プロローグ
三月 十五日
僕の母親の遺言を届けにきた軍人達がなにやらつぶやいている声が遠くから聞こえる。
軍人二人に、牧師一人。軍が家族に死亡告知をする時のお決まりのトリオだ。僕は牧師のお決まりの慰めを神妙な顔で頷き続け、やっと彼らが帰ると自分の部屋に戻った。
扉とすべての窓のブラインドを閉じると、僕は部屋の隅に座り込みぼんやりとカードを見つめた。
それは手にすっぽりと収まる大きさのカード式音声再生装置で、軍特有の簡素な文体で〈再生〉としか書かれていなかった。
僕はゆっくりと文字の部分を押した。微かな光と共に虹彩認証が走る。機械音の後、明瞭だが無機質な女の声が流れた。
「この音声データは連合法第百二十六条A、B、Rによって保護されています。二次媒体への録音はできません」
どうやら音声データ自体に特殊な加工をしているらしい。
僕の左人工内耳ではピーという機械音だけしか聞こえてこない。僕は左耳を塞いだ。そして右の耳が天然だという事に感謝した。
「第三者への譲渡はできません。このカードを分解しないでください。違反者には連合法に基づいた罰則があります。九十秒間の再生を二回繰り返した後、この音声データは破棄されます。再生する場合は再生ボタンを二回押してください。再生しない場合は再生ボタンを一回押してください。この音声データの保存期間は――」僕はためらうことなくボタンを二度押した。
雑音にまぎれ不規則なくぐもった音が聞こえる。誰かがマイクに触っているのだろう。
「あー……」
彼女の声だった。僕は叫び出しそうになるのを抑えた。
「あー……えーと。わたしだ。元気か。突然だがわたしともう会うことはない。諦めろ。じゃあな」
これだけ?
僕はカードをじっと見つめた。視線に光学的熱量があるなら穴が開いていただろう。
これで終わり?
たったこれだけか?
ふい笑みがこみ上げてくる。あの人らしいクソみたいな遺言じゃねえか。今生の別れが『じゃあな』だと?
馬鹿らしいにもほどがある。
目頭が熱くなり、涙があふれ出した。
「……あぁ、それと」
音声が続き僕は息を飲んだ。
「お前がパン職人になりたいってのを聞いた時、本当に嬉しかった。それに面白かった。わたしの子供がパン職人だって? 冗談だろう? だがわたしが生きてきた中で一番嬉しかった。頑張れよ。じゃあな」
……これで終わりだった。
本当に終わりだった。同じ音声がもう一度繰り返された後、なにも反応しないベージュのカードだけが残った。
僕はそれを叩き割りキッチンで燃やした。
結局、僕に残されたものはたった三十秒の音声だけだった。そして、それももう二度と再生されることはなくなった。