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カオティック・ダイアリー  作者: 相良徹生
第一章 黒髪は口が悪い
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まぶしくて寒い

 まぶしくて寒い。

 

 残念ながら外に出て一番に頭に浮かんだ言葉はこれだけだった。

 太陽光がさんさんと照りつけてどこもかしこ光り輝いているが、暖かさを全く感じない。

 今の季節は冬だ。間違いない。私は自分の演繹的推理に満足してガタガタと震えた。

 

 ホテルの外観は中の部屋に似つかわしいぱっとしないものだった。茶色のタイルで覆われた壁は今にも崩れかけそうで、ホテルの名らしい文字がプリントされた布が恐ろしく冷たい風にばたばたと揺れている。私は無人のフロントを一瞥した。今まで誰とも会っていない。いや、人に見られなくて幸運と言うべきか。

「帰りにフロントに寄ればいいのよ」

 マシロは伸びをして通りを見渡すとはっきりと宣言した。

「まずは服ね」

 

 私とマシロは最初に見つけた服屋に転がり込んだ。

 躊躇はなかった。凍死するほど寒かったからだ。

 店員は私を見た瞬間に身構えた。

 当然の反応だ。素足にジーンズをはき、シーツを巻いただけの男がガタガタ震えながら入口に立っていたのだから。

 店にたどり着く五分間で凍死しなかったのが奇跡だ。逮捕されなかったのも。どうせ警察に行くのなら、せめて服を着て出向きたい。

 私は服屋の入り口に立ちすくみ、どうやったら怪しまれずに服を買えるか考えた。

 挨拶は?

「やぁ、最新のジャケットを出してくれないか? 見ての通り半裸なんだ」とかなんとか。

 冗談だろう。

 もう少し無害そうな挨拶があるはずだ。



 マシロがもぞもぞしている私をひじで押した。

 子鹿みたいに怯えているのもここまで。私は――残念ながら――いい大人だった。少なくとも見かけは。そして私の持っているカードが使えるという保障がないのを除けば。


「こんにちは。あの、服が入用なんですが」私は精一杯何気ない口調を装った。

 主演男優賞もののさり気なさだったと思う。

「だろうね」

 店員はジロジロと私を見たままカウンターの奥に下がった。もしかしたら銃を取り出してくるのかも知れない。

「さっさと買いましょうよ」

 マシロは服を掻き分けて奥へ進んでいる。

 逞しい。

 さすが見ず知らずの男の部屋に潜り込んだだけはある。

 私は一番に目に付いた暖かそうなセーターとジャケットを手に取った。どちらもグレーだ。マシロは私の選んだ服を見て首を振った。

「絶望的な地味さね。灰色の男でも目指すつもり?」

「今の私にはぴったりだと思います」

「まあいいけど。あなたが思う男に必要な物すべてをどうぞ」

 店員はいつの間にかカウンターの奥から一時も私から目を離さずに警戒している。服を選ぶには最高のシチュエーションだ。

 私は思い切ってカゴを掴むと、デザイン性と自分のセンスを無視してできるだけ暖かそうな服を選び始めた。

 二回試着をした後、私はぴったりのジャケットを見つけた。どうやら私は平均的な成人男性より身長がかなり高いらしい。この事は私の惨めな自尊心を少しだけ慰めた。


「どうでしょう。少しは文明人らしく見えますか?」

 私は試着室から出ると胸を張り少女に向かってお辞儀をした。

 マシロは自信満々の私を盛大なため息で迎えてくれた。間違っても羨望の眼差しではない。

「そのグレーのセーターはあなたの瞳と髪の色に最高にマッチしていない」

 マシロが呻いた。

「お似合いですよ。お客様」

 店員は口先だけでつぶやいた。味方は彼だけのようだ。

「マシロはそう思っていないようですね?」

「はい?」

「あの娘の事です」

 マシロが店の奥に走っていく様子が見える。やれやれ、連れだと思われたくないほど私のファッションセンスは悪いのか? 

「えぇ、えぇ、女というものは、男が自分で選んだ服には徹底的に批判するもんですよ」

 なるほどね。

「カゴの物はすべて頂きます。えーと、支払いはカードで」

 私はさりげなくカードを差し出したが、内心は今にも逃げ出したい気分だった。

 まぁ、待て。逃げるのはまだだ。

 このカードが使えないとなると、神に懺悔しながら逃げることになるだろうから。

 私の動揺をよそに店員は山となった服のバーコードを読み込み、カードをスキャンした。電子音が鳴り響くたびに、私はびくりと体を強張らせた。電子音一つ一つがこのカードは盗品で、私が犯罪者だと告発しているように聞こえる。

 店員が無言で緑色のパネルを差し出した。

「なんでしょう」

 私は内心の動揺を悟られないようにさり気なく首をかしげた。

「サインをお願いします」

 逃げよう。真っ青な顔で後ずさる前に店員は私の手首を掴むと、右手を板に押し付けた。

 ピー――――死刑判決! 

「指紋認証ですよ」

 店員は無愛想に言うと端末のボタンをいくつか押してから、服を袋に詰めだした。

 私はこの試験を合格したってことか?

 最後の操作は警察を呼んでいるってことではなくて? 

「支払いはできていますよね?」

「もちろん」

 店員は初めて笑顔らしきものを浮かべ、いっぱいになった紙袋を押し付けた。



「やったわね」

 試練から十分後、私達は大型のショッピングモールにいた。つまり、マシロが指差すあれこれをカゴに放り込んでいる。

「君は逃げ出したくせに」

 私は新品のマフラーを顎で引っ込めながら答えた。

「わたしは警察が来ていないか、出口を見張っていたのよ」

 マシロがクスクスと笑いながら言う。これには私もつられて笑ってしまった。

「そりゃどうも」

「これはコーヒー」

 マシロは黒っぽい粉の塊を指差した。

「覚えている? あなたも飲んだことがあるはずよ。いい香りがする苦い物」

 苦いものをどうしてわざわざ飲むのですか? と、いう質問を私は飲み込んだ。なにか理由があって飲むのだろう。

 これからは理論的推理というものを実践していかなければならない。

「コーヒーは買うべきよ」

 マシロは顎を上げた。やれやれ。

「君はまばたき一つでなんでも好きな物が手に入るって訳だ」

 マシロは屈託のない笑顔を私に向けた。それが答えか。

 私は肩をすくめてコーヒーの粉末をカゴに入れた。

 マシロは恐ろしい女主人っぷりを発揮して私に食料を買い占めさせた。

 果たして、これがすべてあの古ぼけた小さな冷蔵庫に入るのか、それより私の口座にはこれを買えるだけの金が残っているのかとそわそわし始めた時、マシロの物欲いや食欲は収まったようだった。これだけ買い込めば、何ヶ月も篭城できるだろう。

 次はホテルと交渉を行わなければならない。ずっしりと重い紙袋を抱え私達はホテルへと戻った。



 ホテルのフロントもロビーと同様も閑散としていた。

 私がカウンターの呼び鈴を数度押すと、奥の部屋から眠そうな若い男がのっそりと現れた。

「なんの御用でしょう?」

「504号室に泊まっているものです」

 私は部屋のカードキーを見せてはっきりと言った。

「ああ、シャワーはすぐにお直しします。ですが部屋の変更はできません。満室なんです」

「シャワー?」

「シャワー」

 フロント係の男は繰り返した。なんのことだ? シャワーは確かにぬるかった。

「シャワーのことではなくて……」

 私はゆっくりと息を吸った。いまさら躊躇ってどうする?

「私の滞在日数はどのくらいでしょうか」

 フロント係は一瞬眉を上げると、今度は眉をしかめて私の全身をじろじろと観察した。ああ、服を着ていて良かった。

「と、言うと?」

「何日ここに泊まっていたのか、気になりまして……。今後もしばらく滞在しようと思っています」

 私はマシロに言われた通りにクレジットカードをカウンターに設置されたチップリーダーに近づかせた。しかるべき数値を打ち込んで、カードをかざすとチップが振り込まれるらしい。

「しばらくお待ちください」

 フロントは薄っすらとした笑みを顔に貼り付けて、面倒そうに手元のモニタを一瞥すると、なにやら打ち込み始めた。

「お客様は十月三十一日から滞在されていて、本日で八日目になります」

 そんなに? 

「いつまで、滞在予定でしたか? できればしばらく伸ばしたいんだ。支払いはするから」

「その必要はありませんよ。今月末までの滞在費はすでに頂いております」

「誰から? えーと、どうやって?」

 フロント係はまたしても眉を上げた。

「現金で頂いています」

 現金だって? コイン一枚すら部屋には落ちていなかった。

「払ったのは私でしたか? その、この部屋に泊まっている男の名前を教えてください」

 フロント係は探るように私を見つめている。私はなるべく正常そうな人間の表情を貼り付けてから、チップリーダーに数値を打ち込んでカードをかざした。相場はわからないがどうみても大金だ。フロント係は驚いてチップと私の顔を交互に見た。

「えーと、十月三十一日は私の担当ではありませんでした。あと、うちは記帳は必要ないんです。でもちゃんと営業許可はもらってますよ」

「十月三十一日のフロント担当と話をさせてください」

 もしかしたら私を覚えているかもしれない。それに防犯カメラに支払った人間が映っているはずだ……と言いかけて、私は口ごもった。警察にでもなったつもりか? これ以上頭のおかしな男と思われると、すぐにでも追い出されるかもしれない。

 フロント係は残念そうに言った。

「無理です。あいつは五日前にオーナーを殴って逮捕されたから」

 私は呻いた。

「十年は出てこないですよ。オーナー自慢の馬鹿でかい青銅の壷で殴ったから。後、シャワーはすぐに治します」

 私は礼らしきものをつぶやいて、とぼとぼと部屋に戻った。



 金属音で私は我に返った。

 いつの間にかホテルの部屋でソファーに座り込んでいる。私は眠っていたのだろうか。キッチンで踊るように動き回る少女に気付いて。私は息を吐き出した。

 なるほど、状況は変わらずか。

 そして古ぼけたテーブルに並んだ見事な料理に息を飲んだ。

「これはこれは」

 マシロは私に気付いてにっこりと微笑むと大げさにお辞儀をした。

「起きたわね。さぁ、座って! 食事にしましょう」

 私は笑いながら椅子に座り、少女と自分のグラスに水を注いだ。

 うっとりと深呼吸すると、肺中が芳ばしい香りに満たされた。急に空腹が耐え切れなくなってきた。


 マシロはグラスを持ち上げる真似をすると歌うように言った。

「では、始めましょう。わたし達の明日に!」

 私はグラスを持ち上げかけて――ふととどまった。なんだ? なにかおかしい。

「あの……」

 急に意識が明確になる。なんでもっと早く気付かなかったんだ? おかしなことになっている。

「なに?」

「『わたし達の明日へ』って言いましたか?」

「うん」

「『わたし達の』?」少女が頷いた。急に冷たい塊が胃の辺りにこみ上がってきた。

「あの……君は、そのー、いつまでここにいるつもりなんです?」

 マシロはまばたきをすると、ゾッとするほど愛らしい笑みを浮かべた。

「もちろん、わたしの気がすむか、あなたに追い出されるまでよ。でも、あなたはこんな夜更けに女の子を追い出したりしないわよね?」

 私はどう見てもまだ日も暮れていない窓の外を一瞥した。

 未成年を部屋に入れたりすると、なにか法律的にまずい事になるのではないか? 現代法には疎いが私の中の世間常識らしいなにかが――全く信用できないというのは置いといて――めまぐるしく違法だ違法だ非道徳的だと叫んでいる。

 私はゆっくりと息を吐いて、言うべき言葉を捜した。

「ご両親が心配しますよ」

 自己分析その一、私は独創的な発想のできない退屈な男だ。

「そりゃあね。あっちが家出したと気付くかわからないけど」

「家出? 君は家出をしたのですか? それも問題ですが、君を部屋に入れた段階で私は芳しくない状況に陥っているような気がするのですが」

「記憶喪失以上に芳しくない状況って存在すると思う? そりゃあ、礼儀正しく『さっさと失せろ』って言ってくれれば出ていくけど、どうする? わたしを追い出す?」

 私は口ごもって目の前で香気を発しているほかほかの食事を見下ろした。

 最悪なことに、顔を上げると少女の潤んだ瞳と目が合った。

 こんな状況で、選択を迫られるとは思わなかった。つまり『さっさと失せろ』の丁寧な言い方を探している間に、胃と親切心が勝手にしゃべっていた。

「わかりました、気がすむまでここにいて結構です」

 マシロはにっこりと笑い片目をつむった。

「では、意見が一致したところでそろそろ乾杯しましょうか」

「あと一つ、君の学校ではそんな口調で話すように教育しているのですか? 君いくつ?」

「質問が二つよ。わたしは十三歳。それとわたしの母校を馬鹿にしないでもらえる? 世界的に有名な学者がいっぱい出てるんだから」

「どうだか」

「今のは聞かなかったことにするわ。それでは改めて、わたし達の明日に、乾杯!」

  私は高々とグラスを掲げ、思いっきり飲み干した。

 そのままグラスを床に叩きつけたい気分だった。始まりの合図として。


 その夜、私は古びたソファーに横になって、どうやったらこの長い体がソファーにちょうどよく納まるかを研究していた。

 突然目覚めた紳士の自覚によってベッドはマシロに譲り、少女は軽く眉を上げる事で当然の権利である事を主張した。

 私は今夜何百回目かになる寝返りらしきものを試した。

 古いスプリングがギィギィ音をたて、全く寝付ける気がしない。

 大して食べていないのに胃がむかむかするし、口の中がほのかに苦いのも気になって仕方がない。

 夕食の後、私は初めてコーヒーを飲んだ。

 確かによい香りだったが、あまりの苦さに二口も飲めずに白旗を上げた。

 マシロはコーヒーを水のように飲み、その飲みっぷりといったら見ていた私の口の中も苦くなるほどだった。

 私は空が白めるまで寝付けなかったが、それから泥のように眠りに落ちた。

 夢は見なかった。



 次の日は今まで生きていた中で最高の朝だった。頭痛もなく、なんといっても服を着ている。だが、幸せな気分はそれまでだった。朝一番、私は真っ黒の尿をした。

 私はもう二度とコーヒーを飲まないことを誓った。

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