Episode Summer:8 告白
「浩平君……」
俺と咲希は三十センチくらいの間隔で向かい合う。今まで暗いからよく判らなかったが、近くで見ると咲希の頬は薄っすらと紅潮していた。
「さ、咲希」
俺はドキドキしていた。
でもその想いはすぐに消え去る。だって咲希の瞳は、あの哀しみと苦しみが入り混じった深い瞳だったから……。
俺はそんな咲希の瞳を前に、どんな反応を示していいのか戸惑う。
「ありがとう、ございます……」
咲希が口を開く。
「田島に、来てくれて……」
「え、な、何が?」
俺は咲希の言葉にますます戸惑う。
「あの時、浩平君が行くと言ってくれなければ、今日ここへ来ることは、なかったでしょう……」
「で、でも最初に田島へ行こうって言ったのはケンだせ?」
すると咲希は少し目を伏せる。
「あれは、私が村田君に提案していたんです……」
「咲希が? 何でそんなこと……」
俺の問いかけに咲希はしばしの沈黙。
風の音はなく、遠くで波の音だけが聞こえる。
そして……、
咲希の瞳が再び俺を捉えた。
「浩平君、私は、あなたのことが、ずっと、気になっていました……」
このカンジ、何か前にもあったような気がする。
咲希の瞳に捉えられ、俺は何もできない、話せない……。
「最初は、私と同じ瞳をしているから、私と同じ、辛く、哀しい過去を経験したから……、そう思っていました……」
「…………」
「でも、それは次第に変わっていきました。あの、浩平君が映画に誘ってくれて、一緒に遊びに行ったあたりから、少しの間ですが私は、哀しみや辛さを忘れることができました。それは浩平君が一緒にいるからでした……」
咲希は溢れだすように言葉を紡ぐ。話し続ける咲希の瞳は潤んでいた。
「そして、私は以前とは違う理由で、浩平君のことが、気になり始めていました……。こんな私と一緒にいてくれる、気にかけてくれる。浩平君と一緒にいると私、普通の女の子でいられるって……」
そして俺は、咲希の頬の紅潮が一層増していることに気付いた。
「だから、だから……」
「さ、咲希……」
俺は絞りだすように、やっと咲希の名を呼ぶ。
「あ……」
そして俺は、咲希の身体を抱き寄せていた。
何故かは判らないけれど、そうしなきゃいけないと思った。
「こ、浩平君……」
咲希の鼓動を感じる……。
俺の中にいる咲希は、目を閉じて身体の全てを俺に預けてきていた。
「俺も同じだよ」
そして俺も、今まで胸の奥に閉まっていた。出すこともないだろうと諦めていた想いを溢れ出させる。
「あの時、俺が咲希を映画に誘った時、俺は咲希の知らない一面を知った。普通の女の子なら誰もが持っている、ごくありふれた可愛さを感じた。本当に、本当に楽しかった」
「浩平君……」
俺の言葉が恥ずかしいのか、咲希は俺の胸に顔をさらに埋める。
咲希にも、俺の鼓動が伝わっているだろうか? 俺は咲希の表情を窺う。咲希の頬は限りなく紅くなっている。目を閉じているからその瞳の色までは判らないが、その表情に苦しみや哀しみは一切感じない。
この時俺は咲希のことがとても可愛く、愛らしく、そして愛しく感じた。
こんな気持ちになるのは、初めてだ。
「咲希……」
俺の口から自然と咲希の名が出る。俺の声を聞いて咲希は目を開けて顔を上げる。
そして俺たちは見つめ合う。
「浩平君……」
そして咲希の瞳が俺に近付く。
「浩平君の気持ち、確かめてみても、いいですか?」
一瞬の間があり、咲希は瞳を閉じる。
そして……、
「好きです、浩平君」
咲希は再び俺の胸に顔を埋める。
俺は一瞬躊躇ってしまうが、自分の想いに嘘はつけない。これだけギュッと抱きしめてしまっては、俺の波打つ鼓動は隠せない。
俺は抱きしめる力を強める。
「俺も、咲希の気持ちを確かめてみたい」
もう遠くからの波音も聞こえない。
聞こえるのは俺たちの鼓動だけ……。
俺は告白する。
「俺も、咲希のことが……」
その時、
「うがっ!」
突然俺の身体に電気が走った。その電気は身体の中を隅々まで駆け巡ると、まるで粘着テープのように俺の身体をピッタリと締め付けた。
「ぐあっ……」
あまりの苦痛に俺は咲希を放し、その場に蹲る。全身は痺れ、締め付けられるような不快感が襲う。
俺は息を荒くする。心臓の動悸が激しくなったかと思えば、逆に心臓が停まってしまったと思ってしまう程小さくなってしまったりする。もう呼吸すらままならない。とても苦しい……。
そして何故か目もかすんでくる。あまりの苦痛に意識が遠のいてきていた。
(さ、咲希!……)
俺は薄れいく意識の中で、咲希の姿を必死に探す。
「…………」
すると咲希は俺のすぐ正面に立っていた。俺は咲希の表情を追う。
そしてかすむ目で捉えた咲希の姿、それはただただ呆然と立ち尽くす姿であった。
そして咲希の口元が動く。
「どうして……。もう、もう大丈夫だと思ったのに。どうして、どうして……」
咲希の瞳から大粒の涙が流れる。
俺は感じる。今咲希の瞳は、あの哀しみと苦しみを滲ませる深い瞳だ。しかしそれは今まで俺が感じてきたものの比ではない。まるで咲希の何かが開放されたようで、全て感覚が薄らいでいく今の俺でも痛いくらい感じることができた。
「ダメなの、やっぱり、やっぱりダメなの……。また、大切な人を……っ!」
咲希は言い終わるのと同時にどこかへ走り去ってしまった。身体の動かない俺は、その姿を追うことができない。
そしてこの場には身動きのできない俺と、咲希の流した涙の痕だけが残された。
(くそっ、咲希!)
俺は必死にもがく。
全身は痺れ、目はかすみ、そして先程から自分の鼓動を感じない。
俺は死ぬのだろうか?
否、死ぬという感じはしない。まるで俺という存在が消えてなくなってしまうような感覚だった。
俺は咲希を追いたい。咲希に会いたい! 今追わなければ、全てが終わってしまうような気がする。
咲希はずっと哀しんで、苦しんで、ずっとずっと、泣いている。
そんなこと、させない!
「咲希っ!」
俺は最後の力を振り絞るように、全身の神経を脳へと集中させ、「動け!」と末梢にまで命令という名の信号を送る。
「咲希、咲希っ!」
俺は体中の力を振り絞り、やっとの思いで立ち上がる。そして咲希の後を追い始めた。
「はあ、はあ……」
俺は暗闇へと消えた咲希の姿を追い続ける。
途中何度も躓いて転び、身体の至る所に擦り傷を作った。でも痛みなんかまるで感じない。俺はただ、咲希を追うことに全神経を集中させていた。
「咲希、咲希!」
咲希に会いたい!
満足に動かない身体、俺はただこの感情だけで暗闇の中を彷徨い続けていた。
そして彷徨い続けてどれくらい経った頃であろうか。
不意に目の前の暗闇が開けた……。
ザーッ、ザーッ……
そこには波の弾ける音。足元をよく見るとそこはゴツゴツとした岩場になっている。
どうやら俺は外海の磯場へと出てきてしまったようだ。ここは吾郎さんに危ないから近付いちゃダメだと言われており、釣り人も殆ど近寄らない場所だ。
「…………」
俺は夜空を見上げる。かすむ目でも光る星は何とか確認できる。しかし今日は新月なので月は見えない。
俺は咲希を探すため、ゴツゴツした岩場を歩き始める。まだ身体が痺れているから足元はおぼつかない。こんな所で転んだら擦り傷どころじゃ済まないだろう……。
「咲希、咲希!」
俺は咲希の名を呼びながら歩く。
…………
……………………
………………………………
「あれ?」
しばらく岩場を歩いていると、岩場の途切れている場所を見つけた。
さらに近付いてよく見てみると、途切れた岩場の先には砂浜があった。
「こんな所に砂浜なんてあったんだ……」
こんな所に砂浜があるなんて全然知らなかった。
俺は恐る恐る砂浜へ降り立つ。辺りを見回してみると、この砂浜は周囲を岩場に囲まれた小さな入り江になっていて、それ程広くはない。おそらく海からじゃこの砂浜は岩に隠れて見えないのだろう。
「…………」
俺は砂浜を一歩一歩踏みしめながら歩く。一歩踏みしめる毎に、砂はジュワッという音を立て、靴には海水を含んだ砂がまとわりついてくる。もしかしたらこの砂浜は、干潮の時しか姿を現さないのかもしれない。
俺は重くなった靴を気にしながら、砂浜の奥へと進んでいく。もう真っ暗で一メートル先も見えない。
「?」
その時、俺は暗闇の向こうに何かの気配を感じた。
俺はとっさに咲希の名を呼ぶ。
「…………」
しかし何の返答もない。俺は恐る恐る気配のする方へ歩を進める。
「咲希? 咲希なのか?」
すると暗闇の中に一つ、何かの影が姿を見せる。
「さ、咲希!」
俺はその影が咲希のものであると確信し、早足で近付いた。
「えっ?」
俺はその影の前に立った。しかしそれは咲希の影ではなかった。
というか、それは人ではなかった。
「な、なんだよ、これ、社か?」
漆黒の砂浜に浮かび上がった影。その正体は古ぼけた小さな祠であった。もう何年も人が訪れていないのだろう、木でできた祠は殆ど朽ちて屋根にはフジツボがくっついていた。
「これって、もしかして……」
この時、俺は以前吾郎さんから聞いた『海美子姫』の話を思い出した。
これがおそらく、海美子姫の忘れられた祠なのだろう。
俺は屋根についたフジツボを取ってやろうと思い、屋根に触れてみようとした。
その時だった……。
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おにいちゃん、おにいちゃん、おにいちゃん、おにいちゃん……………………
おにいちゃん、おにいちゃん、おにいちゃん、おにいちゃん……………………
俺の身体を「誰か」の感情が、声が、駆け巡った。
そして俺の中に、ある映像が流れる。
それは小さな女の子の姿……。
満面の笑みを見せる、少女の姿……。
おにいちゃん…………
「ああぁ…………」
何故、何故なんだ……、
何で、俺、この子のこと知ってんだ。
会ったこともないはずなのに、なんでこの子のこと、知っているんだ。
何でこの子は、俺のことを、おにいちゃんって呼ぶんだ。
なんで俺、こんなに泣いているんだ?
おにいちゃん
「ああぁぁーーっ!」
俺はその場に崩れ去る。そして何かの堰が決壊したかのように、俺は泣くことしかできない。
おにいちゃん
俺の中に現れた一人の女の子。
俺が見た映像、
それは俺の過去。
俺の……俺の消された記憶だった……。