強烈な頭痛で私のまどろみは乱された
十一月 六日
強烈な頭痛で私のまどろみは乱された。
正確にいえば三日前から乱されているが、それを上回る倦怠感に負けてただひたすら眠っていたのだ。
ちくしょう、頭が痛い。
意識のすべてが痛みに塗りつぶされなにも考えたくないが、それももう終わりにしなければならない。そろそろ私の直面した現実ってやつに向き合わなければ。
呻きながらゆっくりと体を起すと、遠くから牛の鳴き声が聞こえた。あれが私の声じゃありませんように……。
私はぼんやりとした意識を無理やり纏め上げて部屋にあるただ一つの窓を恨めしく見つめた。ベッドの中で痛みに悶えていた時は湿った冷たい風を垂れ流し続けていたのに、今ではまぶし過ぎる日の光を私の目に叩き込んでいる。
今は朝か昼だ。少なくとも夜ではない。
私は自分の演繹的推理に満足して――そしてむなしくなってから視線を下にもっていった。
薄々気付いていたが私は全裸だった。
つまり、裸でマットレスだけのベッドにシーツ一枚に包まっていた。だが私は男らしくくじけなかった。まだ重大な事実に向き合っていない。
私は目を閉じて十秒数えてから開いた。まるでこうすることで失った記憶、私に関するなにもかもを思い出すかのように。
なにも閃きはしなかった。
薄々気付いていたが私は一切の記憶がなくなっていた。
つまり、自分が誰か全くわからなかった。正確には記憶を失っているこの状態がなにか根本的におかしいと理解できる程度に私の記憶は失われていた。
だが自分が記憶喪失者だと自覚できる事がなんの助けになる?
私はもう一度目を閉じてゆっくりと開いた。
効果なし。
よし、まぶたをパタパタやっても無駄だということはわかった。ぐずぐずとシーツに包まっているのはもう終わりだ。
「ちくしょう、なんだってんだ」
くそっ、品のない言葉は流暢にしゃべれるなんて……。
ともかく落ち着いて考えるべきだ。頭を抱えてゆっくりと呼吸すると頭痛が少しだけ和らいだ。
そう、悪態をつくより深呼吸した方が健康に良いのは間違いない。このままベッドでなにもかも忘れて寝直すのは非常に魅力的だが、さっさと頭を働かせない事にはなにもかも進展がないことは明らかだ。
「独りで絶望してもいいことはない」
私は自分に言い聞かせるようにはっきりと言った。
よし、少々かすれていて自分の声だという自覚にも欠けるが声は出る。
口から吐き出される息がため息に変わらないうちに私は慌てて続けた。
「なにより惨めだ」
「そうね、ちなみにあなたは独りじゃないけど」
ぎょっとして頭をふると、ベッドのすぐそばに少女が立っていた。
もう一度目を閉じてからゆっくりと開く。
状況は変わっていなかった。
私は全裸で、猛烈な頭痛で牛のように呻いており、記憶がなく、目の前に可愛らしい少女がいる。
小さい。
この馬鹿げた一言が、彼女の第一印象だった。
どう見ても十二、三歳の子供だ。
奇妙な女の子だった。可愛らしい顔には目立つ傷跡が走っている。
傷跡に負けない、つり気味の大きな瞳はガラスのようにきらめていた。
真っ黒な髪の大半は、目を閉じて切られたように長さが不揃いだ。光沢のある淡いグリーンのワンピースを着ていて、同じ色のコートの襟飾りは彼女の白い息でかすかに揺れていた。
私は呆然と彼女を見つめていた。いつからここにいたのかわからない。さっき窓を見つめた時には部屋に誰もいなかったはずだ。と、思う。たぶん。四十パーセントの確率で。まったく自分の感覚が信用できないけれど。
「う、えー……あー、やあ」
私はなるべく人畜無害そうに挨拶した。
「おはよう。うなされていたけど大丈夫?」
見かけよりは大人びた声で答えると、少女はインクのように黒い瞳をきらめかせ私を覗き込んだ。
瞳の中には狼狽しきって今にも窓から飛び出しそうな男が映っていた。落ち着け、あれは私だ!
「ええ、まぁ」
私はもごもごとつぶやいた。くそっしっかりしろ。
「ここは君の部屋ですか?」
我ながら間の抜けた質問だと思った。少女は笑って首を振った。なるほど。
「君は私の……」
知り合いですか……と言いかけて、自分が全裸だということを思い出した。おいおい、まさか、冗談じゃない。
「その……知り合いではないですよね?」
「ちがうわ」
私は張り詰めていた息を吐き出して、生まれて初めて神に感謝した。自らの過去を呪って窓から飛び降りなくてもいいようだ。今はまだ。
「五時間前からわたしはあなたを見ていたけど、あなたはずっと寝ていたの。これじゃ知り合いって事にはならないわよね?」
私はなんとか笑みらしきものを浮かべた。もしかしたら引きつっていただけかもしれない。
「君は誰でしょうか?」
「わたしは、えーと、マシロっていうの。追われているのよ。かくまってもらえたら助かるわ」
「冗談でしょう?」
マシロと名乗った少女はニヤリと笑って肩をすくめた。
「あのドア、鍵開いてたわよ」
私は部屋にある唯一の扉に注意を向けた。
「ドア」
「そう、ドア」少女が繰り返す。
「鍵?」
「そう、鍵」
マシロは怪訝そうに首をかしげ髪をかき上げた。やれやれ、そうとう参っているように見えるのだろう。実際その通りだが。
彼女はゆっくり私の全身を一瞥すると今度は息を飲んで顔を赤らめた。
「ねぇ、前を隠してくれない?」
私は慌ててシーツを掻き合わせた。耳が猛烈に熱くなり私の方がはるかに赤くなっているのがわかった。