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カオティック・ダイアリー  作者: 相良徹生
第一章 黒髪は口が悪い
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やわらかなぬくもりに包まれて

 やわらかなぬくもりに包まれて俺は目覚めた。


 やたらとふわふわするベッドに寝かされている。

 ベッドの四方はカーテンで仕切られていて、カーテンのかすかな隙間からは強烈な光が漏れていた。

 妙な居心地の悪さを感じてもぞもぞと体を動かすと、途端に強烈な消毒液の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。

 今最も近寄りたくない場所――馴染みのある強烈な薬品臭――悪くて病院、最悪だと組織の密造工場の匂いだ。


 病院だと俺は児童擁護センター送り、工場だと豚の餌になる仕様だ。

 つまり、どっちにしても地獄行。


 俺は目を閉じて慎重に辺りの気配を探った。

 左下半身は脱力して全く感覚がない。

 児童擁護センターで牧師の話を聞かずに、邪悪な事やらなんやらを思い描いていた罰か?

 俺のような人間は死んだら天国ではなく、臭くてばっちい物に耳まで漬からなきゃいけないとかなんとかを鼻で笑った罰だ。

 遠くからの人の話し声で俺は夢想から一気に現実に引き戻された。

 首を動かすと声が少しだけ明瞭になった。

 ここで自分の存在を主張するのは良い選択ではない。

 俺はじっと耳を澄まして、頭の中から天国だとか罰だとかを振り払った。


「なんだってこんな事をしたんだ!」

 押し殺した男の声だった。

「仕方がなかった」

 女の声がぴしゃりと答えた。

「仕方がない? 仕方がなかったって? 今だけでいい。まともになれ。その一流の脳細胞を少しは人類のために使ってくれ」

「それは無理な相談だ」

 女の低い笑い声が響いた。男も女も訛っていて良く聞き取れない。

 俺はもう少しカーテンに近づいた。

「あの少年はちゃんとした治療を受けさせるべきだった」

 なるほど、俺の事をしゃべっている。

「ああ」

 女がつぶやいた。

「いいか、ここは病院じゃない」

 じゃあどこだよ。

 俺はもっと声が聞こえるように首を曲げた。くそっ首がつりそうだ。

「君の実験室じゃない。あの少年になにかあったらどうするつもりだったんだ? 僕も君もまずい事になるぞ」

「もうなにかあったし、十分まずい事になっている。でも君のお陰で良くなった。学校を卒業したてにしてはよくやったじゃないか、先生」

「混ぜっ返すな。死にかけた子供を連れて帰るのが君の新しい趣味か? それを僕が治療するのか? 涙を流して感謝するだろうね。自分が十年前にベーコンを縫ったのが最後の医者に治療されたと気付くまではな!」

 なるほど、この男は藪か。闇医者かもしれない。

 だが俺はこの男を応援した。鼻持ちならない女は嫌いだ。そうだろう? 

 俺は左手に力を込めた。さっぱり痺れが取れそうな兆候がない。十分まずい事態だ。 

「忘れがちだが、実はわたしも医師免許ってやつを持っている」

 女が笑いながら言った。

「医学部を卒業したのは何年前の話だろ。生きている人間を縫った事もないくせに」

「確かに」

 女はあっさり認めた。

「二度言わせるなよ」

 男が歯を食いしばって、ついでに拳を精一杯握り締めて唸る様子が手に取るようにわかった。

「ここは君の実験室じゃない」


 俺はもう一度、左手に力を込めた。

 盗み聞きに夢中になるのもいいが、そろそろこの状況を確認しないと。

 左手を懇親の力で握り締めると、点滴のチューブに真っ赤な液体が染み出した。血が逆流している! ギョッとしてチューブを引っ張り、余裕を持たせてから左手から力を抜いた。

 チューブからは相変わらずゆっくりと真っ赤な血が上っていく。

 改善なし。

 そんな時はどうするか俺は知っていた。

 もっと強く引っ張る、だ。

 もう一度チューブを引っ張ると、カーテンロールに固定されたビニールパックがベッドの脇に落ちた。と同時にひどい電子音が鳴り響きぴたりと会話が止まった。


 カーテンが引かれ、そこら中が光で真っ白に塗りつぶされる。俺は思わず目をつぶって悪態をついた。

「気が付いたか」

 ゆっくりと目を開くと女が覗き込むように俺を見つめていた。妙な雰囲気の女だった。

 白衣にだらりとウェーブがかかった黒髪を垂らしている姿はどう見ても医者に見えない。薄っすらとした笑みを浮かべ、じっと俺を見つめる灰色の瞳は愉快そうに輝いていた。

 どこかで会った事がある。

 俺が目を凝らすと女は男になにかをつぶやいて、そっと部屋を出ていった。


「僕の名前はシュゼだ」

 男は機械の操作が終わると俺に向き直りはっきりと言った。

 うわお、びっくりするほど若い男だった。

 なるほど、まだ学校出たてといったところだ。

 クセのある真っ黒の髪があちこちに跳ね上がり、髪と同じ色の瞳には疲労が色濃くにじんでいる。疲れた歴史学者見習いといった風貌だ。

「医者のシュゼ・ヨルコ」

 ベーコンしか縫った事がない。俺は声を出さずにつぶやいた。

「君を治療している。ここがどこだかわかるかな?」

「病院じゃない。なぁ、もう出ていきたいんだけど」

 呻くようつぶやくとかすれた声が出た。

「大丈夫。すぐに良くなるよ。もう十分良くなった」

 シュゼは俺の提案を無視すると、黄色のビニールパックを点滴の先端に取り付け始めた。

「銃弾三発が体中を駆け巡ったんだ。十分良くなるなんて事はない。おい、なんだよ、それ」

「今の君に必要なもの」

 くそ、この男児童擁護センターに来る役人そっくりなしゃべり方をしやがる。

「栄養剤だよ。黄色いのはブドウ糖N二剤栄養剤。赤いのは体組織蛋白MK剤。ナノマシンの分」

 さっぱりだった。シュゼは訝しげに俺を覗き込んでいる。

「知らなくても当然かな。十年前から。使われてはいるんだけど……。血液中に小型の機械を流し込んで体組織の再生を促進するんだ。当然膨大なカロリーが必要だから、栄養失調にならないように点滴で補うんだ」

 俺は鼻で笑った。

 小型の機械を血中に流すだって? 馬鹿言うなと言いたかったが我慢した。

 相手は藪でも医者だ。今は文句を言うのにふさわしい時期じゃない。特に医者が訳のわからない事をしゃべりながら中身のわからない液体を俺の体内にぶち込もうとしている時は。

 シュゼは無言で液体を点滴チューブに入れ終えると、じっくりと俺を見た。

「どこに住んでいるのかな?」

「あ?」

 俺はシュゼの顔を見ずにつぶやいた。着々と体内に取り込まれていく二色の液体が不安でしょうがない。

「君は下町の訛りがあるようだし……」

 シュゼは困ったようにぼそぼそと言った。

 なるほど、この男にとっては『不躾な質問』ってやつをしているって訳か。

「はっきり言えよ先生。お察しの通り俺はスラムにお住みになっている」

「なるほど。で、君は、その……低所得者住宅街のはずれで倒れていたって聞いたけど、ご両親は?」

「俺を生んだ女と、その女に種を蒔いたクソ野郎がご両親だとしたら俺はやつらを見たことがない」

「そうか、わかった」

 シュゼは咳払いをして続けた。

「君の名前は?」

 俺は答えずにじっと点滴のチューブを見つめていた。

 児童擁護センターを抜け出した後の暮らしに〈自分の名前〉は必要なかったし、施設で付けられた名前なんて思い出したくもない。

「少しは協力してくれないかな?」

 左手の痺れがなくなり感覚が戻ってきているのに気付き、俺は肩をすくめる事に成功した。

 シュゼは頭を振ってもう一度機械を眺めるとため息をついた。

 気取った仕草が俺の苛つきを助長しているようにしか見えない。

 ちくしょう。さっさと失せろ。

 部屋から出ていってくれさえすれば俺の方から居なくなってやるから。

「まぁいい。もうしばらく寝ているんだ。ゆっくりとな。なにかあったらそこのインターホンを鳴らせばいい。誰かくるから」

 シュゼはよろよろと立ち上がり、もう一度俺を見下ろした。

「心配するな。今はゆっくりと治す事だけを考えるんだ」


  冗談じゃない。

 俺はゆっくりとする気など毛頭もなかった。だが、次に瞬きした瞬間に猛烈な倦怠感に襲われて真っ黒な世界に落ちていった。

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