然構わんぞ。道も今朝通ったのを覚えてるし」
「じゃ、大丈夫ね。また後で!」
のぞみはそう言い残すと、自転車の向きを変えて来た道を戻っていった。俺はのぞみの姿が見えなくなるまで手を振った。
のぞみと分かれた俺は海岸沿いの道をゆっくりと走る。今日は風が殆どなく、春の海はベタ凪だ。遠くの方には小島がぼんやりと見えている。確か「田島」だったっけ。何故か巨大なサボテンが自生している島だよな。
自転車で走りながら田島を眺める俺の視線の隅に何か動くものが入った。俺は自転車を止め、そしてその動くものが何かを確認する。
「人か……」
俺が自転車を走らせている海岸沿いの道の向こう側、つまり下の砂浜に人影があった。
「つーか。あれって」
俺はその人影に見覚えがあった。その人物はうちの学校の制服を女子生徒。
「長谷川咲希!」
長谷川咲希は砂浜から俺のいる道の方へと向かっている。そして俺の目の前にある砂浜と道とを結ぶ階段を上がり、俺の前に姿を見せた。
「…………」
長谷川咲希は俺の存在に気付き、視線をこちらへと向ける。
「よ、よお……」
突然の対面に慌てた俺は、何ともぎこちなく会釈をした。
「…………」
俺の顔を見てはいるものの、会釈には無反応。
「俺のこと覚えてる? 同じクラスで席が隣同士の野島だよ。確か、長谷川さんだったよね?」
とりあえず、会話を振ってみる。
「そ、そーいや今朝校門の所でも会ったよな? 俺が危うく轢きそうになって、ケガしなかった?」
「…………」
全く反応がない……。ただ俺を見つめているだけで、表情は全く変わらない。
「い、いや、あの……」
もう言葉が浮かんでこない。意外と口下手だな俺って。
「…………」
俺は彼女の視線に圧倒されていた。何故かは判らないけれど、彼女の顔を見ていると言葉が出てこなくなる。そしてその瞳はどこまでも深いものに感じられる。俺は今初めて長谷川咲希の顔を真正面で見ているが、その瞳は教室で見た横顔のものよりも深く深く感じられた。
「同じ……」
不意に長谷川咲希の唇が動く。
「あなた、私と、同じ瞳、してる……」
「同じ、瞳?」
俺はその言葉の意味が全く判らなかった。同じ瞳って……、
「なぜ」
「えっ?」
スッ……
俺が呆然としていると、長谷川咲希は俺の横をすり抜けていった。そして俺が自転車で走ってきた道の反対側を歩き、去っていく。
「な、何なんだ?」
俺はその言葉の意味が判らず、ただ後姿を見送ることしかできないでいた……。