モモ
「おーい、モモ」
先日、我が家の新しい住人になったあやかしの名を呼ぶ。
まだ少し気恥ずかしい。
「なんですか、ご主人」
モモは尻尾を振りながら、軽快な足音でかけてくる。
「いや、ただ呼んでみただけ」
「もう、忙しいんですから遊ばないでくださいよ」
そう言いながらも、尻尾は大きく振られているのを見るに、満更でもない様子。
しかし、実際にモモが忙しいのは確かだ。
モモは恩を働いて返す、と言ったので試しに家事をやらせて見たのだが、
お約束を無視して、モモは炊事洗濯掃除その他雑務をすべてそつなくこなしてみせた。
「あの時の勝ち誇った顔は今でも忘れない」
「何か言いました?」
「いや、なんでも無い。今日のご飯は何だ?」
今もモモは食事の支度をしてくれている。
「今日は、シメジのお味噌汁と、卵焼き、ほうれん草のおひたし、鮭の塩焼きです」
「パーフェクトだっ、しかし間違っている!」
「ええっ!?」
「犬娘なら犬らしく肉とか骨とかあるだろう!」
「ぷっ、そんな漫画じゃあるまいし」
「鼻で笑われた! 存在自体が妖しいあやかしに?!」
そんな無邪気なやり取りをしながらも、モモは朝食の配膳をすませる。
「さ、暖かいうちにどーぞ」
いただきます、と声をそろえて箸を取る。
まずは味噌汁。出汁の香りが味噌の風味と合わさり、シメジから出る旨味とあわさり絶妙な味わい。
卵焼きはふっくらとした厚焼き玉子。ほのかな甘みが味を引き立てている。
ほうれん草のおひたしには、薄塩が掛かっているだけだが、鮭の塩気にはいい箸休めだ。
「うん、美味い」
そういうと、モモは満面の笑みで応える。
美味い飯に家事全般。
それに加えてモモの容姿は贔屓目に見ても可愛らしい。
そんな彼女が甲斐甲斐しく尽くしてくれるというのは、男なら誰もが憧れるシチュエーションだろう。
だが、それ故に困ることもある。
まず一つ目、モモはあやかしという得体の知れない存在であるということ。
いわゆるオカルト系の存在を十派一絡げにそう呼称してはいるのだが、
あやかしはそれを噂にこそ聞くものの、実際に遭遇した、と言う人物にはお目にかかったことが無い。
モモ曰く、あやかしは見えないようにしているか、人間が見ないようにしていると言うが、それ以上の説明は無かった。
俺の目には犬耳&ふさふさ尻尾を生やした少女に見えるが、他の人間には違うように写るのだろうか?
昼間、俺が外に出ている間、モモは家でごろごろしているのかと思ったら、いつの間にか隣の住人と親しくなっていた。
「いい子だから、大事にしなよ」
と言われたのは、モモをどう見てのことなのだろうか。
二つ目は、モモとの付き合い方。
モモ曰く、自分は犬のあやかしとの事だが、さすがに人の姿かたちをしている以上犬扱いは出来ないし、俺にそういう趣味は無い。
かといって、ただの居候とするには、モモはフレンドリー過ぎるというか、こちらに対する好意を隠そうとしていない。
拾われた恩と言ってしまえばそれだけなのだろうが、存在自体が怪しいあやかしの事だから、何か裏があるのではないか。
そんな勘繰りがあるからといって、こちらを慕ってくる美少女を無碍にするというのは、男の風上にも置けない行為だ。
要するに、俺はモモを信用できていないという事なのだろう。
久々に快晴となった日曜、俺はモモと散歩に出かけていた。
モモは何が楽しいのか、あちこちで足を止めては色々と見て回る。
小走りで駆けて行ったかと思えば、また戻ってくる。
あっちには何があった。こっちにはなにがある。
そんな事をわざわざ楽しげに報告する様は、まるで子供や子犬を見ているようで俺にも笑みが浮かぶ。
うん、これは明らかに犬の散歩だ。
とはもちろんモモには言わず胸に秘めておく。
「ご主人、ご主人。あっち行きましょう!」
モモがまた何か見つけたのか、俺の手を引いて足を速める。
なかなかの俊足だ。さすがは犬妖と言ったところだろうか。
呼吸が速くなるほど駆けた時、不意にモモが足を止めた。
場所は人気の無い公園だ。
あたりには木々や植込みが多く、道を外れれば人目には付きそうにない。
まさか、との期待と不安が胸を焦がす。
「なんでここに……」
その言葉は、モモの口から漏れた。
「それはこちらの台詞」
第三者の声と共に、不意に視界がぶれる。
眩暈にも似たその感覚は一瞬で収まったが、俺の目に映る世界は一変していた。
現れたのは黒を纏う少女。
禍々しさと、神々しさ。
矛盾を内包するそのその黒は、少女を中心に蠢く様に世界を蝕んでいた。
「律が乱れたかと思えば、なるほど犬妖如きが名を名乗るなど」
じわり、と黒が蠢く。
恐怖と畏怖。
その少女はただ在るだけで、背骨に氷柱をぶち込まれたかのような怖気をもたらす。
「犬妖、二度とは言わぬぞ。名を捨てよ」
モモが、後ずさる。
後姿でその表情は見えないが、葛藤、そして恐怖と必死に戦っているのは手に取るようにわかる。
「モモ、は……」
喘ぐ様に、絞り出すようにモモが口を開く。
だが、その次の言葉は出てこない。
ああ、俺はお節介な奴だ。
好き好んで面倒毎に巻き込まれる。
分かっている。
だけど目の前で困っている、助けを求めている奴がいるのに手を差し出す事ができないのは、
……とっても嫌だ。
見捨てるのは、後味が悪い。夢見が悪い、気分が悪い。
見返りなんて関係ない。ただ、そう、とっても気分が悪いのだ。
「モモはモモだ!」
俺の声が沈黙を打ち破る。
「俺がつけた。モモが受け入れた。それ以上でも、それ以下でもない」
ぴくり、と黒の女の表情が一瞬だけ動きを見せた。
「お前が誰だか知らないし、知る気も無い」
「だけどな、人の大事な名前を勝手に捨てろなんて無茶を言う奴に付き合う義理も道理は無い!」
それに応えたのは、笑い。
苦笑、嘲笑を経ての呵呵とした大笑。
「ああ、なるほどね。だから、か。縁だね。いいよ、認めよう。犬妖改め、モモ。帳簿に記すよ」
先ほどとは打って変わって、恐ろしさがかき消えた少女は陽気を振りまきながら、
どこからか巻物を取り出し筆で何かを書き込む。
「お節介だろうけど、仕事だから忠告、まあ警告でもいいかな。好きにとりな」
少女は書き物をつづけながら歌うように続ける。
「あやかしは、名をもたない。個であると同時に全。ある意味群体とも言える」
「しかし名は体を現す。君がこの犬妖にモモと名づけた瞬間、世界はこの犬妖をモモと認識する」
「分かっているだろう、このモモは、あのモモだ。そうだよ、君の思っている通りだ。いや、違うかな、君の望んだ通りか」
心臓を万力で締め付けられているような痛みが走る。
「まあ、犬妖も受け入れた以上、合意の上だ。この身が文句をつける筋合いではないがね」
黒を纏った女は、まるで溶けるようにその黒に飲まれていく。
「うん、でも最後に一つだけ言わせておくれ。妖と交われば、人の普通は通用しなくなる」
「朱に交われば、と言う奴かな? 只人でありたいのなら、早々に縁を切ることをお勧めするよ」
その言葉だけを残して、黒の女は幻のように掻き消えた。
全身の力が抜けて、大地にへたり込む。
ため息を吐こうと思っても、息が細切れになって呼吸もろくにできないほどの有様だ。
「ご主人……、だいじょうぶですか」
力のない声で、モモがこちらの顔色を伺う。
それにはとりあえず手を振って応える。
モモが買ってきた缶コーヒーでようやく一息をつけたころには、日が既に傾いていた。
「聞いてもいいか、あれは?」
それはもちろん、先ほどの黒い女の事だ。
「この辺りのあやかしの元締め、みたいな感じです」
モモはぽつりぽつり、と言葉をつなげる。
「人を襲う類のあやかしを大人しくさせたりとか。あやかしの領域を侵す人間を罰したりとか……。まあ、あやかし絡みで人との間に問題が起きない様に調整している偉い方だと思っていただければ」
なるほど、と頷くとモモは続ける。
「あやかしは基本的に人と深く関わりません。昔からの慣習、みたいなものですが」
さらに言葉は続く。
「異種婚譚ってご存知ですか? 昔話で、人間とあやかしが結婚するっていう類の話なんですが」
「雪女なんかが有名だな」
「最後は決まって幸せにはなれない」
その言葉は深いため息と共に吐き出された。
「故にあやかしと人は交わるべきではない」、
なるほどな、と俺もため息を吐く。
ここからが、本当に聞きたかった事だ。
「お前は、本当にモモなのか?」
モモは少しはにかんだ笑顔で、はいと答える。
その言葉で、俺の記憶の底に押し込められていたモモの思い出が溢れて来た。




