桜の花とすみれ月
ジリジリと照り付ける太陽の光に、じんわりと肌が焦がされていくような感覚を覚えた。汗が滲み、溜まった汗は雫となって頬を滑り落ちていく。
時節は初夏から仲夏へと移り変わり、もう準備期間は終わったのだと、これから本格的な夏へと移行していくのだという事実を、頭上の太陽から宣告されているかのような気分だった。
俺は手で光を遮りながら、薄らと開いた指の間から奴を睨みつける。
「七月ってこうも暑かったかなぁ……」
半袖のYシャツは、下に着た一枚のTシャツが吸収し尽くした汗をさらに吸い上げ、触ればすぐ分かる程度には水分を含んでしまっていた。
こうなってくると、今すぐにでも帰ってシャワーを浴びて着替えて、あわよくばクーラーの効いた部屋で漫画でも読みながらゴロゴロしたいという、夏の現代人の頭の中に漏れなく存在する理想郷が宿主に緊急帰還命令を出してくる。
『天国がそこにはあるぞ』
俺の声をした何者かが直接脳内に語りかけてくる。
『お菓子もマンガもいっぱいあるよ』
……誘拐犯の常套句かっての。そんな甘い誘惑を強靭な理性で以て押さえつけて、夏の高校生達は嫌々ながらも、今日も今日とてこの学舎に足を運ぶのである。しかし教室が涼しくなければ今すぐにでも理想郷に飛んで帰る所だった。お前が冷暖房完備であった事に感謝するがよい、学園よ。
「おはよーっす」
「お、赤坂、来たな?」
いつも教室に入ってすぐに、この憎たらしく、且つ憎めない男、砂霧は話しかけてくる。……何か言いたげな顔をしているのがいつもとは違うところなのだが。
「……な、何だよ? 頼み事があるって顔だな」
「いやー! 我が親友は察しが良くて助かるな!」
「引き受けるとは一言も言ってないからな!?」
「まあまあ、とりあえず話だけでも聞いてくれって! 俺が演劇部員っていうのはまあご存知の通りだと思うんだが」
「……いや、初耳だけど」
「え、うそん!?」
「そんな嘘つくかよ。サムお前演劇部だったのか」
衝撃の、という程でもないがそこそこに意外な事実をここにきて初めて知った事に、軽くショックを受けてしまう。
「俺、お前の事なら何でも分かってると思ってたのに……所属してる部活すら知らなかったなんて、そんなの……親友とは言えないよな。もうお前には話しかけないようにしてやるから。じゃあな」
「いや待て待て待て! 面倒事から逃げようとしてるだけじゃねえか!?」
「チッ。というか今面倒事って認めたよな!? 全力で断りたくなってきたんだけど」
「まあ待て、話はこれからだからよ」
「おう、まあ話だけなら聞いてやらん事もないけどな。話だけなら。話だけならな」
「念を押しすぎだろ」
「どうせロクな事じゃないだろ」
「二週間後、うちの高校学園祭だろ?」
学園祭。我が校では日葵祭と呼ばれる学校行事だ。通常秋頃に開催される事が多いイメージだが、うちでは初夏から仲夏にかかる時期に開催される事が通例となっていた。
「……それで? 演劇部と学園祭がどうして俺に繋がるんだ?」
「ふははは、実は演目に対して役者の数が足りてなくてだな……クラスメイトとかに声かけて欲しいと部長に頼まれているのさ」
「いや何でちょっと不敵なの? まあいいけど。ちょっとした脇役だろ? 部活入ってないから暇だしな」
「おお、助かるぜ! ほんと、少ししかセリフ無いし、いなければいなくても劇は回るくらいのチョイ役ではあるんだけど、やっぱりいるのといないのじゃトンカツ定食にしば漬けが付いてるか付いてないかくらいの差はあるからなー!」
……それ、かなり微妙な差異でしかないと思うんだけど、部外者に手伝ってもらうほど重要なのだろうか?
まあ演劇の事なんて俺にはこれっぽっちも分からないし、きっと俺には分からない重要な意味があるんだろう。
「ちなみにどんな劇なんだ?」
「んーどんな、か……メインは男女の友情を描いた青春モノ、みたいな感じ?」
「なるほどな……」
「あ、ちなみになんだが」
「?」
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時は流れて放課後。本番まであまり時間が無いということで、当日から早速練習に合流する運びとなった。
「あ……赤坂君!?」
『何と、今回の劇にはあの春日野櫻も参加するのだ!』
『な、何だってーッ!?』
『しかも何と、何とだ。メインヒロイン格だ!』
『な、何だってーッ!?』
『恋愛モノじゃなくて良かったな、親友よ!』
『良かった! ほんと良かった!』
『衣装は凝ってるらしいからな! 当日を楽しみにしているがよい!』
……そこにいたのは何と、春日野さんだった。どうやら、彼女もそのクラスメイトから演劇へと誘われたらしい。春日野さんも部活には所属しておらず、断る理由も無いため参加した、という事らしいが……
「ぐ、偶然だね春日野さん……」
「うぇ!? は、はい! え、えっと……その……頑張りましょうね!」
「……?」
何故だか少し様子がおかしかった。……まあ、春日野さんも演劇なんて初めてだろうし、緊張で空回りしてるのかもしれない。
「さーくらちゃんっ!」
「ひゃっ!」
「んもー櫻ちゃんってば、ほんっと可愛いんだからぁー、お人形さんみたいー」
「五十嵐さん!? えっとあの、ちょっと、や、やめて下さいくすぐったいですってばー!」
「ほれほれー」
「も、もう! 練習始めますよ! あ、あの、赤坂君も頑張って下さいね!」
「ん、春日野さんもね」
あの五十嵐、と呼ばれていた女生徒がどうやら春日野さんのクラスメイトの子らしい。……少し羨ましい。
「おーい赤坂ぁ! こっちも練習始めんぞー」
「おう、今行く!」
そうだ、俺は演劇をやりに来たんだ。決して春日野さんに釣られてやってきたわけではない。気を取り直して、自分の役柄についての説明を受けることに──
「あの赤坂君って男の子、もしかして春日野さんのこれー?」
「ち、違いますよー!」
「顔真っ赤にしちゃってほんと初心で可愛いなぁこの子は! 持ち帰ってもいいかなぁ?」
「だ、ダメです!」
……少々気になる会話が聞こえたが、雑念を振り切って俺は自分の役柄に集中する事にした。
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翌日の練習も、同じように放課後から始まった。大会前などでない限り、運動部と同じような朝練をする事はあまりないようだ。
まあ練習に参加するとはいっても、俺の役は砂霧の言う通り本当にチョイ役で、二週間も練習する必要のあるものかと言えば別段そんな事はないのだが。
舞台に整列し、演劇部員達の指示に沿って、発声練習や滑舌練習と言った基礎的な練習から、なんと柔軟体操まで行う。時には体力を養うべく走り込みをする事もあるようで、素人目には文化系と運動系が融合したような部活だと思わされる。吹奏楽部と近いかもしれない。吹奏楽部にも所属していたことはないが。
そんな基礎練習を終えると、劇本編の練習へと移っていく。
上演時間は50分という事だが、それでも厚さとしてはかなりのものだ。場面を区切ってワンシーン毎に細かく練習を重ねていく彼らから目を逸らし、台本に視線を落とす。
A4用紙30枚程度だろうか。この量のセリフを短期間で覚え、演出担当による演技指導を受け、そして本番へ──という流れは、とてもやる気のない人間には真似出来ないだろうと、チョイ役ながらに思う。
俺の出演するシーンは劇が終盤に差し掛かって暗転する直前のシーンなので、通しの練習ともなると、ノンストップで進行したとしてもスタートから40分前後。しかし、練習ということで中途中途でカットが入り、演技指導や演出の調整が入る。照明練習の関係でバミテを貼ったりといった作業も並行して行うため、実際にセリフを喋るシーンが訪れるのは、練習開始から一時間ほど経過した頃という事になるのだ。
まあつまり何が言いたいのかと言えば、ほとんどの時間を台本を眺めるか、または劇の練習風景を眺めるか、という時間に充てる事になる。
これを何日も続けていれば、俺はきっと主人公のセリフだって全部覚えられてしまうだろう。
「赤坂ー? どうだよ、練習は」
「どうもこうもねえだろ、ほとんど何もすることないからずっと台本読んでるよ」
「だよな、まあ部外の人間に頼むわけだしそんな重い役は任せられないからな。部員にもやりたいって人は多いし。オーディションする事もあるんだぜ」
「へー……」
重い役は任せられない、か……。台本に落とした視線を上げ、春日野さんを見つめる。
「春日野さんだって部外の人間だよな……?」
「だってほら彼女は、可愛いし」
「ブサイクで悪かったなぁ!」
心外だ。いや、顔がいいという自負はないけど。いやでもそこまで酷くはない……よな?
「あー嘘冗談だって! 泣きそうな顔をするな気持ち悪い!」
「だって……」
「まあお前がブサイクだからチョイ役になったっていうのは勘違いだよ。でも春日野さんはなるべくしてヒロインになったんだ」
「……というと?」
「この台本のヒロイン、身長が150cm未満っていう設定がついてるんだ」
「ああ、なるほど……」
「まああくまで設定だし? 実際そこまでこだわる必要は全く無いんだけどな、身近にそういう女の子はいないかって演出担当がうるさくて。それで五十嵐さんが春日野さんを誘ったらオッケー貰えちゃった、って流れなんだ」
「まあ確かに、春日野さんくらい小さい女の子なんてそうたくさんはいないからなぁ……おまけにあの愛くるしさと来たもんだ」
「そういうこと。まあそんな気にする事じゃねえよ」
そう言うと砂霧はスクっと立ち上がり、踵を返して外へと出ようとする。
「あ、おいどこ行くんだよ」
「あー俺、大道具担当なんだわ」
✱✱✱✱
「遂にこの日がやってきてしまった……」
時が経つのは早いもので、演劇部に顔を出すようになってから二週間目の朝。つまり、日葵祭の当日である。
自らのセリフが二言三言である事を考えても尚、衆目の前に自分の姿を晒すというのは、程度の差はあれどそれなりの緊張を伴うものだ。それが初舞台であるならば尚更である。
だが、引き受けた以上は最後までやり通そう。それがほんの端役であろうとも、舞台を動かす一つの歯車ということには変わりが無いのだから。気持ちを引き締める。
演劇部の発表は校内の体育館を使って行われる。普段練習場所として与えられているステージをそのまま使う事が出来るのだ。
タイムテーブル上ではトリを飾る吹奏楽部の一つ手前、15時前後だろうか。リハーサルを行う関係上お昼頃から集まり始めるだろうが、少なくとも午前中は自由な時間がありそうだった。
『第42回 日葵祭』
派手な装飾が施されたアーチを潜る。
まだ開場前とはいえ、朝早くから準備に勤しむ生徒達の活気で、既に学校中がお祭りムードであった。
「あ、赤坂君! おはようございます!」
「おはよう、赤坂君」
背後から飛んでくる聞き慣れた声に振り返ると、そこにいたのは見慣れた二人。
「おはよう、春日野さん、鏑木」
「つ、遂にこの日がやってきてしまったんですね……! 私、もう油断したらセリフが落ちちゃいそうで……」
「櫻、あんなに頑張ってたじゃない。今日もきっと大丈夫よ」
「ありがとう、紫月ちゃん!」
「そうだよ、春日野さんならきっと」
「貴方は櫻に話しかけないでくれるかしら?」
「急に苛烈じゃない!?」
鏑木は冗談よ、とクスッと笑ってみせる。
「心臓に悪い冗談はやめて欲しいんだが」
「えっと、精一杯の冗談のつもりなのだけど」
「お前が言うと冗談に聞こえないんだよな、特にな?」
「その件は……その……悪かったと、思ってるわよ……な、何よその目は!?」
モジモジと手を絡ませ、顔を真っ赤にする鏑木。何というかこう、嗜虐心をそそられそうになるのをグッと堪える。
「むー……私、やっぱりお邪魔虫さんなんでしょうか……?」
「そんなことない! ないから! 春日野さんも変な冗談やめてよ!」
「……強ち、冗談でもないんですけどね」
春日野さんの表情に翳りが見えたような気がした。そして、ボソッと呟いたその一言の真意を汲み取ることは叶わない。思わず聞き返してしまう。
「え? えっと……春日野さん?」
「あ、いえ! 何でもないですよ? それより赤坂君、劇は午後からですけど、午前中は空いていたりしますか?」
不自然な程、急に明るさを取り戻した春日野さんは突然にそんな事を聞いてくる。
「う、うん、ガッツリ暇を持て余してるけど」
「なら良かったです! 私は紫月ちゃんと一緒に回るつもりなんですけど、良かったらご一緒しませんか?」
それは、願ってもいない誘いだった。
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『只今より、第42回、日葵祭を開催致します! 皆さん、本日は夏の暑さに負けず、楽しんで参りましょう!』
校内中から拍手と歓声が巻き起こる。年に一度のお祭り、日葵祭の始まりである。
「よーっす赤坂、いよいよ本番だな」
そこに、緊張感とは無縁そうな男が声をかけてくる。
「ハイ、サム。君は緊張してなさそうだね?」
「サムじゃねえ砂霧だ。日常英会話の和訳みたいなのやめろ」
「こうでもしないと緊張感で自由時間を満喫出来る気がしない」
「メンタルが弱すぎなのでは……?」
セリフの短さと緊張感の大きさが全く比例していない事は認めよう。本作でのセリフの長さと緊張感の大きさについての相関関係を表すならば、きっと真っ先に外れ値扱いされるデータである。
「ま、どんな端役であれ、緊張感を持って臨んでくれるのはこっちとしてもありがたいこった」
「……ちなみに、今更だけど何でお前は演劇部に入ったんだ?」
「え? そりゃあ美人の先輩がいたからだけど……それが? あ、ちなみに裏方をやってるのは客席側から美少女達を眺めたいからだぞ」
「お前がそういうキャラなの、すっかり忘れてたよ……」
「俺はいつでも美少女の為に生き、美少女の為に行動し、美少女の為に死ぬ男だからな!」
「……鏑木の時、死に怯えてた男のセリフとは思えないな」
砂霧渾身のキメ顔を軽くいなしていると、教室の外で俺を手招きする春日野さんと、その後ろでチラチラとこちらの様子を伺う鏑木が視界の端に映る。
「あ、悪い。俺午前中は春日野さん達と学園祭見て回る予定になってるから。じゃあまた午後な」
「え、赤坂ばっかりずるくない?」
砂霧の恨めしそうな顔を尻目に、俺は春日野さん達と初めての学園祭へ繰り出すのだった。
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「学園祭って、何をすればいいのかしら……?」
「何、って……鏑木は学園祭初めてか?」
「え、えぇ……私達の中学校では無かったもの。そうよね、櫻?」
「…………」
「……櫻?」
「ふぇ? ええっと、何? 紫月ちゃん」
……まただ。どこか上の空というか、意識が別のどこかに飛んでいってしまっているような。
「……もう。櫻、貴女練習のし過ぎで疲れてるんじゃないの? 昨日は何時に寝たの?」
「えっと……四時くらい、かな?」
「はあ、呆れた。ほとんど朝じゃない。出番まで保健室で寝てきたら?」
「だ、ダメだよ!」
春日野さんの語気が少し強くなり、俺達は思わず顔を見合わせる。
「春日野さん、大丈夫……? 無理はしないでね?」
「は、はい! 大丈夫です! 一日くらい寝なくても死にはしませんから!」
「心配だなぁ……」
「ご心配には及びませんよ? 元気だけが取り柄ですから! それに何より、今日というこの日をずっと心待ちにしていたんです。保健室で寝てなんていられません!」
そう言って春日野さんはにっこりと笑顔を作ってみせる。確かに、そこに無理をしているような様子は微塵も感じられなかった。
「本当に無理は禁物よ、櫻? 貴女の身に何かあったら私……」
「もう! 紫月ちゃんも赤坂君も心配しすぎですってば……あ、りんご飴屋さんがありますよ? 私りんご飴大好きなんです!」
そうは言いつつ少なからず睡眠不足も影響しているだろうが、原因は多分、それだけじゃない。それは鈍感な俺でも薄ら……いや、ハッキリと感じ取れるようなものだった。それが何かまでは分からないのだが。
鏑木なら何か分かるのだろうか。ちらりと鏑木を見やる。そして偶然視線が合い、パッと逸らされる。
鏑木は顔を真っ赤にした後、何か深く思慮するような素振りを見せ、そして大きな溜息をついてみせた。
とうとうその溜息の真意については分からなかったが、春日野さんの様子について心当たりがあるようにも見えた。……しかし、それを訊くべく己の口が開かれる事は無かった。
『演劇部員及びその関係者は、至急部室に集合して下さい』
お祭り騒ぎな校内で雑踏に紛れてもなお、耳にハッキリと届いたそのアナウンスを聞いてしまっては。
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「みんな、本当にすまない……ッ!」
部室にて、キョトンとした表情で棒立ちをする部員達に、ただただ深く頭を下げ続ける男がいた。
ネクタイピンの色を見るに、最上級生という事はわかる。
他にわかる事と言えば、その男の脚には分厚いギプスが嵌められており、松葉杖をついて歩いているらしいという事であった。
「田丸先輩、顔を上げて下さい……! 先輩は悪くないですよ!」
「そ、そうですよ! 先輩は決して……」
涙で顔をぐしゃぐしゃにした後輩部員達は、必死になって田丸と呼ばれた先輩部員に声をかける。
「で、でも! 今朝もう少し気を付けていれば、もう少し早く起きていれば、こんな事にはならずに済んだかもしれない! 全部、俺のせいだ……俺が、俺の不注意が、舞台を、お前らの努力の結晶を全部台無しにしてしまった……ッ! 本当に申し訳ない……ッ!」
田丸先輩も堪えきれずにといった様子で涙腺を決壊させる。お祭ムードにより校内全てが活気づき、快然たるムードに包まれる中、この演劇部室にだけは、重苦しく、暗澹たる空気が立ち込めていた。
田丸先輩の慟哭を最後に、もはや誰一人として言葉を発する者はいない。
……それもそのはずだった。
だって、この劇においての主人公役を担当していたのは、他でもないこの松葉杖の男だったのだから。
それが意味するのは、劇の中止。
俺にとって二週間でも、一ヶ月、いやもっとかもしれない。演劇部員達はそれだけの長い時間をこの学園祭当日の為に注ぎ込んできたのだ。
そんな入念な準備、練習の期間は、主人公役が当日に怪我をする、ただそれだけの事で水泡と化してしまったのだ。
だからと言って、怪我をした先輩を謗ることなど他の部員に出来はしない。出来るわけがない。もしかすれば、明日は我が身かもしれない。そして何より、部員達はこの先輩が人一倍練習に精を出していた事を知っていた。
大会の度に貪欲な程に重要な役を獲得しにいき、その度役作りに努力を惜しまず、客席から自分はどう映っているのか、そんな研究をしていた事もよく知っていた。春の大会を終え、学園祭を期に三年生が引退してしまう為、これが高校生活最後の舞台であることもよく理解っていた。
それがよく理解出来ているからこそ、部員達の間には諦念が広がる。他に主人公役を練習していた部員はいない。役者の数は元々足りていない為、補欠の概念などない。主役が務まるのはこの先輩しかいないのだ。各々の顔面に悲しみと絶望の仮面を貼り付けながら、諦めの境地へと達していく。
「先輩……」
思わず、口が開いてしまう。だが、口を開かずにはいられなかった。この絶望に支配されきった箱に風穴を開けたくて仕方がなくなっていた。
「主人公、俺に任せてもらえないでしょうか」
「君は……確か砂霧君が連れてきた……」
「赤坂です」
「赤坂君、君は……言葉が悪いかもしれないけどセリフが数行で終わってしまう役柄じゃないか。主人公を練習していたわけでもない。本当に演じきることが出来るのか?」
その疑念はご最もだった。確かに、俺の登場シーンなどたかが知れている。時間にして5分も舞台上にいないような脇役中の脇役だ。
だからこそ、俺には先輩の演技を見学する時間が、宛もなくただ台本を読み耽るだけの時間が、たっぷりと与えられていた。
台詞を空で暗唱出来るくらい覚えていたつもりだった。演技は直接指導されたわけでは無いので自信があると言えば嘘になるが、それでも最大限の努力は惜しみたくない。部員の人達の努力をふいにしたくない。……何より、春日野さんが積み上げてきた練習を、睡眠時間を削ってまでした努力を無駄にしたくない。彼女の悲しむ顔を見るくらいなら、俺は舞台上でピエロにもなろう。そんな不退転の覚悟を持っての申し出だった。俺は答える。
「出来ます。俺にやらせて下さい」
「……わかった、他に出来る部員もいない。君に任せよう。……ただ、台無しにした張本人が言うのもなんだけどね、中途半端な演技で客を白けさせるようなら俺は絶対に君を許さないからな」
「はい!」
本当なら自分が立つはずだった板の上に、素人の後輩を立たせざるを得ないという状況。悔しくないはずが無い。そんな気持ちを考えれば、先輩の厳し過ぎるとも取れる言葉は胸にストンと落ちるものだった。
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ゆっくりと、そして一定のペースで緞帳は上がる。板付きとして立っていた俺と春日野さんの姿は、足元から徐々に衆目に晒されていく。
しかしそんな俺達の姿は照明に照らされる事なく、冒頭のシーンは声だけの演技だ。
『寂しいけど、これでお別れなんだね』
『でもいつかまた会えるよ。今はまだ小学生だから無理だけど、いつか、必ず』
『絶対、絶対だよ……!? 例え何年かかったとしても、高校生になっても、大学生になっても、大人になったとしても! 絶対、君とまた会いたい! 絶対会いに行く!』
『うん、約束だよ。私と、貴方、二人だけの約束』
『私達は』
『僕達は』
『『一生友達だよ』』
春日野さんが袖に捌け、地明かりが点灯する。
『この街に来たのは何年ぶりかな……そういえば、小学生の頃仲が良かった向日葵、元気にしてるかなぁ。今頃何しているんだろう』
上手側から舞台中央に向かって歩いていく俺は、下手側から走ってくる春日野さんとぶつかり、倒れる。
『いたた……す、すみません! お怪我は……って! 公人!?』
『えっ、もしかして向日葵……?』
『うんそうだよ! 凄く大きくなってるからビックリした!』
『向日葵は……あまり変わってないな。背とか』
『もう! 気にしてるのに!』
『ははは』
滞りなく進行していく舞台に、俺の緊張感もどんどん解れていく。春日野さんの練習の成果はハッキリと出ているようで、完全にリードしてもらっている形だ。いざという時のプロンプターも袖に控えており、これならいけそうだと、台詞をトチって笑いものになる事は無さそうだと、強く思う。そしてそのまま、舞台はクライマックスへと突入していく。
『あそこで公人が来てなかったら、私今頃アイドルになって舞台でチヤホヤされてたかもしれないのよ?』
『誰がアイドルになるって? このちんちくりんが』
『気にしてるって言ってるじゃない、もう!』
春日野さんはそこで一呼吸置いて、続ける。
「ねえ公人、あの日の事、覚えてる?」
……台詞を間違えているのだろうか、台本に無いはずの台詞が飛び出てくる。袖の部員も、焦っているのか対応出来ていなかった。完全にアドリブで返すしかない状況だった。
「えっと、何のことだっけ」
……正解だったのだろうか? とりあえず、お茶を濁しておく。それを見た春日野さんは台詞を間違えているのにも関わらず、クスッと笑い、台詞を続けようとする。心做しか、いつもの春日野さんの面影がそこには見えた気がした。
「もう、忘れたの? 私達が出会った日のことよ。学校の階段の上でぶつかって、貴方がバラまいた荷物を私が拾い集めた事があったでしょう?」
……ああ。間違いない。これは、文言を間違えられた向日葵の台詞などではない。役柄としての向日葵を通して伝わる、春日野さん本人の言葉そのものだった。
「あ、ああ……」
「思えばその時からかもしれない。その後も色々あったけれど、決め手になったのは、悪いおじさんから守ってくれた時。本当に嬉しかった。その時は友達が助け合うのは当たり前だろ、なんて笑っていたけど、本心では全然違う事を考えてたの」
「私、貴方の事が好き。世界中の誰よりも、貴方の事が好きなの」
身体が震える。春日野さんが、俺の事を……好き。上手く飲み込めない。いつから? 最初から。俺達はずっと、両想いだったんだ。
嬉しい。心の底から、嬉しい。だからこそ、俺もアドリブで本心を伝えるべきだと思った。……伝えなきゃいけないと思った。
「……ありがとう。俺も実はお前の事が好き」
「……だった」
口をついて出るのはそんな過去形の言葉。
「……うん。わかってたよ。貴方の視線、わかりやすいんだもの」
『これからも、ずっと友達だよ』
春日野さん──いや、向日葵は、にへらと笑う。ジャスト50分。最後の最後の台詞だけはしっかりと台本に沿っていた。春日野さんの頬を伝う雫は、消えゆくシーリングライトの明かりに僅かにキラリと反射したのみで、涙に込められた本当の意味を知るのは、恐らく自分のみなのだろう。
下がっていく緞帳、喝采の拍手、その中で独り、罪悪感に駆られている。
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すっかり日が傾いてオレンジ色に染まる屋上で、校庭のキャンプファイアーを見つめる鏑木紫月を見つけたのは、演劇部の後始末を終えて、部室での反省会もそこそこに抜け出してきてからの事だった。
「あんな大勢の前で告白なんて、櫻もやるわよね」
「……観客はみんな、セリフだと思ってるけどな」
「そうかしら? 少なくとも私は、そうは思わなかった」
フェンスに寄りかかる鏑木の長い髪は屋上に吹く強い風に靡き、キラキラと煌めく。
「……何で、櫻の告白を断ったりしたの? 好きだったんでしょう? ラブレターを盗られて激昂する程度には」
「お前な」
「アハハ、冗談よ。いえ、冗談にもならないわよね。あの頃の私は、本当に、どうかしていた。それだけは本当に心の底から謝らせて欲しい。本当にごめんなさい」
寄りかかっていたフェンスから身を離して振り向いた鏑木は、とても素直に頭を下げる。
「いや、その話はもう良いんだ。むしろ、あの頃のお前の行動に今は感謝すらしてる」
「……どういう意味?」
「そのままの意味だよ。あれが無ければ、鏑木が春日野さんへの告白を邪魔してこなければ、俺は鏑木、お前と出会うことは無かったんだ」
屋上に一陣の風が吹く。
「鏑木──いや紫月。俺はお前が好きだ」
流れる空気が変わるのを感じる。
「……本当に? 貴方は、櫻が好きだったんじゃ、ないの……?」
「舞台上でも言ったけど、好き……だった」
「……過去形、なのね」
「気付いたのはついさっきだった。憧れの女の子と両想いだった。やっと想いが通じた。嬉しい。そう思った瞬間ふと感じた。俺は本当に春日野さんの事が好きなのかって。いや、決して嫌いじゃない。嫌いなはずがない。むしろ好き、大好きだ。ついこの間まで異性として本当に大好きだったんだ」
「…………」
「……でも思った。思ってしまった。春日野さんに告白された瞬間、お前の顔が浮かんだ。その時思ってしまったんだ。いつの間にか、紫月、お前の事が好きになってしまってるんだって」
「……だから、櫻を振ったっていうの? 貴方の恋路を邪魔するだけの鬼みたいな女に惚れたからって理由で、あの一世一代の告白を断ったっていうの?」
「ああ、そうだ」
「……馬鹿みたい」
告白が成功するなんて微塵も思っていなかった。でも最後の最後の瞬間までこいつは、鏑木紫月だった。──俺が惚れた女の子だった。
……きっと春日野さんもこういう気持ちだったんだろう。溢れそうになる涙をグッと堪えて、俺は踵を返す。明日から普通に友達として接していける自信はもう無かった。これ以降鏑木達とはもう話をする事も出来ないかもしれない。そう思うと告白に失敗した悲しさよりも、寂しさの方が強くなる。……でも、それは仕方のない事なんだ。
ドスッ。背中に伝わる衝撃。踏み出そうとした足が、前に出ない。
何故なら、紫月が背中に抱きついてきていたからだった。
「……何、勝手に帰ろうとしてるのよ、バカ」
紫月は右の頬を俺の背中に押し付けたままで話す。
「私、男性恐怖症なの」
「知ってる」
「私が、こうやって貴方に抱きつけるの、どうしてだと思う?」
「…………」
「……全部、貴方のおかげなのよ。赤坂君。貴方のおかげで、私の男性恐怖症は、ちょっぴりとだけど、良くなったように思う」
「…………」
「貴方と出会う前まで、私は世の中の全ての男を恨んでいた。いえ、怖かったの。どんなに優しく取り繕っていても、本性では皆叔父さんみたいなんじゃないかって」
「でも、貴方に会って、貴方と関わっていくうちに、それは誤解なんだって、世の中にはこんなに心の底から信頼できる男の人もいるんだってわかった」
「それでもまだ少し抵抗はあるけど、赤坂君だけは特別。こうやって背中にだって抱きつけるし、もっと触れたい。触れられたい。私、こんな気持ちを抱くの初めてなの」
「私も、赤坂君の事が好き。櫻に負けないくらい、ずっと、ずぅぅぅっと好き。勿論、貴方が私を想う気持ちに負けないくらい、ね」
ポカンとしていた。完全に振られたと思って諦めていた所にとんだカウンターパンチを喰らった。でもそれはきっと紫月だって同じだろう。クロスカウンターだ。
言葉にならないとはまさにこの事だった。告白が成功したら言ってやろうと考えていたキザな台詞の数々は、全て吹っ飛んで既に忘却の彼方だった。
「私……もしかしたらこれから先、貴方に沢山迷惑をかけてしまうかもしれない」
「そんなの、お互い様だろ?」
「いいえ、違うの。私といると、貴方は危険な目に遭うかもしれない。だって私は──」
「死神、なんて言ってみろ。殴り飛ばすからな」
「──え?」
「この世界に死神なんてもんはいやしない。疫病神だっていない。いるのは、ただちょっと運の悪い人間。それだけだよ」
「紫月のこれまでの人生、とても辛かったかもしれない。自分を責めることも多かったかもしれない。もしかしたら、紫月がいたからこそ起きてしまった死別なのかもしれない。でも、だからって紫月を責めていい理由になんてなりはしない。もしそんな奴がいたら俺がまたぶん殴ってやるし、それでも辛いと思うなら一緒に背負ってやる」
「赤坂君……」
「だからもう過度に自分を責めるな。自分を虐めてやるな。もう楽になっていいんだよ、紫月。今まで、辛かったな」
紫月の目尻から一筋の涙が零れる。最初の一粒を皮切りに、とめどなく溢れるそれは、俺のシャツを濡らしていく。
『お姉ちゃん、泣いてるの?』
小学三年生の紫月は、高校生の紫月に声をかける。
『お姉ちゃん、あのね、嫌な事があったらね、一人で悩まずに好きな人にぜーんぶ話すの! そうしたらね、きっと嫌な事なんて全部忘れちゃうから!』
そう言って彼女は、穢れなんて一切知らない、屈託のない純真無垢な笑顔を見せる。
……ああ、そうか。私は……赦されたんだ。他でもない、自分自身に。
「ありがとう、紫月ちゃん。私、もう大丈夫だよ」
『そう! 良かった!』
「ありがとう、赤坂君……私、やっぱり貴方の事、大好き。これからもずっと、貴方の傍にいさせてね」
夜の帳が下りるのを待って、キャンプファイアーの炎は静かに消えていく。それはまるで花火のように、その儚さと美しさだけを記憶に刻んでいくのであった。
完
スミレの花言葉って知ってますか?
「謙虚」「誠実」と後もう一つあるんです。
それは、「小さな幸せ」という言葉です。
彼女が掴み取った幸せが小さなものかどうかは彼女にしかわからない所ではありますが、作者の私としては、大小がどうであれ、これまでの人生の分、思う存分幸せになってもらいたいものだと切に願います。
最後になりますが、このような駄文をここまで読んで下さった皆様に感謝を込めて、ありがとうを。
小波漣




