にゃんこ執事はお嬢様の膝の上
「うう……もう起きたの?」
天涯付きの豪華なベッドの上で、少女が小さく呻いた。
悪いな、アンドレア。俺様は早起きなんだ。
この屋敷の主である彼女、通称『お嬢様』の横に寝ていた俺様は、彼女に差し出された腕をすり抜け、後ろ毛を引かれる思いでベッドを後にした。
──俺様の朝は早い。
日が昇る前には屋敷の台所へ顔を出す。
すると、目覚めのコーヒーを飲んでいた黒ずくめの執事──ダニエルが、銀の食器に俺様の食事を乗せて差し出してくる。
「おはようございます、ランスロットさま」
ランスロット────かつての英雄、剣聖と同じ、それが俺様の名だ。
その名を冠するほどに、この屋敷での俺様の地位は高いという事だろう。
俺様は胸を張ってひとつ頷くと、「にゃおん」と返事してやった。
ダニエルはそんな俺様にも無表情で、足元に食器を置くとさっさとどこかへ行ってしまう。
ちっ、愛想のないやつ。
そんなんだから、お嬢様にも頼りにされんのだ。
俺様とダニエルは同じ執事としてお嬢様に仕えている。だが、あまりにも差がありすぎるせいか、彼は少々俺様に辛く当たるきらいがある。
まあ、それも仕方ない。
俺様と違って、ダニエルは一日中あれやこれやと命令されている。
それに比べて俺様は、ネズミ獲りという屋敷の警護を任されながらも自由を与えられ、信頼され、お嬢様の膝の上やベッドに居る事を許され、あまつさえナデナデまでしてもらえるのだ。
同じ執事でありながら、彼がナデナデされているところを俺様は見た事がない。
可哀想なやつである。
食事をしながらお嬢様の滑らかな手の感触を思い出していると、耳の後ろを掻かれた時の事が蘇り、プピーと鼻が鳴ってしまった。
おっと、失礼。
「あらあら、ランスロットちゃんは鼻息が荒いでちゅねー」
ふいに俺様の背後から、女が幼児言葉で話しかけてくる。
こいつはエイラ。屋敷のメイドで、とにかく鈍臭い。俺様のことを、ちゃんなどと無礼にも程があるが、頭が足りないので仕方なく許している。
『にゃん?(よぉ、エイラ。こんなところで遊んでいていいのか?)』
「うんうん、おいちぃねえ、うにゃうにゃだねぇ」
『うなぉ(今日もまたドジすんなよな)』
「にゃおにゃお〜」
彼女は楽しげに俺様の頭を掻いた。
……まったく。こいつに構っても仕方ない。メシも食ったし、仕事に行くか。
シッポをひと振りして別れを告げると、サッサと早朝のパトロールに出掛けることにする。
「あれ、もういっちゃうの? ねこじゃらしで遊ぼうよ〜」
『うなんな(働け)』
残念そうなエイラを尻目に、俺様は台所の勝手口から裏庭へ出ると、井戸の近くの丁度いい岩の上に座って顔のお手入れを始めた。
紳士たるもの、いつだって髭をピンと張っていなくては。
毛並みまで丁寧に整え終えると、早速ネズミの居そうな場所へ見廻りを開始した。
奴らは狭くて暗い場所が好きだ。
建物の隙間、壁の穴。この屋敷は広い。隠れる所は無限にある。
──ほーら、ここに1匹いたぜ……捕まえたっ!
自慢のカギ爪でネズミ野郎を押さえつけると、奴はもう大パニックだ。バタバタと騒ぎながら、台所から盗んだナッツやらをばら撒き暴れまわる。
ふん。盗人野郎め。
俺様がひと噛みすると、奴は絶命した。
くたりとしたネズミを咥え、ダニエルの元へ急ぐ。
「うっわぁ!?────もう、またあなたですか……」
ネズミの死体をこれ見よがしに掲げて、書斎で何やら確認していたダニエルの足元に座っていると、それに気付いた彼が絶叫した。
こいつはなぜかいつもネズミを見ると叫ぶのだ。変な奴。
──まぁ、それが面白いから、わざわざ見せに来ているわけだが。
「片付けておくんで、その辺に置いといて下さい……」
脱力しながら呟くダニエルに満足したので、そっと彼の靴の上にネズミを下ろす。「うぅっ」とか呻いているが、置いとけと言ったのはお前だ。
「ランスロット、ダニエル、おはよう」
そこへ、クスクスと笑いながら美しい少女が現れた。
真紅のドレスを身に纏い、長い金の髪を揺らしながら微笑む。見た所14、5歳くらいなのだが、雰囲気は妖艶な大人の女性だ。
彼女は言わずもがな────
「お嬢様。おはようございます」
我が主人、アンドレアお嬢様である。
ダニエルが丁寧に腰を折って挨拶すると、彼女は小さく頷いて返し、しゃがみ込んで俺様の頭を撫でた。
うう、耳の後ろをこしょぐるその指遣い、た、たまらんっ。さすがお嬢様、テクニシャンであらせられる。
「ダニエル、面倒な事になってるわ」
「ええ、聞いております」
ウットリする俺様の上で、2人が何やら話し始めた。
そんなことより、アゴの下を──あー、もう、ゴロゴロいっちゃう。自然とゴロゴロいっちゃう。
「我が領地に、魔のものが潜んでいるなんてね。その不届き者を見かけたら、ノータイムで首の骨を圧し折ってやりなさいな」
「かしこまりました」
あー、お嬢様、ほっぺの肉厚むにむにしないでぇ。
うあぁ、シッポが自然とブンブンしちゃううう。
「しかし、魔王の手下などと不穏な話です。一体どんな魔法を使ってここへ忍び込んで来るのやら」
「奴らだって必死よ。ここは魔界との境目だもの。私を殺して結界を解いたら、一気に人間界へ攻め込む。その為にはきっと何だってするに違いないわ」
「怖いですねぇ……」
ダニエルが呑気に言うと、お嬢様が俺様のお腹をワシャワシャしながらクスリと笑う。
「ねぇ、さっきから気になっていたのだけど、ダニエル。あなたなんで靴の上にネズミの魔物を乗せているの?」
「え」
はた、と思い出したように足元に視線をやり、「うわーっ!」とダニエルが叫ぶ。
お嬢様は口元を隠して大笑いし、眠りかけていた俺様はビクリと体を震わせた。
──まったく。ネズミ如きで情けない奴……。
*
──ぐぅ。
暖かい午後の陽射し。俺様は腹を出して全力で休憩していた。
時折、エイラだか庭師だか使用人だかが通りかかり、寝ている愛らしい俺様の体を撫でていく。
仕方ない。漆黒の美しい毛並みに触れたくない者など、ダニエル以外にいるわけがないのだ。
優しい俺様は、その度に夢現ながらシッポをひと振りして応えてやっていた。
「……れば、もう……やったぜ……あとは……」
──ほら、今も。なんだかボソボソと聞こえてくる。どうせ愛らしい俺様への賛辞だろう。
薄っすらと片目を開けると、ボンヤリと灰色のモフモフした物体が見える。
「ククク……東の魔女も、チョロいもんよ」
──なんだこいつ。
人間じゃない。というか、屋敷のものではないな。
そっと両目を開け、息を殺して観察する。
書斎の扉の隙間から廊下の様子を伺うソイツは、どう見ても灰色のネズミ。赤いヘンテコな帽子を被ってはいるが、まごう事なきネズミであった。
だが、喋っている。
なんだか高揚した感じで独り言を呟きながら、廊下で窓を拭くエイラの後ろ姿を見つめていた。その瞳が妖しく光っている。
「次はあの間抜けそうな娘を……あいつに化ければ──」
エイラを見つめ、さらにブツブツと呟く。後ろ足で立ち、扉のへりに前足を預けて、覗き込むような仕草。それはまるで──
変質者!
変質者だコイツ!!!
俺様、見たことある!
この動きはか弱い乙女を襲うつもりの不届き者の動作っ!
このネズミ野郎。屋敷の食糧だけでは飽き足らず、ついに覗きにまで手を出すとは。
確かにエイラは阿呆だが、人間の中では可愛い方だ。フワフワしたツインテールが眩しい純真メイドさんだ。
しかし、野生動物だからって、理性に負けてはいけないのだ!
天誅────ッ!!
ガバッ、と起き上がると同時、俺様はネズミ野郎に喰らい付いた。
「うわっ!?」
しかし、間一髪でネズミは勘付き、後ろへ跳び退く。
驚いた事に、このネズミ野郎、二本足で立ちやがる。足腰の丈夫なネズミである。さっき喋っていたし、もしかしたら人間への進化の途中なのかもしれない。
人間に進化した後は、きっと猫に進化する。そんな進化、種の頂点として許すわけにはいかない。
俺様は目を眇め、背中を低くしていつでも飛びかかれる体勢に入った。
ネズミも俺様を睨みつけ、目を離さぬままジリジリと後退り距離をとろうとする。
「なんだ……猫か。驚かせやがって」
ケヒヒと下品に笑うと、ネズミは二本足で立ったまま右前足をこちらへ突き出し、何事か聞き取れない言語を早口に呟いた。これは────
バッ、と俺様は横っ飛びに跳ぶ。
────パンッ!
弾けるような音と共に、俺様のいた場所の後方に積まれていた書物が弾けた。厚手の表紙は粉々になり、中のページは破け、紙吹雪が舞う。
「ちっ、野生のカンか? すばしっこい猫め」
貴様! お嬢様の大切な書物になにをする!
俺様が唸ると、ネズミは2撃目の準備にとりかかる。先程と同じように前足を突き出し、謎の言葉をむにゃむにゃと唱え────させるかっ!
「ぐあっ!」
素早く飛びかかり、カギ爪をお見舞いする。
ネズミは辛うじて避けたが、傷を受けてよろよろとよろけた。
ふっ。俺様をだたのそこいらの猫と思ったのが大間違いよ。
魔法の詠唱中は無防備になることを、俺様は知っている。
そう。あれは魔法だ。
俺様は優秀な執事である。
それ故、仔猫の頃からこの屋敷でお嬢様やエイラの作った魔法の玉で遊んでいるのだ。
彼女たちは容赦なく魔法弾を飛ばし、俺様はそれを避けて遊ぶ。ドジって食らって爆発し、アフロ猫になったことなど数知れない。
しかし今はそんなこと滅多にない。お嬢様の超速無詠唱魔法でも、華麗に避けることができるのだ。
そして────
「ぬああああっ」
のど元にがぶりと噛み付くと、息の根が止まるまで食らいつく。どんなに暴れても絶対に離さない。
見よ、この残忍さ!
カギ爪で押さえつけ、ネコキック! ネコキック! ネコキック!
「うぐっ、やめっ、ああっ、いたいっ、許して!」
こいつ、ネズミのくせにやけにしぶといな……。
いや、こいつはきっと特別なんだ。進化の途中の喋るネズミだからな。
とりあえず、ネコキック! ネコキック! ネコキッ……お?
「ま、魔王様、申し訳…………ッ!」
ガクリ、とネズミは力尽き、絶命した。
本当に死んだか? 死んだフリではあるまいな?
俺様はそっとヤツを離すと、においを嗅いだり前足でちょんちょんと突ついたりして最終確認をする。
よし、大丈夫そうだ。
……ダニエルのところへ持っていこう。
「うっひゃぁ!? あーもう! またあなたですかっ!」
先程「置いといて下さい」と言っていたので、すぐに靴の上にネズミを置くと、ダニエルがさっそく絶叫した。
「にゃぁごなごにゃぁ(よぉ、兄弟。そのネズミ凄かったんだぜ。なんせ魔法を使ってきてよぉ……)」
「なんですかうるさいですね。もうお腹が空いたんですか?」
「フンス(ちげーよ)」
俺様はブンとシッポをひと振りすると、さっさとこの場を去る事にする。
今いる場所は屋敷の外れの塔で、壁や床に魔法陣がたくさん書かれているせいか、模様で目が回ってしまう。
ダニエルもさっきから忙しそうだし、俺様は空気の読める猫なのだ。
「あー、お待ちください、ランスロットさま」
ふいに、ダニエルが俺様を呼び止めた。
振り返る。────と、ポイ、と何かを投げられた。
俺様が見事に空中キャッチすると、それは口の中で、なんとも美味しい味がした。
むむっ? 食べていいのか?
「いつもお勤めご苦労様です」
ふん、珍しい。明日は嵐でも来るんじゃなかろうか。
そう思いながら、美味しいソレを舐め舐めして、はむはむして、ボリボリ食う。なんだかわからないが、旨い。
多分、ダニエルはツンデレってやつなんだろう。
本当は俺様を甘やかしたくて仕方ないが、きっと素直になれないのだ。
しかし、仕事を褒められるのは悪い気がしないな。
食べ終わった俺様はペロリと口の周りを舐め、胸を張って一言「なご」と鳴くと、働く男のたくましい背中を見せつけながら、堂々と塔を後にした。
*
「────今日も平和だったわねぇ。魔王の手下が来たとか言ってたけど、どうなったのかしら?」
お嬢様がベッドの上で足をバタバタさせながらぼやいた。
もうすっかり寝る準備を整えた彼女は、長い紐の先にハーピーの羽根を結んだオモチャで俺様を翻弄して遊んでいる。
なかなかどうして、このハーピーとかいう奴らのニオイは俺様の闘争本能を焚き付ける。
しかもお嬢様ときたら、緩急をつけた素早い動きとジリジリな焦らしをうまく使い分けるのもだから、ついつい追いかけ回してしまう。
「屋敷内に異常は見当たりませんでした。この近辺は野生の魔獣も多いですから、その辺で死んでしまったのではありませんか」
「そうかしら? まぁ、いっか」
ベッドサイドでお茶を淹れながらダニエルが言うと、お嬢様は呑気にあくびをして、ヒュイと紐の先端を遠くへ飛ばす。
────おらよっ! 三回転半ヒネリ!
「おぉ〜」
俺様の華麗なジャンプに、ふたりは感嘆の声をあげ拍手喝采した。
当然、俺様のお口には獲物《ハーピーの羽根》が咥えられている。
「ランスロット、すごい、すごい〜」
笑顔で手を叩くお嬢様へ向かって胸を張り、ゆっくりと彼女の座るベッドへ飛び乗ると、羽根を膝上に置いてみせる。
大喜びで俺様の体をなで回すお嬢様。
「もふもふ〜もふもふ〜」
「まったく……猫は気楽でいいですね」
ダニエルがため息を吐きながらこちらを軽く睨む。
なんだ、羨ましいのか?
お前は執事のくせにネズミの一匹も獲れないうえ、見ただけで悲鳴をあげるお粗末さだしな。
お茶ばっかり淹れるしかない、可哀想な奴よ。
だが今日は、ちょっとだけ情けをかけてやろう。
オヤツを貰った恩義がある。俺様は情に厚いからな。
「にゃん?」
俺様は可愛らしくダニエルを見つめると、お腹を出して寝転がった。
「あら、珍しい。あなたに撫でて欲しいんですって」
「ほ、ほう……それは、仕方ないですね……」
若干の警戒を見せつつも、俺様の腹に手をのばす。そうそう、そうやって優しく撫でるのだダニエル。
「む、むむ……」
ダニエルが夢中になって撫でている。そうだろう、俺様の毛はもふもふだろう。ふふん。もっと撫でよ。
そうそう……あー、お前、ちょっと下手だな。
……うん、そこじゃない、違う。
…………おい、ちょっと痛いぞ。
────……貴様ッ!
ガブッ!
「イタッッッ!!!!」
俺様が思わず噛み付くと、ダニエルが驚いて大慌てで手を引っ込め────バランスを崩し、よろける。
「ちょっ……! ダニエルっ!?」
「っわ!?」
ギャ! 誰だ、俺様のシッポを踏んだのは!
あまりの痛さに飛び上がり、すかさずベッドの下へ潜り込む。と同時、ボフン、という衝撃と共にベッドが揺れ、俺様はまたビクリと身を震わせた。
な、なんだなんだ! なんだッ!?
フーッ、フーッ。
……ここは安全か? 大丈夫か?
全身の毛を逆立てて警戒しつつ、ゆっくりと落ち着きを取り戻す。
まったく、酷い目にあったぞ!
それもこれも、せっかく仏心を出した俺様をうまく撫でれないダニエルが悪い!
不機嫌を訴えるため、そっとベッドから顔を出し見上げた。
「あ……お嬢様、も、申し訳ございません……っ!」
「……い、いいから、早くどいてちょうだい」
すると、ベッドの上でお嬢様とダニエルが何やら慌てふためきながら話している。ふたりとも顔が赤い。
お前、一体なにをやらかしたんだ……?
呆れる俺様に気付いて、ダニエルがガバリと起き上がる。
「そ、そろそろ失礼いたします。おやすみなさいませ!」
「え、あ、ちょ、ダニエ……」
そして彼は一陣の風のごとき素早さで一礼し、去って行った。
「もう……今度みっちりお仕置きしてあげるんだから」
お嬢様が枕を抱きしめ、ぷうと頬を膨らませて呟く。その頬が薔薇色に染まり瞳が潤んでいるのを見て、俺様は同じ執事として申し訳なさで頭痛がした。
まったく。ネズミが獲れないだけでなく、お嬢様に迷惑までかけおって。
しかし、お仕置きか……。
彼も頑張っていはいるが、いかんせん才能がない。お茶を淹れたり書類を整理するだけではいつまでたっても信頼は得られないのだ。
だが、そのまま放置というのは、同僚として忍びない。
「おやすみなさい、ランスロット」
思案する俺様を尻目に、お嬢様は布団に潜り込んだ。
おっと、いかんいかん。アンドレアのベッドを温めるのも俺様の役目。
するりと彼女の布団の中へ潜ると、足の辺りで丸くなる。よし、今日もポジショニングはバッチリだ。
丸くなりながら、俺様は頭の中でダニエルを鍛える方法を思案した。
そうだな……ダニエルには明日から、死んだネズミではなく弱らせたネズミを持っていく事にしよう。弱い奴から倒す練習をしていけば、ヤツとていずれは立派に狩りができるようになるはずだ。
俺様は仔猫に教育するがごとくプランを練る。
ふふ、こうなればとことん面倒を見てやろうではないか。
明日から特訓だ! なんだか楽しみになってきたぞ……。
思考を巡らせていると、お嬢様の体温と寝息のせいかすぐに眠気が襲ってくる。
俺様はそっと目を閉じた。
今日もお屋敷は平和な一日だった。
俺様という守護神がいる限り、きっと明日も平穏に違いない。