多くの問題はガーッとやればなんとかなる。2
図書塔のすぐそば、農地に向かう途中の道すがらには、一軒のログハウスがある。
冷暖房完備。
ダブルクッションによる最高級の寝心地を提供するベッド。
お風呂は最高級ヒノキの浴槽で、室内に設置されている巨大ディスプレイには5.1chの大迫力サラウンドで過去の名作映画が常に上映されている。
その他にも居住区から適当に物色したありとあらゆるリクライニンググッズがそこかしこに転がっていて、庭には両端をあろうことか記念樹と偉い人の銅像のあいだに渡したハンモック。
およそ人類が思いつく限りの堕落の結晶。
それは異常なまでにカウチポテトを楽しまんとする貪欲な意思の表れである。
「あー、モームさんったら、また今日もポテトチップをかじってる!」
ここの居住者こそが絶賛滅亡中の、この島最後の人間さん。
近くを通ろうとすると、今日もまたパリパリとポテチを食む音が聞こえてくる。
いまはまだ地平線から朝日が顔を出し始めた時刻で、朝食を楽しむには少し早い。
そもそもポテチは朝食として成り立つんだろうか。
ポテチの主な構成成分はじゃがいも由来のデンプンとそれを揚げる油で、なるほどエネルギーの摂取としては効率のいい食べ物かもしれない。
でも、それが健康的かどうかというと話は別だ。
そして残念なことに、最後の人間さんだっていうのに、ここの住人――モームさんときたら自分の健康に無頓着なのだ。
酒は飲むし、たばこは吸うし、必要以上の早く起きることは体によくないと、いくらぼくが口うるさい小姑のように注意しても改める気がないのだ。
そしてその傍を通ると必ず、
「よう、フルーフ。これから仕事か?」
と壊れたオルゴールのように、毎日同じ……しかも答えがわかりきった挨拶をしてくる。
短くそろえた白髪。サングラスの奥には猛禽類を思わせる鋭い目に、脂肪の少ない引き締まった細身の肉体。
昔はきっとかっこよかったんだろうなって思うし、実際にいまもダンディなおじいさんなんだけど、ショッキングピンクの服とパープルの半ズボンの組み合わせはいかがなものか。
そんな渋くてファンキーなおじいさんがこの島の、最後の人間さんことモームさん。
瘴気で汚染された大地から大空に逃げ出した人類を待っていたのは、無限ともいえるほどの寿命の伸長と、一人も子供が生まれないという、奇跡と悪夢だったという。
昔はこの島の居住区には数千万人の人間が住んでいたというけれど、ある者は永い寿命の果てに肉体が朽ち果て、ある者は外の世界に出ていきそのまま戻らなかったらしい。
と言っても、ぼくは生まれてまだ10年。生み出される遥か前の話なんてほんとかどうか判別がつかないんだけどね。
ぼくは農地へと向かう足を止めて、モームさんに頭を下げて挨拶をする。
「おはようございます、モームさん。今日はダイコンをとってこようと思っているんだ」
それにしても、ぼくが仕事をしない日が一日でもあっただろうか。いやない。
そんなことはモームさんのほうは百も承知だろう。
だからと言ってぼくは、『おじいちゃん、昨日も同じこと聞いたよね?』なんて、融通がきかない返事はしない。
彼が求めているのは心のふれあいであって、言葉のキャッチボールなのだ。
ぼくのなかの、人類から受け継がれた人情味のあるインテリジェンスは彼の願いを察していて、さらに言うと彼の細やかな願いを叶える優しさを備えているのだ。
「昨日の余りものとあわせてちょっとしたサラダとポトフを作ろうかなって思っているんだけど、他に食べたいものがあるならリクエストを受け付けるよ」
今日の献立を聞くと、モームさんは「ガッデム!」と絶望の表情を浮かべた。
ちなみに、昔は調理専用のロボットがいたんだけれどちょうど2年前に壊れてしまって、調理をするのはいつのまにかぼくの役割になっている。
「それではまた野菜オンリーではないか!」
「お野菜は健康にいいんだよ?」
「いーや、人体に必要なのは肉だ。タンパク質なのだ。よし、今日のリクエストは肉にしよう。おっと豚じゃないぞ? 牛だ。しかもじじいみたいな硬いやつはいかん。若くてジューシーなステーキが食いたい」
困ったことに言葉のキャッチボールはときにぼくの体めがけて投げつけられることがある。
「ねえ、モームさん。たまに思うんだけどさ。ぼくが農業用ユニットだってこと忘れてない?」
「かー、馬鹿もん! いいか、自分に与えられた領域のみを守っているうちはしょせん二流のサラリーマンというものよ。一流とは己の限界の先に常に挑戦しつづけ、能力を高め続ける者のことをいうのだ。すなわち過酷な労働のすえに死を賜り人生を完結させることこそが企業戦士の名誉であり、文明にという名の宗教に対する究極の殉教なのだ。わかったか!」
「うん。ぜんぜんわかんない」
そしてたいていの場合、それは乱闘やむなしの剛速球なのだ。
「おいモーム。知ってるか? そういうのを社畜っていうんだぜ?」
そしてフリートークがやれやれと嘆息するまでがいつもの流れ。
「ふん、人もまた動物の一種であることを思い出させてくれる素晴らしい単語だな」
「確かに畜ってつくけど、そういう意味じゃないと思うんだ」
「そんなことは知らん!」
モームさんの話を聞くたびにぼくは思うんだ。
このゆりかごのような島にやってくる前の人間さんたちって、どうやって暮らしていたんだろう、って。
社畜にブラック企業にデスマーチ。
ある小動物は増えすぎると集団自殺するなんていう俗説があるけれど、実は人間にもそのDNAが組み込まれてるんじゃないかな?
炎上してデスマーチ。
終末の黙示録の一ページに記載していそうな表現だよね。
地獄の業火をまとった悪鬼たちが笑いながら行進しているさまを彷彿とさせるカッコイイ響きだとは思うけど。
なんて、ぼくがたわいもないことを思いをはせていると、モームさんが「おお、そうだそうだ。ひとつ頼みたいことがあったのだ」と、思い出したように手を打ち、フリートークがげんなりとした表情を浮かべる。
「なんだ、また余計なことを思いついたのか?」
「実は昨日から水道の出が悪くてな。ちょっと直してほしいのだ」
「まったく、モームさんってばぼくを家政婦かなにかと思っているんじゃないの?
さっきも言ったけど、ぼくって農作業用ユニットなんだからね?」
いや、ぼくが家政婦だったとしても水道のトラブルはお水の何でも屋さんに頼むはずだ。
とはいえ、水のトラブルは生命維持に直結することなので、放置しておくわけにもいかない。
上水道と用水路は浄水場からは異なる経路を流れているけれど、そのさらに上流が問題であれば用水路に問題が出ているはずだ。
ちらりと農場へと流れ込む用水路を覗くと、その水路を流れも心なし弱いように見える。
「言われてみると、用水路のほうも水の勢いが弱いなぁ。止まるってほどじゃあないけどさ。だとするとダムのほうなのかな?」
だとすると思ったよりも深刻なのかもしれない。
2000年間一度も壊れることのなかったダム機能。
ちょっとつまったくらいならなんとかできるかもしれないけれど、堤や機械に不具合が出ていたら、誰が直すことができるんだろう?
モームさんも同じ結論だったらしい。ちょっと神妙な表情を浮かべてうなずいた。
「なら、コントロールタワーに行ったほうがいいかもしれんな。エラーがあればわかるはずだ」
「コントロールセンターって、山のてっぺんにある建物だったっけ?」
行ったことはないけど、北の山の頂上には銀色に輝く建物があって、そこがこの島の機械をコントロールする施設だ。
山奥にある秘密施設ってロマンだよね。少年の心がくすぐられるっていうか。
地図を頭に思い浮かべてみる。
……ちょっと気軽にって距離じゃないかも。
フリートークも同じことを思ったらしい。
「あそこまで行くとなると、ちょっとしたピクニックになっちまうぞ?」
ピクニック?
その単語にぼくのなかに小さなわくわく感が生まれる。
それって夏を締めくくるイベントとしては悪くないんじゃないかな?
そのパートナーを務めるのが中年トカゲだっていうのが残念だけどさ。
うん、そうだ。
せっかくの夏の最後の日なんだ。お気に入りのバスケットにお弁当を詰め込んで、山にハイキングに行こう。
この何にも起きない世界で、ささやかに冒険心を満たそうじゃないか。
「いいじゃないか、行こうよ。最近、ワンダーホーゲルの本を読んでいてね、ちょうど山登りがしたかったんだ。本のタイトルは確か『アルプス一万尺攻略大全』」
ぼくがわくわくと提案すると、フリートークは渋い顔をした。
「行きたいって思ってる意思は尊重するが……しかしお前さん、コントロールタワーに入る権限なんて持ってたっけか?
農業ユニットに付属してるとは思えないが」
「持ってないけど問題ないよ。やる気があれば大丈夫さ! 大丈夫大丈夫。やればできるって!
大事なのはコントロールタワーをぶっ壊してでも水を得てやろうっていう心意気なんだ!
農業の根本は水利権。せっかくだし、この際、すべての生物の生殺与奪権を我が手に!」
「問題しかねーよ」
うろんげな表情でフリートークが言う。
確かに、ぼくにはコントロールセンターのなかにはいる権限はない。でも、だからと言ってここまでやる気になった心が鎮まるだろうか。
「それにモームさんもさっき言ってたじゃないか。領分を超えてこそ一流のサラリーマンだって」
「なんだ、やけに食いつくじゃないか。
いつのまにお前さんってやつはそんなに仕事熱心になったんだ? だいたいサラリーマンって、給料なんて受け取ったこともないだろうに」
「そう、それもだよ。ぼくはいつも不満に思っていたんだ。こんなに一生懸命毎日働いているっていうのに、無給なのはおかしいってね!
いつか、文句を言いに行ってやろうと思ってたんだ。ブラック企業に災いあれ!」
ぼくは必死にフリートークを説得した。
たぶん、こんなに必死になったのは1年前にエッチな本を読んでいたのがバレそうになったとき以来じゃないかな?
コントロールタワーに入れたとしても、フリートークがいないと機械のことなんてさっぱりわからないから、ぼくは必死に説得した。
「警備ロボットに攻撃されても知らんぞ?」
そんなぼくに根負けして、フリートークがやれやれとため息をつく。
「それこそストレス発散にはちょうどいいね」
だって今日は夏の最後の日。
それくらいの冒険があってもいいじゃないか。
「話はまとまったか。夜までには帰って来いよ。ワシが餓死しかねん」
「はーい!」
ハンモックに寝そべりながらエッチな本を読みふけるモームさんのお見送りを受けて、ぼくらは山道の入り口へと足をむけた。
「まるで初めてのお使いだな」
フリートークがひひひと笑うのに対して、ぼくはぷくっとほほを膨らませて見せた。
「そこは冒険と言ってほしいね。お使いって言われると子供の用事みたいじゃないか」
そう、このときぼくが思い描いていたのは”ちょっとした”冒険だったのだ。