アフター・ザ・レイン
「むー……」
目の前には頬を膨らませてご機嫌ナナメな春日野さんがいた。
「ははは……」
「……」
俺と鏑木はと言えば、珍しく怒りを顕にする春日野さんを前にすっかり縮こまってしまっていた。いつもはあんなに小動物的な可愛らしさを振りまいている春日野さんが、今日はやけに大きく見える。
「赤坂君!」
「!? は、はい!」
突然名前を呼ばれ、虚をつかれたような声で返事をする。
「昨日……何であの後何も連絡してくれなかったんですかー!」
彼女の怒りの源はどうやらそこらしかった。
「ごめん、すっかり忘れてた……」
そう、忘れていたのだ。春日野さんに鏑木を任された俺は、春日野さんをとりあえず家に帰してから後で連絡を入れる事にしていた。それと言って約束はしていなかったものの、春日野さんも落ち着いたら連絡が来るものと思っていただろうし、俺も終わったら連絡するつもりでいた。
いたのだが……鏑木からその後聞かされた話の衝撃が強すぎて、恥ずかしながら春日野さんという存在をすっかり失念していたという理由だ。
「ほんっとうにごめんなさい!」
「謝ったら良いってものじゃないんです! 紫月ちゃんは……大丈夫みたいですけど、すっっっごく心配してたんですからね!」
春日野さんはちらりと鏑木に視線を向ける。
「私は大丈夫よ。そこの赤……名前はなんて言ったかしら、そのケダモノに何かされたって事もないわよ」
「あの」
鏑木も昨日のしおらしい……しおらしくはないな。とにかくあの珍しく大人しい態度はどこへやらの、すっかり平常運転といった様子だった。
変わったことと言えば、すっかり日常会話は出来るようになっている事か。以前であれば顔を合わせれば無条件に「近寄るな」だったものが、こうして普通に会話ができるようにまでなっている。これは大きい進歩なのではないだろうか。いや進歩ってなんだよ。
とにかく、これで俺はようやく普通に春日野さんと会話できるようになったという事である。
「ふー……まあもういいです。赤坂君、紫月ちゃんをありがとうございました。こうして今日も元気な姿を見ることが出来て、ちょっと……いやかなり、ホッとしてます」
「まるで私がこいつに助けてもらったみたいな物言いは止めてもらえるかしら」
「紫月ちゃん、それはピンチを助けてくれた恩人に向かってあまりにも失礼というものだよ」
「うぐ……」
……あの鏑木が、言いくるめられている。
「ちゃんとお礼はしたの?」
「した……あれ、したかしら? 私の過去を少しだけ話したのだけど」
「え、ほんと? 赤坂君、紫月ちゃんの話聞いたんですか?」
「あ、ああ……まあ。男性恐怖症なんだってな」
聞いたのは別にそれだけではないけど。まああえてここで話す必要はないだろう。
「そうなんですよ。もう普段はそこまで酷くないんですけど、昨日街でチャラチャラした男の人たちに襲われそうになって発作?みたいなものが起きちゃったみたいで……本当に、助かりました。私では男の人3人から紫月ちゃんを守るなんて事とても出来ませんし、あそこで赤坂君が助けてくれなかったら、紫月ちゃんはまた昔みたいになっちゃったかもしれないですし」
「ちょっと櫻……」
「いいでしょ? もう赤坂君には紫月ちゃんからある程度話してるみたいだし。それで、結局赤坂君にはちゃんとお礼したの?」
空気が少し固まり、そして
「し、してない……かも」
「もう、ダメじゃない紫月ちゃん。命の恩人なんだよ?」
「命って大袈裟な……」
「命は大袈裟だとしても恩人には変わりないでしょ! ちゃんとお礼しなきゃだめだよ」
ここまでタジタジになっている鏑木を見るのも新鮮で面白いが、流石に少し可哀想になってきた。
「い、いや俺は良いからさ……」
「良くないです!」
春日野さんはビシッと言い切り、
「私たちの為にそんなボロボロになってくれたのに、何のお礼もないなんて私の気が収まらないです!」
「お、おう……」
そういえば昨日のヤンキーに好き勝手暴行された時の傷が身体中にあったな、と言われて思い出す。
そして頬に貼られた絆創膏……鏑木に、貼られた絆創膏を撫でる。
それを見た鏑木が顔を少し赤らめて言う。
「あ、あの……赤坂、君」
「は、はい」
え、何この甘酸っぱい雰囲気は
「その……昨日はありがとう。助かったわ。昨日も言った通り私は男性恐怖症で、普段は害を与えてこない、私に好意を抱いた男しか相手にしないからそこまで強い恐怖は抱かないんだけど、あの人達は明らかに危害を加えてきそうだったから本当に怖くて……貴方がいなかったらどうなっていたかわからないわ。本当に、ありがとう。……これでいいでしょ、櫻」
「うん! 最高だったよ!」
カアッと鏑木の顔が真っ赤に染まる。釣られて、俺の顔も熱くなる。ラブコメかよ。
「ま、まあ別に鏑木を助ける為にやったわけじゃないっていうか何ていうか……気にすんなよ」
「私だって別に助けてくれなんて頼んでないけど。何? 聖人気取り? ナイトのつもり? 思い上がりも甚だしいわよ、変態」
「2人とも喧嘩はやめて下さいよぉ……」
こうして何気ない日常を過ごせる事がどんなに有難いか。どんなに幸せか。
鏑木の過去を知った事で、多少なりとも"普通"がどんなに尊いものなのかを、俺なりに考え直す事ができた。
そして、それこそ思い上がりも甚だしいかもしれないが、これからは鏑木にも与えてやりたいと思った。
──好きな人たちと、普通に笑って、普通に泣いて、普通に怒って。そんな普通な──
"普通の幸せ"ってやつを。




