菫の花と凍てつく雨
そうして、俺が春日野さんを避けた生活を始めて幾週間が経過し、時期はもう六月──梅雨になろうとしていた。
その間、学校では高校に入って初めての定期テストがあったりしてそれなりに忙しい生活を送っていたが、やはり好きな人の姿を見れなかったり連絡も取れなかったりする生活は、心にどこか大きな穴が空いてしまったようでただただ虚しかった。
「でさー、その時俺は言ったわけよ、俺はお前の3サイズだって知ってるんだぜ? ってな」
「絶対引かれるだろそれ」
砂霧とのバカ話にも何となく身が入らず、うわの空が丸出しになっていないか一抹の不安さえ感じる。
「……赤坂よお」
「何だよ」
「何かあったのか? もしかして春日野櫻にフラれでもしたか? いやそうじゃなくても何だって言ってくれよな、この恋愛マスターの俺に!」
「恋愛マスターってお前……彼女も出来た事ないだろうが」
「バレたか。で、どうしたのよ。ここ何週間もずっと同じ調子だしさ、やっぱ鏑木紫月に何かされたんじゃないのか」
高校に入って初めて知り合った友人だと言うのに、この男は幼なじみかと思うくらい、俺の機微に鋭く反応してくる。やっぱり彼女が出来た事がない理由、ホモだからじゃないのか?
「別に……。ただ春日野さんに告白して、振られたってだけだよ」
「やっぱりかー、まああんなに可愛い子だしな! 彼氏の一人や二人くらいいるよな! 平平凡凡なお前が振られるのも仕方ないって! な? 元気出せよ! まだ女は星の数ほどいるぞ?」
流石に少しくるものがあったが、これが砂霧という男だ。彼なりに励まそうとしているんだろう。小さいものではあるが、嘘をついてしまった事が少し胸に刺さる。
「まあそんな赤坂君の為に、俺が良いものをあげよう」
「良いもの?」
何だろう。
「じゃーん! これよ!」
その手に握られていたものは──
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演奏者達が、汗を垂らしながらその手に握る楽器を掻き鳴らしていた。
爆音で流れる音楽と、その音とパフォーマンスに熱狂する観客たち。──つまるところ、ライブである。
「マジかよ……ユーハのライブチケットじゃん」
そう、砂霧がその手に握っていたのは、今週末に市の中心街にあるライブハウスでイベントを行うバンド、「ヴィユーハ」のライブチケットであった。
ヴィユーハは今をときめく大人気バンドで、今やテレビでも引っ張りだこ。出す曲出す曲がオリコン上位に食い込んでいく程である。「ユーハ」というのは、ヴィユーハのヴィが発音しにくい事からファンの間でついた略称だ。
何でも、ボーカルがこの街の出身だそうで、それでこんな大きくもない街のライブハウスでイベントをやる運びになったらしい。それでも、この街は都心からのアクセスがそこまで不便ではないというだけあり、小さいライブながらチケットの競争率は決して低くなかったはずだ。どうして砂霧がこれを……
「ふっふっふ、驚いたか赤坂よ」
「正直めっちゃ驚いてる」
「だろ? もっと褒め称えて良いんだぜ?」
「何でお前がそんなの持ってるんだよ」
「知りたいか?」
全力で顔を縦に揺らす。
「実はな……普通に当選したんだよ。運で。コネとか転売とかそういうの一切無いんだ」
「無いのかよ!」
インド人もびっくりだよ!
「まあまあ、そう言うなよ。実はこのチケット……二枚あるんだ」
砂霧はその手に持っているチケットに力を込め、スライドさせる。するとそこには同じデザインのチケットがもう一枚出てくる。
「傷心のお前にプレゼントだ。本当は女の子と行きたかったんだけど、生憎今週末までにライブに一緒に行ってくれる彼女なんて出来そうに無いからな、特別だぞ」
「サム様ーーーー!」
「サムじゃねえ、砂霧だ」
という顛末だ。当の砂霧は今、俺の隣で心底嬉しそうな顔でリズムに合わせてペンライトを振っている。
俺も負けじと砂霧に借りたペンライトを振りまくって盛り上がり、ライブは大盛況のうちにその幕を閉じた。
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「来てよかったろ?」
「最っ高だった……」
寒さからくるものではない震えで呂律が回らない。
最高のライブだった。勿論、大好きなバンドのライブだからというのもあるが、それ以上に観客全員が一体となって盛り上がる、あの感じがたまらなく気持ちよくて、ライブに参加したのが初となる俺はその興奮から冷めずにいた。
「それで赤坂の気が晴れたなら俺は良かったよ」
やっぱりこいつホモなんじゃなかろうか?
「いやほんと、誘ってくれてありがとな、砂霧。これが無かったら正直頭がどうにかなってたかもしれない」
「お前の頭はいつもどうかしてるだろ。後俺は砂霧じゃねえサムだ。……あ」
「やっぱサムじゃねえかお前! よおサム! 元気かー!?」
砂霧の頭を掴んでグリグリこね回す。
「バッカお前言い間違えただけだって! やめろバカ、セットが崩れるだろ!」
「ライブで頭振りすぎてとっくに崩れてるよそんなもん」
「ハハッ、そうだな」
こうして男水入らずで遊ぶのも久しぶりで、何だかとても楽しかった。いや俺はホモではないけどね。
「じゃあまたなー! もう学校でクヨクヨしてんじゃねえぞ!」
「わかってるよ! じゃあなー!」
砂霧と別れ、駅に向かおうとする途中で、ふと今日発売の漫画を買い忘れていた事を思い出す。
「あー……どうしよ。家の周り本屋ないし、途中で電車降りるのも面倒くさいからな、ここで買ってくか」
踵を返して、龍泉書店がある方向へと歩き始めた。
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手元には、四冊の漫画が入った龍泉書店印の小さい紙袋。無事漫画を買う事は出来たので改めて駅に向かって歩こうとしたが、既にライブの熱は大分冷めていたので、バスに乗ろうと図書館方向へ行く事にした。
「ねえ、今二人なの? 可愛いねー、良かったら俺達と遊ぼうよ」
ナンパだ。しかもガラが悪そうな。ああいうのには関わるとロクなことが無いからな、無視するに限る。
そう思いつつもチラッと声が聞こえた方向に目をやる。
するとそこには目を疑うような光景が飛び込んできて。
深く思考するよりも先に、体が動いていた。
「何やってんだよお前ら!」
「あぁん?」
「んだテメエ」
三人のヤンキーの内、一人がガンを飛ばしてくるが関係ない。俺は持っていた紙袋でヤンキーの一人の頭を思いきり横薙ぎした。
重い手応えの後、ヤンキーは思わず尻餅をつく。
「赤坂君!」
そう、絡まれていたのは春日野さんと鏑木紫月だったのだ。
ところが、鏑木紫月の様子がいつもと違う。あまりにも、違いすぎる。
顔面蒼白で歯をガタガタと鳴らし、自らの両腕でその身体を抱えていた。
「殺す……お前絶対殺してやるからなぁ!?」
殴られたヤンキーは腰を上げ、俺に殴りかかってくる。
「グフッ……」
鳩尾近くを拳で打ち抜かれ、声にならない悲鳴を上げる。よろけた所に立て続けに蹴りが入り、完全に倒れ込んでしまった。そこに、仲間のヤンキーが集り、まるでサッカーボールのように俺の身体は地に転がされ続けた。
「赤坂君! ……あ、貴方達こんな事してただで済むと思ってるんですか?」
春日野さんは恐怖を振り切ってヤンキー達に抗議の声を上げる。
「あぁん? こいつが先に殴りかかってきたんじゃねえか……よっ!」
「カハッ!」
次々に蹴りかかってくるヤンキー達の攻撃から逃れる事も出来ず、抵抗する事すら叶わず、身体をいいようにいたぶられ続ける。でもこれでいいんだ。注意を春日野さん達から引き離すことが出来たから。
「か……春日野さん、逃げて……」
「でも!」
「早く!」
「……ッ!」
離れていく春日野さん達の背中を確認する。春日野さん達を逃がす事には成功したみたいだ。……だけどこいつらの機嫌を直すことは出来なさそうだな。
「何とか言えよゴラァ!」
ヤンキーの中でも特に体格に優れた男が、筋肉質な脚を容赦無く俺の身体に埋め込んでくる。内蔵が揺さぶられ、口の中に鉄の味がじわりと広がっていく。
「可愛い娘にも逃げられるしよぉ……ただで済むと思うんじゃねえぞ!」
細身で、長い髪を下品な金色に染め上げた長身の男が、怒りに声を震わせながら叫ぶ。
「そうっすよ! もっとやってやって下さいよセンパイ!」
明らかに立場が弱そうで、パシリとして使われていそうな小柄な男が金髪に同調する。
もはや言葉を発する元気は無く、身を固めて耐え忍ぶしかなくなってしまう。人気の無いこの道では、大声で助けを求めるなんていう真似は徒労に終わってしまう事だろう。人を呼んでも助けが期待出来ない状況でそんな事をして、こいつらの機嫌を更に損ねてしまうような事態は避けなければならない。
でも……まずい。意識が朦朧としてきた。このままここで死ぬんだろうか──
「こいつもう動かねえしよお、放っておいてさっきの娘たち追いかけようぜぇ?」
金髪は、矢庭にそんな事を言い始める。
「お、いいじゃん。こんな所人に見られてもマズイしよ、さっさとずらかるか。もう十分痛めつけたし……なっ!」
体格に優れた……デブは、仕上げの一発といった様子で背中に蹴りを入れる。
「へへへ、流石センパイっすねぇ! やる事が悪どいっす!」
パシリは最後までパシリだ。
「……おい、今あの子達を追いかける、っつったか」
自分でもどこから出しているのかわからない声が、喉の奥から溢れ出す。身体のどこにも残っていないはずの力が、どこからか湧き出す。よろめきながらも立ち上がり、俺は奴らを睨みつけた。
「こいつ……まだ立てんのかよ?」
「な……何か様子がやべえっすよセンパイ!」
「構うこたぁねえ! ボロボロで何も出来やしねえよ!」
姿勢を低くして、金髪の懐に飛び込む。そのままその手にかぶりつき、顎に全ての力を集中させる。
「ああああああああああああああっ!? 痛え、やめろお前離せよ! おい! ひ、ひい! 千切れる、千切れる!」
口の中に鉄の味が広がり、少し肉の裂ける感触がする。
「テンメェ……ッ!」
デブが金髪から俺を引き離そうと躍起になる。しかし、俺は決して金髪から離れようとしない。このまま親指を食いちぎってやるくらいの気持ちでしがみつく。
「やめ、止めてくれぇ! 止めてください! 指が、指が無くな……ヒッ!」
再び鳩尾に入る拳によって、一瞬顎の力が緩み、とうとう俺は金髪から引き剥がされてしまう。
「こ、こいつやべえよ! さっさと逃げんぞオイ!」
……はは、逃げてやがんの。情けねえったらありゃしない……
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「赤坂君!」
春日野さんの声に、飛びかけていた意識がハッと戻ってくる。
「か、春日野さん……?」
「人を呼んできました! 怪我……無いわけないですよね。ごめんなさい、私達のせいで」
周りを見ると野次馬が出来ており、何だ喧嘩かー?やらの声が飛び交っていた。何人呼んできたんだよ……
「だ、だいじょう……痛っ」
「ま、待っててくださいね。すぐ救急車を呼びますから……」
「大丈夫だから、心配しないで」
携帯を取り出した春日野さんを慌てて制止する。
「でも!」
「大丈夫だから、ね? それに、ごめんね。かっこよく助けたかったんだけど、こんなボコボコにされちゃって。すごくかっこ悪いところ見せちゃったな」
にこやかに、あくまで無事であるという事をアピールしたかった。そこ少し本音が入り交じる。
「そんな……! 赤坂君はその、とても、かっこよかった……ですよ?」
何でだろうか、春日野さんは少し頬を赤く染めながら俺の行為を素直に讃えて見せる。……そんな反応返されると凄いドキドキするんだけど。
「とりあえず、場所移そうか……」
「そ、そうですね」
春日野さんが引き連れてきた野次馬の皆さんに頭を下げ、その場を後にした。
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「どうしたんだよ、鏑木」
「……」
先程からずっとこの調子だ。鏑木はヤンキーに絡まれていたあの時から顔は真っ青なままで、まるで何かから身を守っているかのような……
「赤坂君、紫月ちゃんはその……そっとしておいてあげて下さい。後で私が家まで送り届けますので」
「……そっか、わかった」
それにしても、様子がおかしいなんてものじゃない。まるで別人だ。高圧的で、いつでも俺を罵倒してきて、春日野さんを守る為なら何でもしそうなあの鏑木紫月が、たかだかヤンキーに絡まれた程度でこうもなるのか。
いや絶対におかしい。変だ。一体どうしてしまったのだろうか……。俺ですら心配せざるを得ない程に、どこからどう見ても彼女の様子は尋常ではなかった。
「赤坂……君って言ったわよね、貴方」
鏑木紫月がその重い口をようやく開く。
「櫻の事……頼んでもいいかしら」
鏑木紫月はそれだけを言うと、どこかへ走り去ろうとした。……いや、走り出した。
「紫月ちゃん!?」
「春日野さん!」
それを追いかけようとする春日野さんを止めて、続けて言う。
「……俺に行かせてくれ」
「でも……」
何か迷ったような表情を見せる春日野さんに、ダメ押しの一言を添える。
「いいから、任せて」
「……いえ、今の紫月ちゃんは赤坂君には任せられません」
「……ッ! どうして!」
「逆に!」
春日野さんは、俺の言葉を遮るように、叫ぶ。この小さな身体のどこからそんな迫力が出るのかと思うほどに、必死に、叫ぶ。
「何で、赤坂君はここで紫月ちゃんを追おうとするん、ですか……?」
「それは……」
……わからない。何故だろうか。反射的に、鏑木を追いかけようとする春日野さんを呼び止めてしまった。
何故だか、俺が行かないといけないと思った。
「……わからない」
「なら……っ! 紫月ちゃんの事を、多分誰よりも理解出来ている私が行くしかないんです! 何で止めたりしたんですか!?」
「俺が行かないといけないと、思った……」
「だから……何で……そうなるんですか……?」
春日野さんはもう涙を流す寸前といった表情だった。鏑木の事が心配で仕方ないといった表情。
「この前、学校で最後に話した時、俺がちょっとキツく言いかけた時、あいつ……身体を庇うような素振りを見せたんだ」
「……!」
「それが何なのかはわからない……けど。今日のあいつの態度は、それに関係あるんじゃないかと、思って……」
「……ふぅ。まあいいでしょう」
春日野さんは、そこで肩の力をすぅっと抜いた。
「……わかりました。紫月ちゃんの事、お願いします。────私の、親友を……どうか、お願いします。」
曇が晴れたような表情で、春日野さんはそう言う。
「とりあえず春日野さん、家まで送ろうか?」
「そんな事言ってる場合ですか! 早く紫月ちゃんを見つけてあげてください!」
そうだ、春日野さんは図書館の近くに住んでるんだった。となればやる事は一つだ。
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どこにいるんだあいつ……
もうかれこれ2時間は街中を探し回ったが、鏑木紫月らしい人影を見つける事は出来なかった。もうこの街にはいないのかもしれない。
そうなるともう心当たりが……と思ったところで、そういえば鏑木は高校の近くに住んでいるらしい事に思い至る。
もしかしたらもう家に帰ろうとしているのかもしれない。
俺はそのまま移動した。
以前鏑木を尾行した際に通ったルートをそのままなぞる。……前はこの角を曲がった竹林の脇で鏑木に見つかって、そのまま帰ったっけな。
なんて感傷に浸りながらその角を曲がる。前は気付かなかったけど竹林の脇に公園なんてあるんだな。小さいけど。
──その公園のブランコに、鏑木紫月は音も無く腰掛けていた。
「おい、鏑木」
「……何で、あんたがここにいるのよ。また尾行でもしてたっていうの? 全然気付かなかったわ。腕を上げたわね?」
彼女はあっけらかんと、そう答える。
「してないよ。ずっと探してたんだ」
「…………何で?」
「わかんないけど」
「何よそれ」
鏑木はフフッ、と微かに笑う。こいつが笑ったところ、初めて見たかもしれない。
「酷い顔ね」
「誰のせいだと思ってんだよ」
顔の傷を見てそう言う彼女に、俺は俺なりの反抗をしてみせる。
「……少なくとも、私のせいでは無いわね」
その瞬間、彼女を纏う空気が変わり、冗談で誤魔化せる雰囲気ではなくなってしまう。
「あーあ……全部、見られちゃった」
ポツ、ポツと雨が降り出す。
「私の弱いところ」
その雨は一粒、また一粒と確実にその数を増していき、いつの間にか本降りになっていた。
「降ってきちゃったわね」
鏑木紫月は濡れた髪を掻き上げながら、謂う。
雫に濡れた目元は。滴に濡れた、薄く開く口元は。俺にだってわかるほどそこに諦観の色を示していて。
「私の家に来ない?話したい事があるの」
それは思いがけない誘いだった。