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カオティック・ダイアリー  作者: 相良徹生
第一章 黒髪は口が悪い
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私は少女のお陰で現実に向き合う事に決めた

 私は少女のお陰で現実に向き合う事に決めた。

 少しは。

 積極的ではないにしろ。少なくともバスルームにこもり身支度を整える理由はできた。


 ぬるいシャワーでべったりと染み付いた汗を流すと、頭痛はどうにか我慢できる程度に収まった。

 ずいぶん放置されている髭を剃ると、見慣れぬ男が鏡の中に立っていた。


 瞳は気味が悪いほど鮮やかな空色で、肌は目の下のクマがひどく目立つ病的な白さだった。

 まぁ、私が陥っている状況を考えれば当然かもしれない。


 私は恐る恐る自分の頬を撫で上げた。

 残念なのはどう贔屓目で見ても私の年齢は二十歳を越えていそうだ、ということだ。脳みその中は文字通り生まれたてだが、顔も体はすっかり大人だった。

 最も好意的に見て二十台前半、良心に基づいて正直な意見を口にすれば三十台前半。間違っても若くない。

 だが、改めて見ると私は悪くない顔をしていた。いかにも三日は食べ物を口にしていない記憶を失った男の顔だったが、なかなか整った顔立ちをしている。自分の顔に好感を持ち始める。これはなかなかいい兆候だ。

 いや、もしかしたら悪い兆候かも。

 自分を美男子だと思い始めるとは……。


 私はもう一方の意見を黙殺した。少しは自己憐憫に浸ってもよいはずだ。


 口元までのびたクリーム色に近い金色の髪を耳にかけると、額の派手な傷に気が付いた。左眉から耳の上まで皮膚がえぐれたようにへこんでいる。ずいぶん古い傷のようで白っぽい皮膚が引きつっているだけで痛みはない。

 私は呻きたくなるのを堪えて鏡に向かって笑ってみせた。


「なかなかいいじゃないか。野性的だぜ」


 鏡の中には引きつった男がいた。

 私はため息をついて緩み始めたシーツを体に手繰り寄せた。そしてシーツずるずると引きずって部屋に戻った。



 少女は驚くべき方法で私を懐柔した。

 私がシャワーを浴びた後、ソファーに座り込んでうとうとしている間に食事の支度をしたのだ。

 美味しそうな香りで目覚めた時には、私は彼女の事が好きになりかけていた。

 これは危険だ。


「どうぞ」

 私はマシロの言葉を辛抱強く待ってから、遠慮なく出されたスープを貪り始めた。もごもごと礼を言う。

「スープを飲むのが初めてって感じね」

「それはある意味正しい」

 私は租借しながら答えた。心の中の良識が無作法を警告したが、私は慎み深くそれを無視した。命の源より大事な物があるか? 

「記憶がないのです」

 私はぽつりと言った。

 世の中の人間は自分が記憶喪失だとどうやって人に礼儀正しく伝えているのだろうか。

「おじさんは記憶喪失なの?」

「おじさん?」

「そう。おじさん。あなたの事」


 残念ながら事実だ。

 私は傷ついたのを隠して目の前のスープに集中した。

 もしかしたら少し食べて血色がよくなれば別人のように若々しくなるかもしれない、という馬鹿げた考えが頭をかすめたのだ。


「ええと、まぁ。どうも私には記憶がないようです」


 私は改めてマシロをじっと見つめ、彼女の瞳の色が左右で違うことに気付きギョッとした。

 彼女の右目は真っ黒の虹彩が印象的な黒、左目が――なんだこの色は……金色の斑点が散った若草色だ。色ガラスのようにキラキラと輝きながら、瞳の奥まで透き通っている。

 右目が真っ黒なら左目も黒いと思い込んでいたのか? やれやれどうやら重症らしい。


 じっと見つめていることに気付いたのかマシロが眉を上げた。

「なに?」

「いえ、その、えー……」

 人の身体的特徴を指摘する事は無作法だろうか。少なくとも私は無作法だと思う。だが、今は自分の感覚が全く信用できない。

「君は左右の瞳の色が違いますね」

 私はずばりと言ってみた。

「ああ、これね」

 マシロは盛大に眉をしかめた。

「これだけ色が違うと目立つのよね。よく言われるわ」

 どうやら私はしくじったようだ。

「失礼しました」

「気にしないで」

 気にするなだと? くそっ自分が野蛮人になった気分だ。

「今頃気付くなんて、そうとうお腹が減っていたのね」

 マシロがクスクスと笑う。

 私はなにか気の利いた言葉を発しようとしたが何も思い浮かばなかった。どうやら記憶とともに社会性も失ったようで。なんとか別の話題をひねり出さなければ。


「それで、ここはどこですか?」

 単純だが、いい質問だ! 

「さぁ」

 彼女の答えに私は眉を上げた。

「ずいぶんな言い方ですね。人の家に上がりこんでおいて」

「正確にはここはおじさんの家じゃなくて、おじさんが泊っている……と思われるホテルの一室よ」

「ホテル?」

「気付かなかった? ホテルでしょ? ここ、ホテル。安ホテル」


 私はゆっくりと部屋を見渡した。

 簡素なつくりだ。狭いバスルーム、申し訳ない程度にあるキッチンと冷蔵庫。家具といえばチッキンの横にあるテーブルと、マットレスだけになったベッド、古ぼけた色のソファーだけだ。

 私はなるほど、とぼんやりつぶやいた。


「それより、自分の事を話して。どうも困っているらしいから」

「確かに」

 それは間違いない。

「なんで記憶喪失になったの?」

「それがわかったら……」

 いや、たとえわかったとしても、どうだというんだ? 私はスプーンを置き水を一気に飲み干した。

「順序立てて話しましょう」

「賛成」

 マシロがにっこりと笑って手を上げた。

「私は三日前に目覚めました――たぶん三日くらい前」

 私は繰り返した。

「でもここがどこで、自分がなぜここで眠っていたのか全く記憶がありません」

「しかも全裸で」

「その通り」

 私はそっと体に巻き付けたシーツをたぐり寄せた。また都合の悪い物がはみ出しているかもしれない。


 いつの間にか空になっていた皿に二缶目のスープが注がれていた。私は猛然と食べだした。

「三日間なにをしていたの? 私が来るまではなにも食べていなかったようだけど」

「なにもしていません」

「なにも?」

「そう。最初の一日は自分の事を考えるより、頭痛と痺れに気を取られてひたすら寝ていました。昨日もそうです。ようやくこの状況がなにかおかしいと認めようと思った時に、君が話しかけてきたのです。そうそう、ここはどこのホテルですか?」

 マシロが言いにくそうに肩をすくめた。

「それは自分の目で確かめた方がいいと思う。食事が終わったら買出しに行った方がいいんじゃない? ここにある食料といったら戦中の保存食の残りばかりだし」

 戦中? 私は疑問を無視してもっと身近な問題を指摘した。

「あいにく私は無一文のようだし、着ているものといったらこのシーツだけです。今の流行がヌードだったら問題ありませんが」

「わたしの目に間違いがなければ……ベッドの下にあるのはあなたの服だと思う」


 私は半信半疑でベッドの下を覗き込んだ。暗がりに藍色の筒状のものがしわくちゃになって押し込まれている。

埃まみれになった塊を引っ張り出すと、それはどうにかズボンの形を保っているモノだった。


「……ジーンズ?」

「そのようね」

 マシロがぽつりとつぶやいた。 

 私はもっとないかとベッドの下に手を突っ込んでみたが埃を舞い立たせる作用しか起さなかった。


「ジーンズしかない。私は上半身裸でこのホテルまで来てチェックインしたのでしょうか」

「全裸よりましでしょう」

 マシロがさらりと言う。

「ホテルの受付に聞けばいいじゃない。あなたが何日ここにいるか知らないけど、宿泊費を払った人間がいるはずでしょ。名前もわかるだろうし」

 私は驚愕の表情でマシロを見つめた。

「君は天才だ」

「どういたしまして」

「さて……」


 咳払いで通じなかったので私はやんわりとマシロに後ろを向いているように伝え、少女が慎み深く窓の外を眺めているうちにすばやくジーンズをはいた。

 やっと文明人らしくなってきた。

 少なくとも下半身は。

 埃っぽく、ゴワゴワのデニム地からなんとか皺を取ろうと手を滑らせると、薄く硬いモノにぶち当たった。


「ポケットになにか入っています」

 言うが早いかマシロが振り返り、興味津々で近づいてくる。

 私は少女の手が伸びるより先になにかを引っ張り出した。


 それは手のひらにすっぽりと収まる大きさのプラスチックカードだった。茜色の飾り文字を目で追いながら、私は息が詰まるような感覚を味わった。

 なにか書いてあるのか一切理解できない。

 文字が読めないだと? ちくしょう! こんなことってあるか? 

 なんとか脳みそに浮かんだ悪態を飲み込んで、カードをマシロに振ってみせる。


「クレジットカードね。シュペールベルグって書いてある」

「クレジットカードってお金が入っているカードですよね」

 マシロが口笛を吹いた。

「私もそれだったらいいな、と思っていました」

 マシロの視線が私とカードを何度か往復した後、彼女は控えめに発言した。

「あなたのじゃないかしら。おめでとう。無一文卒業ね」

「私の……」

 私は馬鹿みたいに押し黙ったままカードを見つめた。こうすればなにかを思い出すかのように。もちろん、なにも閃きはしなかった。

「あなたのズボンのポケットから出てきたから」

 マシロは咳払いをして続けた。

「呆けてないで、あなたの意見を聞かせてよ」

「ええ、ええ。わかっています。だけど、まず問題があって……」

 マシロが眉を上げて首をかしげた。こんな目で見られると自分が愚か者になった気分になる。まぁ、その条件には十分当て嵌まっているんだろうけど。

「まず、このズボンに入っていたからといって私のものとは限りません」

 マシロが口を開くのをさえぎって私は続けた。

「なぜなら、このズボンは私のものだと限らないからです」

 マシロが鼻を鳴らしたのが聞こえる。

「失礼、続けてどうぞ」

「で、仮にこのカードが私のものだとして……中身が入っているとは限らない」

「なるほど」

「君の意見は?」

「わたしはあなたほど悲観主義じゃない。ベッドの下に潜り込んでいたズボンはベッドで寝ていた男のものよ。しかも全裸だったらなおさらね。だからそのジーンズはあなたの物だし、ポケット中に入っていたカードもあなたの物よ。そして中身が入っていないカードを持ち歩く人間はいない。ついでに言うと、実際にそのカードがあなたの物か中身がどれだけあるかなんてすぐわかる」

「まさか」


 マシロがいたずらっぽく眉を上げた。

「店でそのカードを使うのよ。あなたもいつまでも半裸って訳にもいかないし、ホテルのフロントに事情を聞かないといけない。外に出るのよ」

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