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「先生! 妻……妻はどうなったんですか!?」
男はその双眸に悲哀、悲愴、悲痛、悲嘆──あらゆる悲しみと焦燥を宿しながら声を荒らげる。
目の前の先生と呼ばれた白衣の男性は、男とは対照的に落ち着き払っており、そして静かに切り出した。
「手術そのものは成功しました。……後は本人次第でしょう。峠は今夜です」
男は白衣の男性の言葉で安堵したのか、多少落ち着きを取り戻したような様子で居直った。
「良かった……」
「不安を煽るようで申し訳ないのですが、まだ安心は出来ません。今夜は奥さんの側にいてあげて下さい」
白衣の男性はそれだけを告げると踵を返し、誘導灯の緑色の光が足元にだけ反射する薄暗い廊下の奥に、吸い込まれるように姿を消していった。
「頼むから助かってくれよ?」
男は瞼を強く閉じ、念に力を込める。
その一連の様子を静観していた少女は、漆黒の翼と大鎌を見たような気がした。
──病魔は、時に鋭い牙を剥く事がある。軽いものでは盲腸……虫垂炎、重いものでは脳卒中、脳梗塞やくも膜下出血など、突如として即刻医者の介入を受けねばならぬような事態へと陥れる。そしてそれらはその命を、文字通り病的に蝕んでいくのだ。長い時間をかけて根を張ってきたそれらは、ある時突然鎌を構える。そして憑いた人間の魂を刈り取る。……そう、まるで死神のように。
死神に魅入られた人間は、決してその『死』という運命の袋小路から逃れる事は出来ないんだ──
夜の病棟に無機質な機械音が響き渡る。
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「紫月ちゃん、遊園地でも行かない?」
突然そんな誘いをかけてきたのは叔母さんだった。
「遊園地?」
「そう、遊園地。紫月ちゃん、ここの所大変だったしあんまり遊んだりしてないでしょ? たまには羽を伸ばさないと疲れちゃうわよ。どう?」
彼女は私を案じているのか、にこやかに笑いかけると再三の誘いをかける。
「遊園地かぁ……でも入園料とか結構かかるし、悪いよ」
「子供が変に遠慮するんじゃないの!」
上っ面の遠慮はすぐに見破られてしまったようで、頭をグリグリと撫でられてしまう。
「わかった、わかったってば! で、いつ行くの?」
「ふふふ、今日よ!」
「え?」
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というわけで、私はその日のうちに国内最大とも言える二大遊園地のうち、東にある方──東京デスティニーランドに連れて来られていた。デスティニー。運命の遊園地である。
「何で僕まで」
叔父さんはあまり乗り気ではなかったのか少し不平を漏らすものの、表情そのものは幾段か晴れやかであった。
「いいでしょあなただって暇してた癖に。それに、紫月ちゃんの為でもあるのよ?」
「そう言われちゃうと弱いなぁ……」
「で、何で遊園地なの?他にも気分転換になるような場所なんていくらでも……別に、こんな地味に時間もお金もかかるような場所に来なくたって」
私は薄々思っていた事を吐露してみる。
「何でデスティニーランドかって? それはね──私の趣味よ!」
叔母さんの背後にドーンという擬音が見えたような気がするほどに堂々とした宣言だった。
「じゃあ私、チケット買ってくるわね!」
興奮を隠しきれない様子でフン、と鼻を鳴らす叔母さん。……本当にただの趣味みたいだ。そこには、無理して私を楽しませてあげようというような意識の介入する気配は微塵もなく、むしろ手綱を握っていないと一人でどこかに走り去っていってしまいそうな勢いまであった。
「というわけだから、付き合ってあげてね」
叔父さんは肩をすくめるとこちらに視線を投げかける。
「うん。楽しみにしてる」
チケットを手に入れたのか目を輝かせ、売り場から意気揚々と戻ってくる叔母さんの姿を目にし、私も期待に胸を膨らませていた。
「インパしたらまずファストチケットを確保していくのよ」
「イ、インパ……?」
「入園の事よ。ファストチケットって言うのはね──」
「あ、それは知ってる」
「ぬ」
入園するやいなや叔母さんのマニアックな用語が飛び出しはじめ、苦笑しながらもそれに従って行動する。さしずめ彼女はディスティニー奉行といったところだろうか。数えるほどしか来たことがない私にとっては頼もしいような、もう少し静かにしていてほしいような、そんな何とも言えない存在であった。
「そもそも昼にインするっていうのが意識低すぎるのよね。今日決めたことだし仕方ないけどさ。本当なら朝に開園凸して真っ先に一番混む人気アトラクションに突撃してスタンバイ列ですぐ楽しんじゃった後に2番目に乗りたい混むアトラクションのファストチケットを取ってね、3番目に乗りたいアトラクションのスタンバイ列に並んで乗るのね。で、ファストチケットの時間までまだ時間があったらその間にご飯とか食べちゃって、自分や周りの人へのお土産ものとか見て回ったり園内の美味しいものとか食べて回ったりね。DパレードとかEパレードも見逃せないし、基本的に暇な時間はないのよ。ディスティニーランドかディスティニーシーかでかなり楽しみ方も変わってくるけど大体こんな感じ。わかる?」
「ははは……」
何言ってるかよくわからない。DとかEって何だろう?叔父さんも私と同じみたいで、引きつったような笑みを顔面に貼り付けていた。
「もっとゆったり楽しむって選択肢は?」
叔父さんはおずおずとそう切り出す。叔母さんはと言うと、彼のその言葉に純粋な疑問を浮かべていた。何で?と顔が物語っている。その顔を見て、私達は考えるのをやめたのだった。
「まずはここね、運命のハチミツ狩り」
叔母さんに最初に連れてこられたそこは、大きな絵本をモチーフにした建造物が印象的なアトラクションだった。
「ここは待ち時間が長いからこの時間からスタンバイ列に並ぶのは自殺行為よ。日が暮れちゃうわ」
彼女はそう言うと列には目もくれずにファストチケット発券機の方に歩みを進めていく。着いていきつつもちらりと横目で待ち時間を確認すると、なんと120分。うわぁ……。こればかりは流石叔母さんと言わざるを得ない。
「ここに今並ばないなら次はどこ行くの?」
「うーんそうねぇ……お昼にでもしましょうか」
叔母さんはぽんぽんと自分のお腹を叩いてみせる。そう言われると、まだ今日は何も食べていないのでお腹が空いていた。今の今まで気付かなかったが。
ということで、「運命のハチミツ狩り」があるエリアからそう遠くない場所にある、不思議の国のアリスをモチーフとしたレストランに足を運ぶ。
立地も悪くなく、値段も園内ではリーズナブルな方なので、この日、この時間も多分に漏れず人で溢れかえっていた。
「すごい人ねえ、席空いてるかしら」
叔母さんは店内を見回し、そう懸念する。
「僕が席確保しておこうか」
「あら、殊勝な心がけね」
「あのね……」
叔父さんは辺りをぐるりと見回し、そしてもう席を立ちあがろうとしている一家族を視界に捉えたらしい。家族が去った後のテーブルをさっと確保し、こちらに笑顔を向けてきた。
「助かっちゃったわね、美味しいもの持っていってあげましょ」
「うん!」
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昼食を終え、再び例のアトラクションの前まで移動する。ファストチケットに記載された時間とアトラクションの前にかかった時計の時間を照合するに、もうそろそろ列に並ぶ事が出来るようである。
このチケットは無料で、同時に複数枚取得することは出来ない。が、これを貰っておくことで通常並ぶスタンバイ列ではなく、アトラクションに乗るすぐ手前まで並ぶことなくさっと入ることの出来るファストチケット・エントランスからの入場が可能になる。
今回叔母さんはこの「運命のハチミツ狩り」のファストチケットを取る事を優先したようだが、園内には同じように混雑が予想されるあらゆるアトラクションに同じチケットが用意されており、利用者は好きなものを一つ選んで取る事が出来る。特に人気なものはファストチケットを取るために列に並ぶ、という本末転倒な事態になる上に、チケットに記載された入場時刻が閉園ギリギリの時間というのもよくある話なのだが、それでも一般列に並ぶよりかは大幅に時間を短縮出来るので、取っておいて損のないアイテムである事は間違いない。
というわけで、私たちは漸くではあるが本日最初のアトラクションを楽しむこととなった。
「運命のハチミツ狩り」は、ハチミツが大好きな少年が絵本の中に入ってしまい、そこで蜂に追いかけ回されたり跳ね回ったりしているとふと不思議な空間に迷い込む。そこで美味しいハチミツが大量に出てきてお腹いっぱい食べるが、結局は夢オチだったというシナリオのアトラクションである。
「すっごい楽しかったねー」
「ふふ、そうね」
アトラクションを楽しみ終えた私は、久しぶりに年齢相応の反応をしたように感じていた。遊園地のアトラクションというものは、どうしてこうも楽しいのだろうか。視覚的、聴覚的なものに加えて体感的な要素もある事で、他のどこでも味わえない何とも言えない楽しさがあるような気がする。
──刹那、叔母さんの全身から力が抜け、その肢体が地に叩きつけられた。
「……え?」
何が起こったのかよくわからなかった。本当に突然だった。何の前兆も無かった。少なくとも私の目には。耳には。
世界の動きが突如として緩慢に感じられ、人の流れも、声も、叫びも、全てがゆっくりと過ぎ去っていく。
「おい、しっかりしろ! おい! 誰か救急を!」
いち早く事態に気付いた叔父さんが、叔母さんを抱き抱え、叫ぶ。周囲の人達もそれでようやく緊急事態であることに気付いたようで、私はその叫び声に現実に引き戻されたかのように感じた。
流石運命の国と言ったところか。救護の人達が到着するまでに、それほど時間はかからなかった。
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救護室に運ばれた叔母さんは、ここでは手に負えないと判断されたのか、すぐさまちゃんとした病院へと搬送された。
「叔母さん、大丈夫かな」
手術室へと運び込まれ、姿も確認する事の出来ない叔母さんを思う。
「大丈夫だよ……絶対」
叔父さんは、最悪の可能性を断ち切るようにそう言い切った。その様子を見るに、突然倒れるに至った原因は知っていたのかもしれない。
時間が経つにつれ、そんなやり取りすらしなくなっていく。そしてどれくらいの時間が経っただろうか。祈る力もついに尽きようかといった頃合に、祈りが届いたのか届かなかったのか、手術中のランプは消えた。
ランプの消えた手術室から出てきた医者に、叔父は縋りつく。
「先生! 妻……妻はどうなったんですか!?」
叔父はその双眸に悲哀、悲愴、悲痛、悲嘆──あらゆる悲しみと焦燥を宿しながら声を荒らげる。
目の前の医者は、叔父とは対照的に落ち着き払っており、そして静かに切り出した。
「手術そのものは成功しました。……後は本人次第でしょう。峠は今夜です」
叔父は医者の言葉に安堵したのか、多少落ち着きを取り戻したような様子で居直った。
「良かった……」
「不安を煽るようで申し訳ないのですが、まだ安心は出来ません。今夜は奥さんの側にいてあげて下さい」
医者はそれだけを告げると踵を返し、誘導灯の緑色の光が足元にだけ反射する薄暗い廊下の奥に、吸い込まれるように姿を消していった。
「頼むから助かってくれよ?」
叔父は瞼を強く閉じ、念に力を込める。
その一連の様子を静観していた私は、人工呼吸器を付けられた叔母さんが眠る病室の窓際に、漆黒の翼と大鎌を見たような気がした。
──病魔は、時に鋭い牙を剥く事がある。そしてそれは命を、文字通り病的に蝕んでいくのだ。長い時間をかけて根を張ってきたそれは、ある時突然鎌を構える。そして憑いた人間の魂を刈り取る。……そう、まるで死神のように。
死神に魅入られた人間は、決してその『死』という運命の袋小路から逃れる事は出来ないんだ──
心電図モニターの甲高い無機質な機械音が、寝静まった病棟の廊下の奥に吸い込まれるように伸びていった。




