夢を食う烏〜第二章〜
ブタ。
薬にひたひたにされた美味しそうな豚。
まんまると太った豚は、人間様に食べられる為だけに産まれ生きている。そして私の主は何の躊躇いも無く迷いも無く心が痛む事も無く、人間様の食べ残しを頂く。嘴で上品に頂くフリをする。
私は黒い羽である。私の主は、私を自由自在に操る事が出来る。そして私は主のお望み通りに飛び、羽ばたき、体温調節をし、外敵から身を守る。
私は私を誇りに思い、また主も同じ思いだろう。
料理、それは知恵だ。
人間様は昔から知恵を働かせ、残酷な肉料理も香りと彩りで美しく魅せてきた。この物質世界に、美しさは必要不可欠なのだろう。
さなえと言う少女は、外界と内界の区別がつかない。私が主に食事をする場所へ、ふらつく足取りで毎日通い詰めるのだ。どうして毎日ここへ来るのかと尋ねても、返事など無い。
さなえは食べ物を持ち歩き、それを天高く掲げている。私はその食べものをありがたく頂くのだ。さなえにとっての一つの遊びのようなものだろう。
自殺の名所と呼ばれる橋が、網と有刺鉄線で雁字搦めになっている。今まで何人もの人間様がここから飛び立ったのを見てきた。私は、人間様も飛ぶ事が出来るようになったのかと思ったが、それは間違いだった。一瞬飛び立ったかのように見えるが、すぐに急降下し石に頭を打ち絶命するのだ。彼らは一体何がしたかったのか。彼らは飛べると勘違いしたのか。彼らはこの世を諦め別の世界へ旅立ったのか。
抜け殻になった人間様は、戻ってきた鮭の行く手を阻んでいる事も知らずに川の流れに乗って何処までも流れてゆく。
この村は霧が濃く、空気は常に凛とした冷たさを保っている。
人工的につくられたコンクリートの道が途切れると、決まって犬の鳴き声がする。助けを求めるような、この世の嘆きを代弁している様なそんな鳴き声だ。
砂利道を奥へと進んでいくと、細い首輪が首に食い込み、身動きの取れなくなった毛の黒い犬が出迎える。さなえと同じくらい小さい頃にはめられたままの首輪は、成長しても誰にも手をかけてもらえなかった事を象徴している。
首輪から肉がはみ出た黒い犬に、さなえは決まって食パンを投げつける。黒い犬の頭を撫でてやろうとはしない。幼い頃に棄てられ、人間不信になった黒い犬は、人間様に対して強い不信感を抱き悲しみと苦しみが混ざった牙という憎しみを向け、お前らなど二度と信用するものかと鳴く。たった一人の人間様のおかげで、その他多数の人間様の信用まで失ってしまったことに、さなえは遣る瀬ない痛みを感じていた。私はあなたに首輪を付けた人間とは違うわ、と何度言っても同じだった。黒い犬の心を救う事は人間様には無理なのだろうか。
さなえが遠くから投げた食パンは鎖が届かないギリギリの所に落ち、飢えた黒い犬はどうにかして食パンにありつこうと必死になるが、その度に抉れていくのは首の肉だ。
それでも生きようと必死に鎖を引っぱり、真っ黒な目が、目の前の食パンに注がれ鼻息が荒くなる。目の前に呆然と佇むさなえに憎しみとも悲しみともとれる眼を向けて、必死に土を蹴っている。だが鎖は外れるどころか食い込んでゆくばかりだ。
さなえは怖くなったのか、どうすることも出来ない黒い犬を横目に砂利道をさらに奥へと進んでいく。
人間様が一度にいくつもの感情を抱え込む時、それを表現する事は安易ではないらしい。苛立ったり、泣いたり、怒ったり、黙り込んだり、思考の迷路にハマってゆく。そして時が経ち、次第に記憶から水蒸気のように蒸発してゆくのだ。そして過去の持ち物として置き去りにされていく。歩けば歩く程小さく映る黒い犬のように。
霧の迷路の先に錆びた小屋が見えてきたら、そこはさなえの遊び場だ。
寄ってくる黒猫や我々カラスにも、黒い犬と同様に食パンをちぎって与える。さなえは、何に対しても分け隔てなく接する事が出来る少数派の人間様である。
そして、閉じ込められた牛や豚の涙を拭き取り、励ます。あなたはきっと、私のパパやママがスーパーで買う事になるわ、そうしたら、私はいい香りのするハーブと一緒に煮込んであげるからね、そうして綺麗なお皿に丁寧に盛りつけて、あなたの命を私の命にするの、私はまた一つ、言葉を覚えるようにあなたの記憶を大事にしまい込むわ、あなたの肉体は無くなってしまうけれど、私の中であなたは生きる事になる、それが嫌?
牛の涙は涸れる事を知らず、傷口のような目から溢れ出す血のような涙。
草原を走り回り太陽を沢山浴びた草を食べて、お昼寝をしたかった、そう言った。豚は短い足を投げ出し、諦めたかのように下を向くばかりだ。太陽などは見向きもしない。糞のにおいに包まれて、狭い小屋に一日中閉じ込められているだけ。ただそれだけの命。毎日毎日、仲間が殺されてゆくのを横目で眺めては明日の自分を思う朝の静けさの中、止まらない震えと戦い出口の見えない恐怖を飼い馴らす。
私はさなえの後を付いてまわっている。さなえは動物たちに触れ、命の鼓動を確かめ、人間が動物たちと共存出来ていない事実に心を痛めている。血が通った命を、何故人間は感じる事が出来ないのだと思う?と私に語りかけるが、生憎私には血が通っていない。
まるで会話が成り立っているかのように、さなえと動物たちは穏やかに悲しみを受け止めている。
人間様との交流を極力避け、動物たちと接するさなえは私にとってあまりにも寂しく映る。それはさなえが人である以上、人間様同士の絆や感動を共有してほしいからだ。だがさなえは、家族とも心を通わせる事が困難であった。それは、彼女が人間様に対する不信感や罪悪感を常に感じているからであろう。
自分が人間様の子どもであり、自分も人間様なのだという事実を振り切るかのように、さなえは動物たちに親身である。
人間様の欲望がつくりあげた摩訶不思議な犬がここにも一匹存在している。
繁殖に失敗した犬は、耳が片方見当たらず、本来耳があると思われる場所に小さな穴があいているだけだ。それはまるで人の声を拒絶しているようだった。毛は抜け落ち、左目のすぐ横は大きな切り傷が深く刻み込まれている。棄てられた片耳の犬はさなえによく懐いていて、何度も殴られているのであろう人間様の手をペロペロと舐める。
私は木のてっぺんから辺りを見渡し、彼ら犬と同様一日中エサを探している。
手の付けられていない食パンを見つけた。その向こう側に、先ほど見た首輪の食い込んでいる犬が倒れていた。ピクリともせずに、だらしなく開けた口からだらんと垂れ下がった舌、そして閉じることを忘れた目。
あの犬は食パンさえも食べられずに、息を止めたのだ。
動物たちの悲しみを濃い霧が包み込み、涙を中和させていた。牛の吐き出す生臭い息が私とは正反対の色をしている。
私はその白い世界で、誰よりも目立ち誰よりも強いだろう。
それは私の主が、私自身を褒めて下さったからである。決して私の傲慢な心が先走っているからではない。
私には道などない。天に広がる全てが道であり住まいなのだ。彼らのように、狭い檻の中で余生を持て余すような私ではない。彼らのように、抵抗せずじっとしているような私ではない。
主の知恵と私の技術の息が見事合った時、それは人間様にも闘いを挑んでゆけるくらいの力に変わるのだ。だがそれでも私はあの人間様に限って、視界に入った瞬間にさなえの背中へピタリと隠れてしまう。
さなえは黒猫に先導され、小屋の裏に息をひそめた。実際の足のサイズよりも大きい長靴を履いた初老の男が、大げさな足音と共にやってきたからである。
初老の男は白髪まじりの薄くなった髪の毛をかき分けながら、鋭い視線を牛に向けた。それはまるで囚人に向ける看守の眼差しだ。ただ違うのは、罪を犯しているのは牛ではなく初老の男だ、と言う事である。囚人として牢屋に放り込まれるべきはこの人間様に間違いないのだ。
人間様から動物たちへ向けられる愛情は、全て自らの胃袋と金銭を満たすものであった。条件付きの愛情は動物達にバレている。自らの行く末も分かりきっている。それでも動物達はこの男を襲い、頭からかぶりついたりはしない。
初老の男は小屋の掃除を少しだけすると、動物たちの口にエサを突っ込み、そして丸々と太った豚を一匹連れ去った。
さなえはその一部始終を、動物になったかのように見ていた。連れ去られるときの恐怖感や、初老の男がどこからともなくやって来る時の緊張感、そして仲間がナイフでさばかれる瞬間。
「鬼畜だわ」
震えた声が霧に伝う。助けてくれ、殺さないでくれという豚の叫び声と血潮のしゅーという音が同時に谺している。
私は血潮に濡れないようにさなえの背後へとまわった。血液と言うものは私との相性が特別悪い。私をゼリーのように固めてしまい、ついには私が主の身体からこびり付いて離れなくなってしまうのだ。あの悪夢はもう二度とご免だ。臭いにも耐えられない。血液の臭いのおかげで私の主は食べ物のにおいを嗅ぎ分けることが出来なくなってしまった。私を睨み、私を抜こうとした。おかげで随分とスリムな体型になってしまったのだ。
しん、と静まり返ったこの山は、身体を動かす事を躊躇う程の冷たい恐怖にかられている。初老の男は部屋の奥に引っ込んでしまった。あの部屋は、調理場だ。豚を逆さ吊りにし、時間をかけて血抜きを行う。
さなえの背中は痛みを背負い丸く縮こまっている。皹の手が痛々しく黒猫を抱きしめ、あなたは大丈夫よと話しかけている。
公開処刑が行われた後の動物たちは、次第に感じない心を手に入れてゆく。ここから逃げる術を知らず、いつか自分も同じ目に遭うという現実から目を反らす事でしか安らぐ場所はないのだという。生きている限り地獄だと。生きている限り死と隣り合わせなのだと。
極度の緊張とストレスに晒され続けた結果、毛が抜け皮膚が爛れた馬がいた。彼女は身籠っていたが、初老の男は何を勘違いしたのか、そのまま山奥へ連れてゆき首輪をしたまま置き去りにした。
せめて、せめて首輪だけは外して欲しかった。私は彼女の上をぐるぐる飛ぶことしか出来なかった。そして彼女は、人間様の後ろ姿を見つめながら、棄てられたことで得た自由に不感症なままだった。
彼女は首輪で動ける範囲の草を食べ尽くすと、その場にへたり込んだ。次第に大きくなってゆくお腹をかばいながら、この子を産むまでは生き抜いてやるという決意を滲ませていた。来る日も来る日も鎖に繋がれたまま、雨にも耐えて風にも耐えて、子どもの無事だけを祈っている。
そして彼女はそんな状態の中、元気な赤ちゃんを産んだのだ。
出産に立ち会ったのは、私と私の主、それから数匹の仲間のカラスたちや野鼠、周囲の木々や祝福の舞いを踊る風たち。
彼女はめでたく母になり、もちろん首輪など付いていない最上級の自由を勝ち得た子馬が、元気に辺りを走り始めるのに時間はかからなかった。
母は、使命を果たしたと言った。この目で元気な子馬を見ることが出来た瞬間、全身に張りつめていた力が一気に抜けていくのが分かった。そして出産すると同時に深い深い眠りについたのだ。首輪につながれたままの姿は、いくら吸ってもミルクなど出ない程やせ細っていた。
私は泣きじゃくる子馬に一つだけ教えた。決して山を下りてはいけない。山をおりると熊よりも恐ろしい動物が君を待ち構えている。君は母のように首輪で繋がれたいかね?繋がれたくなければ、山を下りない事だ。
さなえは一度その子馬に出くわしたことがある。
不思議そうにさなえを見つめたあと、くるっと後ろを向き何処かへ走って行ってしまった。
人間界にも色々なことがあるように、自然界にも沢山の物語が生まれては消えてゆくのだ。私はこの世界を壊したくないと思った。人間様とは一線を画し、決して深入りはしまいと心に決めた。何故か人間様を知れば知る程、私は自然界のカラスの羽ではなくなってしまうような気がしたのだ。不思議なことだが、私の本能がそう叫んでいる。本能には従うこと、それが残酷なこの道を歩いてゆく一つの武器である。
初老の男はほぼ毎日小屋へ足を運ぶ。そして小屋の掃除をするわけでもなく、ただ食えそうな動物を吟味し解体作業に取り組むのだ。
私には男が悪魔のように見える。それはさなえも同じなようだ。
男はその肉を近所のスーパーに持っていき、パックされたものをさなえの親は買うのだ。そして今晩のカレーへと生まれ変わる。生まれ変わった肉はさなえの身体をつくりあげ、また一つ声が聞こえるようになる。
私はさなえの家の屋根の上で、一家団欒の声を聞いた。昼間見た解体シーンの映像と、カレーのいい香りがさなえの脳裏にどのように映っているのかは分からない。
だが、そのカレーという食べ物が美味しいという事だけは間違いないようだ。
夜も更けた頃、明日の命を天に祈りながら眠りにつく動物たちとともに私も眠る。
人間様に与えられた平等という観念。
それは、明日が来るか来ないか分からない、という事ではないだろうか。
大人も子どもも、そして動物達にも、あの初老の男にも、この私にも、明日がくるなどという保証はどこの誰も持ち合わせていない。
この星にさえ、保証などどこにもないのだ。ないものを追い求めたがるのは、きっと人間様だけだろう。そして犠牲になってゆくのは、人間様よりも弱い動物たちなのだろう。
だが私は、さなえに永遠を感じている。彼女はこの地球上で最も美しい、新芽の輝きだ。
私は、さなえの輝きを私が終わるその時まで、見守ってゆこうと決めた。