2、再来
この季節らしい、眩しくて、しかし優しい光の太陽が東の空に登った頃。俺が自宅で、昨日の夕飯の残りを独り食べていると。
「ねえアステール!」
聞き慣れた若い女の声が、ドアの方から飛んできた。小鳥のさえずりのようなその声は、朝っぱらから聞きたくないもの不動のナンバーワン。
目を伏せてしばらく思考を巡らせた俺は、声を無視して食事を続けることにした。気配はもちろん押し殺す。抑えろ、俺。あいつとは関わり合いたくない。
しかし、彼女には謎の索敵能力があったようで。
「無視なんて酷いじゃないっ」
なんてピーピーさえずりながら、自宅のドアを思いっきり蹴り開けた。登場したのは夕焼け色の長髪を、二房毛先で緩く三つ編みにした少女。丸めた拳を腰にあててぷりぷり怒っている。
彼女の名を、ルル。何故か村で人気のお転婆娘だ。交友関係も広く、友人なら腐る程いるだろうに、ここ最近ずっと俺のところに来る。
「いつかドア壊れるからやめてくれない? お前確か十三歳だよな。人の頼み事くらい聞けよ」
ため息混じりにそう注意するも、少し盛っても俺の肩ほどの高さしかない少女は、俺に断りも入れずズカズカと図々しく家に上がり込んできた。
俺の目の前に来ると、ずい、と詰め寄って来る。ぴんと伸ばした、軟弱な……こほん、小さく細い人差し指を、名前の通り俺の脳天に差した。うわ、不愉快。
「あんたが無視するのがいけないのよ! こうやってあたしが遊びに来てあげてるのにさっ」
「遊びに来い何て言った覚えはないし、正直迷惑だから失せろよ」
素直に自分の気持ちを口に出す。案の定、顔を真っ赤にしたルルは俺に殴りかかってきた。
「何でよ! スリザーには優しくするくせに」
湿った目で睨みつけてくるルルには悪いが、恐怖なんてもの感じない。しかも、元々細っこい体型で、しかも十三歳の少女の殴りは、毎日鍛えている俺の体に何の影響もない。
ここだけの話、力も技術も才能もあるスリザーのほうが、百倍も恐ろしい。
「スリザーは恐ろしいところもあるけど、お前よりだいぶまともだろ」
ルルを引き剥がす。それでも尚抵抗を続ける猫を、仕方なしに宙吊りにした。俗に言う、〈高い高い〉。これじゃ兄が駄々をこねる妹をあやしているようだ。それにしては妹が随分デカいが。
「おろしなさいよーっ! 確かにあの子は美人だし強いし頼りになるけどさっ、捻くれてるじゃない!」
「そうか? まあそうかもしれないが、俺も充分捻くれてるし。お互い様ってとこだな」
そう言えば、悔しさに顔を歪ませたルルは俺の腕に目を付ける。そして勝ち誇ったような笑みを浮かべると、そっと手を添えた。嫌な予感が脳裏に過る。
「ちょ、それはないだろ!」
慌ててルルを下ろすが、時すでに遅し。ガッチリと掴んで離すまいとするルルは、「もう遅いの」と大変輝かしい笑顔でそう告げた。
彼女の猫顔負けの鋭利な爪が、俺の皮膚に突き立てられる。
「こんな、それほど筋肉もついてない軟弱な体じゃ、あたしの攻撃に耐えられないでしょうね」
「待て、話せばわかる、話せば!」
俺の待ったも聞かず、ルルは女神のような微笑みを向ける。そして、勢い良く爪を皮膚に押し込んだ。
言葉にならない痛みが腕を中心にして全身に駆け巡る。反射でルルを突き飛ばしそうになるも、抑えた。くそ、こいつがただの悪党だったらよかったのに!
顔を伏せて腰を屈め、何とか痛みに耐える。歯を食いしばるも、顎が痛くなってきたのでやめた。
「も、もう気が済んだだろ……! 早くやめろって……!」
丁度骨という大変痛いところを確信的に握りつぶしているルルは、それでもやめなかった。
「気は済んでないわよ。そうね、アステールがごめんなさいって十回言ったら許してあげなくもないわ」
サディスティックな笑みをたたえ、顔を仰け反らして俺を見下すルル。このクソアマには辟易していた。しかし痛みからは早く逃れたい。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
霞んだ虚空を見つめて、精神異常者のように唱えると、ルルは満足げに鼻を鳴らして手を解放した。
やっと自由になった腕を愛おしそうにさする。あ、大量出血してる。
「あら、血、出てるわね。結構手加減したつもりだったんだけど」
「あれのどこが手加減なんだよ」
俺の嫌味のつぶやきをしっかりとその地獄耳で捉えていたようで、ルルは今までよりキツい睨みを俺に向けた。顔を逸らしてすぐに謝る。「ごめんなさい」
「それでいいわ」いやらしい笑みでうなずいたルルは、俺の腕を指差す。「治してあげるから、出しなさい」
「はじめっから治すつもりだったら、そもそも爪をたてないでくれたほうが俺としてはよかった」
愚痴をこぼしつつルルに腕を差し出すと、彼女は無表情で傷口をつねった。
「いっ……」
今までの二倍くらいの、傷口に塩を塗り込んで、そのあと針で刺しまくるような痛みが襲った。今のはずるい。溶岩のような怒りがこみ上げて来る。
「治してあげる人にその態度は何よ」
相変わらずの女王様。火山が噴火しかけたところで、俺は舌打ちした。
「もういい。こんなの数十分すれば完全に治る」
おもむろに立てかけてあった剣を手に取ると、ルルを避けて玄関に向かい、ドアは丁寧に開けて外に出る。
ドアを閉めた自宅の中からは、「ちょっと待ちなさいよ! 数十分で治るはずないじゃないっ」というキーキー怒った声が聞こえる。猿か、あいつは。
ルルから逃げるように、しばらく走った。走って、小さな草原にたどり着く。確かここは、村の郊外だ。
すっかり沸騰した頭の血を、平温に戻すために髪の毛を掻きむしった。母親からの大切なプレゼントである黒髪が、指に絡みつく。そしてルルの髪の毛より長いため息をつくと、目をつぶって心を落ち着けた。
しばらくすると、大嵐の大海原のようだった気も済み、やっと平常心を取り戻す。風が運んでくる緑の香りが、とても心地よかった。肺に、出来るだけためる。
「はー、あいつだけはどうも癪に障るんだよな」
柔らかな芝生に仰向けに倒れこみ、雲ひとつない、清々しい青空を見上げた。
他のやつに何を言われても、そんなすぐに怒りはわかないが、ルルだけは、ルル相手にだけは絶対に我慢など出来なかった。
理由もわかっていた。
多分、あいつが羨ましいからだろう。
笑顔がよく似合い、活発で元気な可愛らしい人気者の少女。
それがルルだ。じゃあ俺はどうだろう。
捻くれてて、交友関係も極端に狭く、陰気で変わり者の男、と村人に思われていること違いない。
そんな自分の元へやってくる正反対のルルが、まるで俺をあざ笑っているかのようで気に食わなかった。
明らかに自分より劣った、恵まれてない者を見下すやつは大っ嫌いだ。一生かけても好きになれやしない、と俺はわかっていた。そういう奴らは、あの使えない王族と同類だ。まあ、ルルが吐き気を催すほど嫌い、というわけではないのだが。
とにかく、あいつの相手をずっとするくらいなら、スリザーの訓練に一日中付き合ってたほうがずっと楽しいし有意義だ。彼女なら、ルルのように卑怯な手を使わず正々堂々決闘を申し込んでくるだけだし。それに、決闘の相手をしている際の、彼女の成長を感じるあの瞬間が好きだった。よし、今からでもいいから行くか。
そう考え、スリザーの元へ逃げようとしたその時。
「大変だあ! 隣街が魔物の大軍に襲われて、壊滅したらしい! そしてこの村に向かって来てるんだとよ!」
何処からか、必死な叫び声が聞こえた。
家の中にいた人々は、しばらくすると必要最低限の荷物を持ち、各々血相を変えて家から飛び出してきた。そして、魔物に襲われた街の逆方向に走っていく。騒がしい足音が叫び声の中に、泣き声や怒声も混じっていた。
しかし、あのスピードじゃあ、魔物に追いつかれてしまうだろう……。
このままじゃ、村は全滅だ。
風がざわついた。
鼓動は早くなる。
つい呼吸が出来なくなり、激しく咳き込んだ。
何かにのしかかられるような感覚が襲ってきて、苦しい。
ーー落ち着け、落ち着け……!
そう何度も何度も暗示して、やっと、心は平静を少し取り戻す。
気づかぬ間に、背中には大量の冷や汗をかいていた。
ーーそうだ。俺はこの展開に既視感がある。
全てはあの忌まわしい、十年前の出来事。
俺を今の俺とたらしめる、きっかけとなった出来事。
忌まわしい過去の記憶や王族に対する激しい憎悪、沸き起こる恐怖とは裏腹に、俺は熱くなる体や心を抑えることは出来なかった。
「そうだ……この日のために、俺は強く……なったんだ……!」
だが、己の体の異変に気づく。
正直、もっと恐怖はないものだと思っていた。強くなるためならどんな汚い手でも使ってきた俺は、殺し合いには慣れている。きっといつかくるあの日も大丈夫だろう。そう思っていた。
しかし、何故か体が震えるのだ。
これは恐怖からのものだろうか? 最初はそう疑問に感じていた。でも、すぐに違うのだと理解する。
怒り。
あの時痛感したその感情。その俺の感情が、己の中の戦士としての血を、思い切り高ぶらせていたのだ。
「……出来る」
そう確信した。今の俺は、強い。過信は身を破滅に導くが、これは過信なんかじゃないとわかっていた。確信なのだ。
十年前のあの日、瀕死の父から譲り受けたオンボロ剣の鞘を握る。
やっと、他人を護れる。無力な自分に涙を流し、使えない王族を憎むことしか出来ない、あの日の幼い俺はもういないのだ。彼は、死んだ。あの日、みんなと一緒に死んだんだ。そして今の俺がいる。みんなを護れるだけの、役立たずな王族に頼らないで済む力を持った、俺がいる。
「あの苦しみを、悲劇を繰り返すなんて愚行、絶対に、俺の目の前ではさせない」
この村には、故郷より多い子どもたちがいる。彼らの運命もまた、俺が握っているのだ。
村には軍は来ていない。そりゃあそうだろう。あの王族どもが、こんなへんぴな村に軍を送るはずがないのだから。
村に戦える者は、俺とスリザー以外、いない。スリザーが何処にいるのかわからない今、共闘は諦めたほうがいいだろう。
鞘や柄とは比べものにならないくらい綺麗な、そして薄っすらと青い刀身の剣を抜き、俺は魔物がやってくるであろう方向に走る。
「おい、アステール! 何してんだ、そっちは逆方向だぞ!」
村人の、俺を心配する叫び声が聞こえた。振り返って、俺は笑う。
「問題ない。俺が、魔物全部殺してやる!」
唖然とした村人は、奥さんに首元を引っ張られて逃げて行った。俺を心配してくれた優しいあんた、どうか、無事でいてくれよ。
村の隅、隣街へ続く道がある場所へ着いた際には、流石の俺も目を見張った。
「おいおい……多すぎないか、これ」
目の前に広がる森の中、全部数えていると気が狂いそうなほどの量の殺気を感じた。十年前のあの出来事より、少しばかり多い気がする。
ーーまあ、そんなの俺には関係ない。
上がる口角を必死に抑えながら、俺は森の中をよく観察した。お、一匹出てくるぞ。
その時、俺は思わず目を見張った。ここ数年間で、一番の衝撃を受ける。
「おい、お前! 何してんだ、早くこっち来い!」
森の中から出て来たのは、魔物でも、動物でもなかった。
人間だ。それも、闇夜のような上品なローブを見にまとい、フードを深く被った、恐らく若い男性。歳は俺と大差ないだろう。
彼は、森から走り抜けると、後ろから襲ってきた狼型の魔物をナイフか何かで間一髪切り裂いた。立ち振る舞いからかなりの手練れのようだが、体力はもう限界に達しているだろう。恐らく、隣街から命からがら逃げてきた、といったところか。
急いで彼の元へ駆け寄り、わいてでてくる魔物を斬りつけて行く。
「早く逃げろ! ここは俺がなんとかする!」
足取りがおぼつかない青年に叫びかけると、力なくうなずいた彼は村の方へ走っていく。それを追随する魔物を、殺す。
幸い、村の入り口が狭いおかげで取り損ねる魔物はいなかった。森は山に挟まれているし、魔物も少しずつしかこちらに来れないのだ。
たくさんの魔物の血を浴びながら、俺はふと思った。
魔物は、とても下等生物と思えないほどの結束力だ。
こんな結束力、知的生命体、つまり人間をひっくるめたヒューマノイド型の者にしか見られない。
つまりーー。
嫌な予感がした。過去のモノクロの記憶が蘇る。開けてはいけない箱を、開けているような感覚だった。
「……考えるのは後だ」
今は……目の前の敵に集中しよう。