嵐の日の記憶
瞬くと、止め処なく激しい雨が窓に打ち付けられていた。
遠くで何かの轟きが聞こえ、部屋に微かな振動をもたらしていた。
嵐から隔絶された部屋は妙に静けさが漂い、心の内側にザワザワとした嫌な感覚を覚えさせた。
「今日はさすがに外に出ないほうがいいよ」
窓越しに辺りを見渡しても誰一人歩いていない。
風に葉を裏返されながらも必死に倒れまいと耐えている街路樹が見えるだけだ。
「会えるって言ったのに」
「会える状況なら会ったさ」
「昨日も同じこと言った」
「昨日もすごい雨だったじゃないか」
「近いんだし、大丈夫だよ」
「いやいや、外見た? こんな状況で外に出たら一秒でずぶ濡れだから」
テレビではどのチャンネルを廻しても今年最大級の台風の情報を取り上げている。
「テレビつけてる? 広い範囲で大雨と暴風の警報が出てるよ」
ぼんやりと退屈なその画面に目を向けながら、付き合い始めたばかりのミカを諭す言葉を探していた。
「ほら、今、洪水注意報まで出たよ。河川が氾濫する恐れだってさ。すぐ傍の河じゃないか」
どこかから感じられる振動は、もしかしたら河川の激流からくるものなのかもしれない。
画面の中の見覚えのある町並みが無秩序に増水した河川に緊迫の色を濃くし、凶暴な側面を見せていた。
「もし来るなら、こんなに危ない河を渡ってこないといけないんだぜ?」
そんな脅しを使っておきながら、同時に僕はどうしてだろう、荒れ狂う河川の向こう側に僕の部屋を強い眼差しで見つめる彼女の顔を想像してしまった。
「行くもん」
「ダメだ。危ない。絶対来ちゃダメ」
珍しく引く気配を見せないミカにいつもの従順な彼女とは別の一面を見た気がした僕は、心が揺れるのを感じながらも冷静さは失わず、辛抱強く説得を繰り返した。
「あと二、三日で必ず会えるんだから」
「やだ。昨日も会えなかった。今日も会えないなんて」
「君のことを心配してるんだよ」
「大丈夫」
「万が一、何かあっても責任取れないから」
「そんなの、望んでない」
とりあわない彼女の言葉に少しずつ苛立ちが募り、僕は再び窓外に視線を向け、一つ大袈裟な溜め息をつく。
「来ても入れてあげない」
「どうして」
「危ないから来て欲しくないんだ」
「大丈夫だよ」
「大丈夫じゃないから言っているんだよ」
「会いたい」
「俺も会いたいよ」
売り言葉に買い言葉でそんな台詞を吐いた後、携帯電話は唐突に切れた。
サバサバしてノリの良い、でもそれなりに賢そうな女を大概に選んでいた僕に、ミカを見た元カノは怪訝そうな顔をした。
「どうしてあの子なの」
先週のゼミのミーティング帰り、元カノは妙に距離を縮めて訊いてきたのだった。
確かに今まで付き合ってきた女性の傾向とミカはあまりにかけ離れていた。
だからそう訊かれると、どちらかと言えば恋愛体育系を好む自分には珍しい選択だったように思えてくる。
「何に惹かれたの」
そう問われ、即座に答えが見つけられなかった。
文系女子であるミカの恋愛系統は王道的な奥手で、どちらかというと僕の疎んじている系統だった。
どうして自分は彼女に惹かれたのか。
それはもちろん、彼女からの微かな好意を見逃さなかったところもあるが、それは理由になっていない。
「たぶん、あのだらしない笑顔だな」
ミカのその表情を思い浮かべながら僕は言う。
「お前には出来ない表情をするってことだよ」
それを聞くと元カノは合わせていた歩幅を諦め、僕の背中にきつい視線を刺したのだった。
たしかに僕は、ミカのあのだらしない笑顔に惹かれていた。
それは福笑いのように目が細く垂れて、少し並びの悪い歯が見え、口が無造作に歪められる顔だった。
その破顔は特に、大抵のことは許されるんじゃないかと思わせるものだった。
だからじゃないが、僕は彼女にそれなりにひどい仕打ちをしてきたように思う。
意識的に自分勝手な行動を取ってきたとすら思う。
そしてそれらの馬鹿げた言動を、あのだらしない笑顔はやはり許してくれたのだった。
雨の中で小説を読むとき、大抵はものすごい集中力を発揮するものだが、その時の僕は違った。
まさかと思って電話をかけてみたが、コールはするものの通話には切り替わらなかった。
「さすがに来ないでしょ」
そんな言葉を言い聞かせるように一人ごちる。
電話が切れてからだいぶ経っていたから、もし万が一ミカがこちらに向かっていたとしてももう着いていないとおかしい時間だった。
天気のいい日なら僕達の家を二往復は出来るだろうと時計を見ながら僕は思った。
勢いの弱まることを知らない雨が窓外の景色を滲ませている。
台風だというのに気温は下がらず、湿度と共に不快指数は上がる一方だった。
じっとしていても首筋を汗が伝う。
「何で出ないんだ」
再び電話をしても繋がらず、どんどんイライラが増していく。
「きっと俺のことを心配させたいんだ」
ネガティブな発想が生まれ、無意識に彼女の家の方を僕は睨んだ。
―――その時だった。
雨粒ではない何かがドアを何度も打ち付けた。
僕は信じられない思いで半ば苦笑いを浮かべながらドアを開ける。
―――そこには、傘も差さずにずぶ濡れに濡れたミカが突っ立っていた。
何かを言う前に暴風にドアを取られ、僕は反射的にそれに抗った。
同時に抱え込むように彼女を部屋の中へと引き入れ、ドアを閉めて風雨を防ぐことに成功した。
一瞬の出来事だったのに、雨は部屋の奥まで侵入しフローリングを濡らしていた。
それより、ずぶ濡れの彼女から滴る水が見る間に溜まっていくのが見て取れた。
ミカはしばらく肩で息をして、放心のままその場に立ち尽くしていた。
髪の毛が濡れてぼさぼさになり、頬に無数の雨粒が弾かれていた。
Tシャツもロングの麻のスカートもじっとりと水を含んで肌に張り付いていた。
寒さで鳥肌が立っていた腕を僕が無意識に掴むと、彼女は我に返ったように顔を上げた。
「来ちゃった」
そしてあのだらしのない笑顔を作った。
「ばかやろう」
僕はそう言った傍から彼女の着ているもの全てを出来る限り乱暴に剥ぎ取っていった。
そして有無を言わさず、その場でミカを抱いたのだった。
フローリングの上に力なく寝そべる彼女を見て僕は、まるでボロ雑巾みたいだと思った。
水浸しの彼女の衣服は部屋の隅に追いやられていたが、彼女はそれに類似した印象を僕に与えた。
ミカの腰に手をやり、コメカミを伝う汗をそのお腹で拭き取った。
胸に顔を埋め、少し歯を立てて乳首を吸うと、不意に彼女は僕の頭に手を添えてきた。
見上げると、一瞬、ひどく大人びた表情だった彼女は、僕を見つけてまたあのだらしない笑顔を向けてくるのだった。