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復讐心。その一言に尽きる。怒りと理不尽に満ち溢れたその感情は、彼があれほどまでに無条件に振り撒いていた優しさや慈愛の心を丸ごと飲み込んで支配し、復讐の鬼へと変貌させるのに充分すぎる強さを持っていた。
「さあ、紫月ちゃん」
彼の姿をした"鬼"が。
「今日もよろしくね」
彼の声をした"鬼"が。
「人殺し」
また今日も少女の心を深く穿つ。
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時計は短針が右下を向いた頃──五時頃を指していた。冬なのでまだ太陽は一切昇る気配を見せておらず、程よくというレベルを遥かに超過した冷たさの空気が、肌をゾッと撫で下ろした。足下に溜まった冷たい空気がただでさえ低めの体温をさらに冷やし、暖かいお風呂やストーブがとても恋しくなる。
「寒っ……」
こんな時間に起きているのにも理由があった。
『──紫月ちゃん。明日から僕が起きる前に、掃除と洗濯と食事の用意を終わらせておくんだ』
『え……?』
『え? じゃなくてね? やるんだよ。君が。一人で。タダで住まわせてやるほど僕は心が広くないからね、家賃や食事代、学費の代わりに働くんだよ。あ、もちろん毎日ね? 週末も同じだから』
『……』
『……返事は?』
『……はい』
「……はあ」
でも叔母さんが死んだあの日、叔父さんはそれこそこれから虐待でもするぞ、といったような顔を私に向けて笑った。その晩はどんな人道に反した事をされるのかと怯えたものだが、家事を全て押し付けられる程度で済んでホッとしている面もある。
『人殺し』
……これさえ無ければ。
両親が死んだあの時、間違いなく事故が起きた原因の一端は私の誕生日にあった。それは間違いないと思う。
だが、今回のこれはどうだろう……母親代わりとして認めつつあった叔母さんが亡くなったのは言うまでもなく勿論悲しいけれど、全ての原因が私にあったと言われても全く納得出来ない。いくら私でも、叔母さんが病気で先が長くないとわかっていれば両親の事を考えつつも叔母さんに気を遣うことも出来たはずだ。……いや、私に気を遣っていたというのもわかるんだけど。
私は少し眉を下げ、バケツに張った冷たい水に手を浸していく。……うん、冷たい。脚は冷えていても辛うじて暖かさを保っていた手が、一瞬で冷えていくのを感じる。
「あー……」
思わず家事へのモチベーションを全て失い、語彙が消失したような声が口から漏れ出る。……いけないいけない。
「それでも、叔母さんが大変な時なんだからやっぱり話くらいして欲しかったよね」
それに尽きると思った。どう考えても、いくら両親を喪ってどん底にいたとは言っても、目の前で生きている家族が死の危機に瀕していると知っていれば、そちらを出来る限り考慮出来たとしか思えないのだ。
しかし、結果として最愛の妻を亡くしてしまった叔父さんの気持ちを尊重したい気持ちもあるし、私に罪を押し付ける事で少しでも叔父さんの心が楽になるのなら、私はそれを甘んじて受け入れるべきだと思っていた。
それが、私に出来る唯一の罪滅ぼしだと思ったから。
──自らの心を深く傷つける行いだとも知らずに。
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──
「紫月ちゃん」
その声に、私は身体をビクッと震わせる。
「……はい」
起きてきた叔父さんはいつものように嫌らしい笑みを携えながら、ソファに腰掛けた。
「ほら」
自らの股を開き、その間を手をポンポンと叩いて見せる。私は逆らうことも出来ず、その間にちょこんと座った。
結論から言えば、叔父さんの"復讐"は家事を全て押し付けるなんていう生半可なものでは済まなかった。あれは、私がまだ小学校三年生だからという手加減に過ぎなかったのだと、長い時が過ぎた今ならよくわかる。
そう、時は流れ、紫月は気が付けば中学生となっていた。小学三年生だった頃の幼児体型はもはや見る影もない。まだ発展途上とはいえ、女らしく丸みを帯びた身体に、伸ばし続けて腰まで届くようになった艶やかな黒髪。この年齢にしては、可愛らしさより女性らしい美しさが前面に出ているような、そんな容姿の持ち主へと変貌を遂げていた。
ある時から、叔父の目が子供を見る時のそれから、女を見るそれに変わっていったのを覚えている。
叔父の"復讐"は日に日にエスカレートしていき、最初こそ家事をやらせる程度に留まっていたものが、外での鬱憤を晴らすサンドバッグに使われたり、直接的ではないが性欲を発散する手段にも使われたりしていた。
そんな事が常態化した生活を何年も続けていると、紫月の精神は徐々に摩耗を繰り返していき、天真爛漫で純真無垢だったあの頃とは打って変わって瞳からは光が消え、口元も常に真一文字に結ばれるようになっていた。……誰の目からも、明らかに限界を迎えているように見えていた。
「……」
「どうしたんだい黙り込んで。気持ちいいだろう?ほら」
叔父の汚い右手が、紫月の胸をいやらしく揉みしだく。無論快楽など微塵も感じさせず、ただただ不快な感情が紫月を支配していく。
「……ッ!」
最後までされた事はないが、このままだとそう遠くない将来には貞操も喪ってしまうような気がしていた。
それは、叔父が外出する時間になるまで延々と続いた。
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クラスの酒井さんの様子がおかしい気がする。
そう思い始めたのは、別に最近の事ではなかった。
このクラスの担任を受け持って半年程が経つが、彼女はその……他の子とどこか違っていた。具体的にどこが、と言われると困ってしまうのだが、何というか……大人びている、というか……大人しい、というか……。常に目が笑っていないし、友達と話している所も見たことがない。私と話している時は笑うが、やっぱり目が笑っていないというか、愛想笑いだ、って一目で理解ってしまうような不器用な笑い方なのだ。
あまりにも気がかりなので本人に聞いてみようとしても、「先生には関係のないことです」ってピシャリと会話を断ち切られてしまう。
その時点で何か事情があるというのは明白なのだが、教師としての経験がまだ浅い私には皆目検討がつかない。
友達が出来ないからなのか、家庭に何か不和を抱えているからなのか……生徒が心を閉ざす要因としては様々なものが思いつくが、実際に酒井紫月さんを見ていても何が原因なのかがさっぱりわからないというのがとてももどかしくて、自らの不全感をひしひしと感じてしまう。
「でも担任の先生なんだから、みんなに笑って学校生活を送ってほしいよね」
でも何が出来るだろう。話しかけてもすぐ逃げられてしまうし、学校で話をするのは難しいのかな。……なら。
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その日も、叔父さんの"復讐"は休むところを知らなかった。
もういつからだか回数すら数えなくなった。幾度となく触られた叔父さんの汚い手は、私の身体を舐めまわすように這っていく。
いつまで経ってもこの不快感に慣れを感じることはなく、ただただ耐え忍ぶだけの時間が流れていく。
「それにしても、本当にイヤラシイ身体をしてるよねぇ……」
叔父さんは、心底気持ち悪い声でそんな事を言う。最初は反発したものだが、最近ではもう言われるがままといった感じだった。言い返す気力すら無いというのが正しいかもしれないが。
「紫月ちゃんももういい歳だし、そろそろ下の方も……いいかな?」
胸を執拗に触っていた叔父さんの手は、いつの間にか、腹を撫で、そして下半身へと伸びていっていた。
「嫌っ……!」
「おっと」
咄嗟に身体を逸らして、叔父さんの拘束から脱出する。
「僕に対して取っていい態度じゃないよね?」
叔父さんは静かに立ち上がると、両腕を前に構える。そして──
「きゃっ!」
乱暴に、ソファへと押し倒される。紫月の華奢な身体はなす術もなくソファに叩きつけられ、中学生女子の身体は、成人男性の圧倒的な力の前に僅かな抵抗を見せることしかできない。
「いつもみたいに大人しく応じてれば無理矢理なんてせずに済んだのに、君は本当に馬鹿だね」
叔父さんの手は紫月のシャツを強引に掴み、ボタンを引きちぎって前を開けた。中学生にしては中々に育った双丘が、下着を隔てて外気に露出する。
「嫌っ……!嫌っ……!」
叔父さんの手が下着を鷲掴みし、上に引っ張る。双丘の片割れが、下着という最終防衛ラインを越えて、今度こそ露わになる。
「……ッ!」
両手を頭上で拘束されている為、もはや何の抵抗も意味を為さない。叔父さんは紫月の手を離さないように、胸を掴んでいた手を紫月の下半身へと伸していく。
「や、やめて……叔父さん」
「やめないよ」
そうして手が触れようとしたその瞬間。
ピンポーン
家の中にチャイムの音色が響き渡る。
「どうせ宅配便だよ。不在にするから気にしないで……」
ピンポーン
再度同じ音が木霊する。
「……しつこいな。紫月ちゃん、ちょっと様子を見てきて」
言われるがままに、玄関へと歩いていく。そして、ドアスコープから外を覗くとそこには──
「先生! 助けて!」
「酒井さん!? 酒井さんいるのね!?」
担任の教師がそこにいた。
何故先生が家に、というのはもうどうでも良かった。叔父さんが駆けつけて来る前に、と急いで鍵を開けてドアを開け放つ。
そして乱れた衣服のまま、目の前に立っていた先生の胸に飛び込んでいった。
先生が呼んだ警察が到着した頃には家の窓は開いており、逃亡したであろう叔父さんがその後姿を見せることは無かった。




