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桜の花とすみれ月  作者: 小波漣
3章:Violet Syndrome
23/25

篠突く涙雨と(中編)

「……寒い」


 変だな、もう六月も中旬だというのに。おんぼろアパートには異様とも言える冷気が立ち込めていた。梅雨の季節ともなれば、雨の気化熱でここまで冷え込むものなのだろうか。

 否、多少の冷却効果はあれど、ここまで冷え込んだりはしない。そうだ、これは──心の冷たさだ。


「…………」


 歯痒い。この生活から一度は解放され、そこから今まで培ってきた経験。積んできた想い。溶けかかった氷の心。その全てが一瞬にして過去へと還るこの感覚。

 別に、逃れようと思えばいつだって逃れられるこのおんぼろアパート。鍵だって、立て付けの悪い玄関のドアに付いたもの一つだけ。内側からなら勿論のこと、外側からだって簡単にピッキング出来てしまいそうな簡単な錠。

──私をここに縛り付けているのは、即ち過去の呪縛。恨み。怨嗟。

 幼い私と、若き叔父さん。叔母さん、お母さんとお父さん。全ての過去が、出来事が、人間が、過ちが、後悔が、私をこの部屋に縛り付けて離さなかった。逃げられない。

 ここで逃げたら、私という人間がこれまで生きてきた時間の全て。生きていてもいいんだ、私は死神なんかじゃないんだと気付かせてくれた人たちとの出会い、言葉。それらを全て無に帰してしまう気がした。


「おはよう、紫月ちゃん。調子はどう?」


 起床してきた叔父が、わざとらしい笑みを浮かべる。


「……最悪の目覚めよ」

「そうかい。それは良かった」

「…………」

「僕ね、お腹が空いたよ」

「……だから? 勝手に何か食べていればいいじゃない」


 叔父の顔が般若のように歪み、怒りに満ちていくのがありありと見て取れた。


「君をここに連れてきた理由を、どうやら忘れているようだけど」

「さ、さあね。なんでかしら? 学校だってあるのに、突然こんな狭くてボロボロなアパートに監禁されて、いい迷惑だわ」


 叔父は怒りに任せて壁を殴──ろうとして、すんでのところで思いとどまる。昨日から一切の物音がしていないので、隣には住人がいないようだけど。


「……君は今日から僕の奴隷だ。僕の言う事は何でも聞くし、何でも従わなくちゃならない。例えそれがどんな命令であっても、だ」

「はっ、お断りよ」


 刹那、平手打ちが容赦なく紫月の頬を叩く。


「……ッ!」

「いいから黙って言うことを聞くんだ。君はどうなってもいいかもしれないけど、君が逆らえば君の友人達──そう、例えば……春日野櫻ちゃん? とか。どうなっちゃうかな?」

「!? やめて、櫻は関係ないでしょう!? 彼女に手を出したら殺すわよ!」


 この男、どこまで調べ上げているんだ。突如として飛び出してきた親友の名に、思わず動揺が隠せなくなる。


「君が先に殺したんだよ。僕の大切な人をさぁ……。君にも、大切な人が為す術もなく他の人に殺される気持ちを味わって欲しいなぁ……」

「私は、叔母さんを殺してなんか、いない……」

「よくもまあ、ぬけぬけとそんな嘘八百が口をついて出るなぁ? まあ、紫月ちゃんが僕に逆らいさえしなければ彼女達の安全は保証してあげるよ」

「……絶対、でしょうね?」

「ああ、絶対だとも」


 こいつは彼女"たち"と言った。つまり、ここで人質に取られているのは何も櫻だけではない、という事を暗に示された事になる。何らかの手段で私が櫻に連絡を取って危険を知らせたところで、他にも人質はいる。そしてその人質の範囲が全く示されていない事で、どこまでの人間にその危険を知らせれば良いのかを判断出来なくさせられているのだ。

 そこで身内に危険を知らせる事を諦め警察に連絡を取れば、場所が割れている以上叔父は身柄を拘束されるであろう。しかし、絶対に叔父に共犯がいないと何故断言出来ようか。仮に叔父に共犯がおり、叔父にもしもの事があれば人質を──と共謀されていれば、人質に取られている身内を助けるという目的において、叔父の身柄を押さえるという行動は殆ど意味を成さなくなる。

 私が万が一脱走でもした時の為の復讐代替案にも抜かりはないようだ。むしろ、脱走は私にとって最も辛い選択になるよう仕向けられているように思える。自分だけが逃げて助かるか、自分を犠牲に大切な人を救うか、という後者以外の選択肢は初めから与えられていないような、そんな檻の中。


「反吐が出るわ」

「反吐でも何でも吐いてればいいけど飯にはかけるなよ」

「……わかってるわ」


……これは、私の過去の清算。後始末。

 もっとも、清算後に未来があるとは限らないけど、ね?



----



「誘拐って……やっぱり本当なんですか!?」


 鏑木のマンションの玄関先で、春日野さんは驚嘆の声を漏らす。


「100パーセントではないけど、それに近いくらいだと思う。もしそうじゃなくても、昨日から家に帰ってないのは事実みたいだし。足元を見て」

「足元……? 別に普通に見え……あ、通学用のローファーがありません!」

「うん。だから誘拐にせよそうじゃないにしろ、警察には相談すべきだ」

「あ、あわわどうしましょう! 紫月ちゃんは無事なんですかっ!?」

「落ち着いて! それがわからないから警察に頼るんだ」

「むしろ赤坂君はどうしてそんなに落ち着き払っていられるんですか……! 紫月ちゃんが誘拐されたかもしれないんですよ……!?」

「これが落ち着いていられるわけないだろ! めちゃくちゃ動揺してるよ!」


 ビクッと身体を縮こまらせた春日野さんが、しゅんと表情を曇らせる。


「そ、そうですよね……ごめんなさい」

「いや、いいんだ。とにかく警察を呼んでほしい」

「……わかりました」


 春日野さんが警察を呼んでいる間に、俺は大家さんにも一つ頼み事をする。


「大家さん、鏑木さんのご両親の連絡先はわかりますか?」

「え、ええ……契約はお父様の名義ですもの。そちらにも連絡した方がいいかしら?」

「お願いします」


 彼女の──義理ではあるが、両親。娘さんに万が一があるかもしれないという事で連絡を入れるのは当然ではあるのだが、それ以上に切願することがあった。

 鏑木家、彼らは経営者の一族。それも世間に割と名の知れた、だ。その権力を以て、こと本件においては警察よりも優れた情報源となりうるのではないかという期待があった。

……要するに、他力本願になるのだが。しかし、俺に出来ることなどほとんど無いように思われるこの状況で、自らの無力さを嘆いている暇など最早ないのだ。

 事件は既に起こっていて、鏑木はこうしている間にも何者かによって身動きを封じられている。連絡も取れない事から、犯人によって携帯電話も取り上げられている可能性が高い。さらにもしかすると、身体的暴力を受けているかもしれない。このような状況にある時点で、精神的なものは言わずもがなである。

 俺はヒーローでも何でもない、ただの一般男子高校生だ。自分一人の力で出来ることなど、たかが知れているのだ。

 利用出来る力は遠慮なく利用する。その上で鏑木を出来得る限りの軽傷で救えるのならば、何をしてもいいじゃないか。それが例え鏑木家から反感を買うようなものだとしても。鏑木紫月本人から思いっきり罵倒されたり、殴られたり蹴られたりするような泥臭くて最低な手段であったとしても。


──女の子一人救えなくて、何が男だ。



----



 警察が到着したのは、それから10分後といった所だろうか。

……そして、それと殆ど時を同じくして姿を現した男がいた。その男の登場は、警察が来たという事実を前に感じさせられる非日常感を軽々と上塗りしてしまうようなインパクトを孕んでいた。

 高級車でマンションに乗り付けたその男は、一見してどこにでもいそうな優男だ。しかし、身に付けるさり気ない小物の数々は、どこから見ても庶民的な店で簡単に買えるようなそれではないように思えた。

 頼りない。彼を見た民衆が百人いたとすれば恐らく、その百人ともが、"一目では"そういった第一印象を語るであろう。小さい娘さんと、かかあ天下な奥さんとの三人で、暖かい家庭でも築いていそうな顔をしている、と。

 だが、民衆も二目見る頃には気付き始める。只者ではない、と。彼から漏れ出る内なる威厳に、迫力に、戦き始める。

 一般男子高校生であるところの俺ですら、そういった印象を抱かずにはいられない。ただ立っているだけでそんなオーラを放つ人物だった。


「ああ、大家さん。ご無沙汰してます」

「鏑木様、いつもお世話になっております」


 そう、鏑木紫月の義理の父親にして、鏑木グループの現総帥。鏑木(かぶらぎ)佐久夜(さくや)その人であった。


「ん? おお、君は確か櫻ちゃん、だよね? 春日野櫻ちゃん。娘がいつもお世話になってるね」

「お、お父様! いえ、私の方がいつも紫月ちゃんにはお世話になっていて……!」


 さながら巨人のようなオーラを放つ人物を前に、春日野さんはまたしても縮こまる。多分、苦手なんだろうなぁ……こんな迫力のある男だ。それも致し方ないというものだが。


「して……君は?」


 大家さん、春日野さんと続いて、当然のように佐久夜さんの興味の矛先は俺へと繋げられる。


「俺……僕は、鏑木さんの友人の赤坂 柚人(あかさか ゆうと)と言います」


 彼はピクリと眉を動かす。


「ほう……友人、か」

「え、えぇ……」

「娘は男性恐怖症で、それこそ最初は中学も女子校に入れてやろうと思った程なのだけれど、今は男の子の友人もいるんだね」

「まあ……色々ありまして。それで、本題なんですが」

「ああ、大家さんから聞いて大体分かっているよ」


 佐久夜さんは語気を強めて続ける。


「娘が──紫月(しづく)が、誘拐されたかもしれないという話だろう?」

「はい」

「ふむ……」


 俯いて何やら考え込んでいる様子であったが、すぐにハッと何かに気づいたように顔を上げる。


「赤坂君、と言ったね」

「は、はい」

「紫月とはどういう経緯で交友関係を?」

「……? お言葉ですが、それは緊急事態かもしれない今、関係のある事なんでしょうか?」

「ああ、大いにあるとも。それで?」


……どこから話せば良いのだろうか。出会い、からか……?

 そうなると、ラブレターの件から、という事になるが……。

 ちらりと春日野さんを見やる。

 視線に気付いた春日野さんは、頭にクエスチョンマークを浮かべた。

……うん、無理だ。少し暈していこう。


「最初は……その、とある女の子へ差し出した手紙を鏑木……紫月さんに奪われた事から始まりました」

「……あー、その、察するよ。娘が済まなかったね」

「いえ、もう済んだ事ですから……。それで、紫月さん本人に拒まれつつも、蔑まれつつも、罵倒されながらも、彼女に僕という存在を認めさせてやろうって、そんな事ばかり考えてました」

「ほう……それで?」

「ある時、泣きそうな顔で懇願されました。もう関わらないでくれ、って。その時、僕はもう彼女らに関わらないようにしようと思って、一ヶ月ほど会わないようにしていたんです。その頃、小さな事件が起こりました」


 一呼吸置いて、続ける。


「紫月さんが街でヤンキーに絡まれていたんです」

「可哀想なくらい怯えていて、顔面蒼白で、普段の強気で冷淡な紫月さんはそこにはいませんでした」

「ストップ。一旦止めてくれ」


 佐久夜さんはそこで静止をかける。


「暴漢に絡まれていた紫月は、ただ怯え、震えていただけだったのかい?」

「え、ええ……少なくとも僕にはそう見えましたが」

「そう、そうか……いや、どうやら僕の思い違いだったようだね。関係のある話と確信していたんだが、関係が無くなってしまったようだ」

「え、ええ!? どういう事です?」

「いやね、娘にはいざと言う時は己の力で解決できるよう、護身術、合気道なんかを一通り叩き込んであるんだ。道場にいた並大抵の男達では相手にならない程に強く育てたつもりだ。だからこそ、そんじょそこらの成り下がりに大人しく誘拐されるような女ではないと確信していたんだが、そうか……いざと言う時に震えて力を出せないようではそれも……」


 佐久夜さんは再び俯いて考え始める。

……護身術を極めているから普通の人間に簡単には攫われないはず、か。言われてみれば出会った頃にも同じような事を言っていたな。

──仰る通りだ。

 "先程までの佐久夜さんの確信"は今の俺……いや、"今の俺達にとっての確信"でもあった。


「ちょっと待って下さい」

「何だい?」

「これ、もしかしたら自惚れかもしれないんですけど」


 この前置きに、場にいた人間の視線が一斉に集まる。


「男である僕と日頃関わっていた──それも、お互いに友人と認め合うくらいの仲です。その影響で、男性への恐怖がほんの僅かでも和らいでいたという可能性はないでしょうか」

「君、何を言って……」

「そんな事あるかな?」


 立ち会った警察官の言葉を遮って、佐久夜さんは口を開く。


「僕が三年かけても溶かせなかったココロの氷を、ぽっと出の君が? 冗談も休み休み言ってくれないか」


 彼にもプライドがあるのだろう。いや、彼だからこそのプライドだ。義理であったとしても父親としての、矜持だ。


「でも、最近の紫月さん、よく笑うようになったんです。それこそ自惚れかもしれない、いや間違いなく自惚れなんですけど、その笑顔は僕が作らせたものなんじゃないかって、今考えればそうなのかな、と思うんです」

「…………」

「だからって、会って間もない僕をいきなり信じろとは言いません。でも、娘さんの心の力くらいは、信じてあげてもいいんじゃないでしょうか?」

「……確証は、あるのかい?」

「証拠はないですけど、僕は信じてます。今の彼女であれば、そこらのヤンキーに絡まれた程度じゃ簡単には折れないって」

「私も、そう思います! 紫月ちゃんは確かに変わりました! もうあの頃とは……違います!」


 塞がれていた口のテープを剥がされた瞬間の如く、春日野さんが勢いよく啖呵を切る。

 そこでやっと佐久夜さんは観念したという風に肩の力を抜いて、穏やかに話を戻した。


「……ふう。君たちがそこまで言うのであれば、僕も今の紫月の力とやらを信じてあげようじゃないか。最近は連絡もあまり取っていなかったしね。そうなると、紫月が全力を出しても敵わない相手が犯人、という事になるが……いや、力を出せなかった?」


 そこまで言いかけて、佐久夜さんの表情は一変して般若の如き形相と化す。


「……護身術を護身に使える前提の紫月ですら敵わない人物に心当たりがある。クソッ、とっくに野垂れ死んだとばかり思っていたんだが」

「……誰ですか?」


 佐久夜さんがその人物を言葉にするより前に、背筋にゾクッと嫌な冷気が流れるような錯覚を覚えた。


「彼女の血の繋がった叔父。男性恐怖症の原因となった男さ」


 彼女の過去を知る俺達の間に、重すぎるとも言える空気が立ち込めるのを感じた。

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