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ゴミクズ旦那が王妃様と不倫していたので、国王にチクって修羅場にしたいと思います

作者: ヨルノソラ
掲載日:2026/05/07

 鈍い音がして、頬の内側が切れた。


 鉄錆の味が口の中いっぱいに広がる。床に手をつこうとしたソフィアの腹に、もう一度爪先がめり込んだ。


「お前、とろくてイライラすんだよ!」


 ドグラスの怒鳴り声が、磨き上げられた大理石の天井に反響する。ソフィアは声を上げなかった。声を上げれば余計に殴られるということを、結婚してからの数年で身体が覚えてしまっていた。


「ぐっ……」


 喉の奥で押し殺した呻きが漏れる。それすらも気に障ったのか、ドグラスは履いたままの靴で彼女の髪を踏みつけた。地肌に鈍い痛みが走る。


「気色悪い声を出すな、豚が」


 ドグラスは椅子に乱暴に腰掛け、テーブルに置かれた紅茶のカップを口元に運んだ。一口含み、彼は眉をひそめる。


「ぬるい」


 ガシャン、と音がして、カップがソフィアのすぐ脇の床に投げつけられた。陶器の破片が散らばり、熱の引いた紅茶が彼女のドレスの裾に染みを作る。


「淹れ直してこい。次にぬるかったら、お前の顔に注ぐぞ」


「……はい」


 ソフィアは床に手をつき、震える脚で身を起こした。割れたカップの破片が掌に刺さる。けれど、もう痛みなど感じなかった。あるいは、感じなくなったふりをするのが上手くなっただけかもしれなかった。


 厨房までの廊下を、彼女は壁に縋るようにして歩いた。脇腹がずきずきと痛む。




 ──もう、何年こんな日々が続いているだろう。


 結婚した当初、ドグラスは完璧な紳士だった。社交界で話題の若き侯爵。整った容姿、洗練された物腰、王宮でも名を知られる切れ者。ソフィアの父であるエヴァンス伯爵は、娘がこれほどの男に望まれたことを誇りに思った。


 けれど、初夜が明けた朝、ドグラスはソフィアの頬を平手で叩いた。


「お前のような女と寝なければならない俺の身にもなれ」


 その一言から、地獄が始まった。


 外面の良いドグラスにとって、屋敷はストレスの捌け口だった。社交界での笑顔、王宮での慇懃な振る舞い、その全ての仮面の裏に溜め込んだ苛立ちを、彼は妻に叩きつけた。


 殴られ、罵られ、食事を抜かれ、夜は夜で別の地獄が待っていた。


 一度だけ、ソフィアは父に手紙を書いたことがある。助けてほしいと。それを見つけたドグラスは、笑いながら手紙をびりびりに破き、彼女の前で燃やした。


「実家に泣きつくのか? お前の父親の伯爵領の借金、誰が肩代わりしてやってると思ってる? 俺が一言『娘がヒステリーで困っている』と言えば、エヴァンス伯爵家など明日にでも潰れるんだぞ」


 それ以来、ソフィアは何も書かなくなった。


 何も、言わなくなった。


 鏡を見るのもやめた。痣だらけの顔、痩せこけた頬、生気の失せた瞳。そこに映るのが自分だと認めたくなかった。


「早く死にたい」


 厨房に向かう廊下で、ソフィアは小さく呟いた。それは祈りに似ていた。神様、どうか今夜、眠っている間に心臓を止めてください。明日の朝、目が覚めませんように。


 けれど、神様は彼女の声を聞かなかった。


 毎朝、ソフィアは目覚めた。そして、地獄が続いた。


 §


 その日、ソフィアは血抜きを命じられていた。


 ドグラスが昨夜、酒場で喧嘩でもしたのか、上着の袖口に血の染みをつけて帰ってきた。本人の血ではない。誰かを殴って、その返り血を浴びたのだろう。


「明日までに落としておけ。落ちてなかったら、お前の血で同じ場所を染めてやるからな」


 そう言い置いて、ドグラスは早朝から王宮へ出かけて行った。


 洗濯室で、ソフィアは冷たい水に手を浸して上着を揉み洗いしていた。指先がかじかむ。爪の周りはひび割れ、薬指の付け根には消えない火傷の痕がある。


 ふと、上着の内側に何か硬いものが入っていることに気付いた。


 隠しポケット。ドグラスが大事なものを入れる場所だ。


 出てきたのは、一通の手紙だった。


 蝋封の紋様には、見覚えがあった。王家の紋章。


 ソフィアの心臓が、久しぶりにどくんと跳ねた。


 王家からの公文書をドグラスが隠し持つ理由は何だろう。彼女は震える指で封を開いた。中を読んだ瞬間、息が止まった。


『愛しいドグラス』


 冒頭の三文字で、もう全部わかった。


『あの老いぼれの肌に触れられるのは苦痛でしかありません。皺だらけの手で撫でられるたび、虫唾が走るのです。早くあなたの腕の中に抱かれたい。あなたの唇で、あの男の存在を上書きして欲しい』


 署名はなかった。けれど、必要なかった。


 国で、夫を「あの老いぼれ」と呼べる女は一人しかいない。


 半年前に国王の三人目の妃として迎えられた、若き王妃。社交界に彗星のごとく現れ、その美しさで全ての貴族の目を奪った、十八歳の少女。


 あの王妃と、ドグラスが。


 ソフィアは手紙を握りしめたまま、洗濯室の冷たい床にぺたりと座り込んだ。冷水で濡れたドレスが脚に張り付き、震えが止まらない。


 けれどそれは、寒さからの震えではなかった。


「……あ」


 何かが、胸の奥でぴしりと音を立てた。


「あは」


 笑いが、勝手にこぼれた。


「あはははっ、あははははははっ」


 押さえようとしても止まらなかった。乾いた笑い声が、誰もいない洗濯室の石壁に反響する。


 おかしかった。


 たまらなく、おかしかった。


 自分を毎日サンドバッグにして高笑いしている男。社交界では爽やかな笑顔を振りまき、王宮では国王陛下に忠誠を誓う美辞麗句を並べていた男。


 その男が裏で、よりにもよって国王陛下の妻に手を出している。


 国で一番偉い男の顔に、これ以上ないほどの泥を塗っている。


 ソフィアの脳裏に、王宮で見た国王陛下の姿が蘇った。初老の域に達したあの方は、若い頃に大陸を血で染めた征服王だ。冷酷で、残忍で、敵を皆殺しにすることで王座を磐石にした男。


 そんな男の妻に、自分の夫が手を出している。


「あははは……あははははっ……!」


 ソフィアは床に這いつくばって笑った。涙が出た。腹がよじれた。久しぶりに、本当に久しぶりに、感情が動いた。


 死にたい、と毎日願っていた。


 でも、死ぬのは、いつでもできる。


 死ぬ前に。


 死ぬ前に、この男を、私と同じ地獄に──いや、私の地獄なんかよりずっと深い、もっとも残酷な地獄に、引きずり落としてからにしよう。


 笑い声がだんだんと小さくなり、やがて止んだ。


 ソフィアはゆっくりと身を起こし、手紙を丁寧に折り畳んで、自分の胸元にしまった。


 鏡台の前に行く。


 そこには、痩せこけた、痣だらけの女が映っていた。


 けれど、その瞳の奥には、いつもの虚ろさとは違う、ぎらりとした暗い光が宿っていた。


「奥様、どうかなさいましたか」


 通りかかった老侍女のマーサが、心配そうに声をかけてくる。彼女はこの屋敷で、ソフィアにわずかな同情を示してくれる数少ない存在だった。


「いいえ、何も」


 ソフィアは答えた。自分でも驚くほど、落ち着いた声だった。



 それからの数週間、ソフィアは静かに、けれど確実に動いた。


 まず、屋敷の金庫の番号を盗み見た。ドグラスは妻のことを家具程度にしか思っていなかったから、彼女の前で平気で金庫を開け閉めしていた。番号を覚えるのは簡単だった。


 次に、宝石類を少しずつ、目立たないように選別した。ドグラスの母親の形見と称して飾られている、けれど実際には数年に一度しか使われない宝石類。ダイヤモンド、ルビー、サファイア、エメラルド。換金しやすく、かさばらないものを優先した。


 金貨も少しずつ移動させた。一度に大きく動かせばすぐに気付かれる。だから、毎日少しずつ。屋敷の使用人たちの目も盗みながら。


 ドグラスと王妃の不貞の証拠も、彼女は集めた。あの一通の手紙だけでなく、もう少し決定的なものを。ドグラスの机の引き出しから、王妃直筆の手紙を更に三通。逢瀬の場所と日時を記録した彼自身のメモ。そして、二人が交わしたとおぼしき、王家の紋章入りの装身具。


 これだけあれば、十分すぎる。


 そして、晩餐会の日が来た。


 王宮で大規模な晩餐会が開かれる夜。国中の貴族が招かれる、年に数度しかない大行事。


 ドグラスは出かける支度をしながら、ソフィアに一瞥もくれなかった。


「お前のような醜い女を連れて行けるか。屋敷で大人しくしていろ」


 そう吐き捨てて、彼は晴れやかな顔で出ていった。


 たぶん、彼は今夜、晩餐会の喧騒に紛れて王妃と密会する予定なのだろう。


 ──行かせるものか。


 玄関のドアが閉まる音を聞きながら、ソフィアは胸の中で呟いた。


 お前は今夜、別の場所に行くことになる。地下牢か、絞首台か、それとも処刑場か。


 ソフィアは粗末な外套を羽織った。マーサが用意してくれた、町娘が着るような地味なもの。痣を隠すためのフードを目深にかぶり、彼女は屋敷の使用人用の出入り口から、ひっそりと外へ出た。


 裏門には、目立たない辻馬車が一台停められていた。

 馬車の荷台には、彼女が数週間かけて運び出した宝石と金貨の入った木箱がいくつも積まれている。一生遊んで暮らせるほどの財産。


 全部、ドグラスの財産だ。彼が貴族として血と汗を流して稼いだものではなく、先祖代々の遺産と、領民から搾り取った税と、政略結婚でソフィアの父から巻き上げた持参金で築かれた、汚い財産。


 持っていく権利くらい、あるだろう。


 ソフィアは自ら御者台によじ登り、手綱を握った。

 手慣れたものではないが、馬を歩かせるくらいはできる。彼女が手綱を揺らすと、馬車は静かに走り出した。


 王宮の通用門に近付くと、ソフィアは馬車を降りた。手には、不貞の証拠が詰まった分厚い封筒。封筒の表には、何も書かれていない。中の書類だけが全てを語る。


 通用門から王宮の使用人区画へ滑り込むのは、思ったよりも簡単だった。晩餐会の夜、王宮は大量の臨時雇いの給仕や下働きで溢れている。ソフィアは厨房の脇から空のワゴンを一台拝借し、白いエプロンをくすねて身につけた。痣を隠すためにフードを目深にかぶったままでも、忙しさに紛れて誰も彼女の顔を確認しなかった。


 給仕に紛れて大広間に入る。


 きらびやかな光、楽団の音楽、貴族たちの談笑。シャンデリアの光がワインに反射してきらめく、別世界のような景色。


 そしてその中央、奥まった一段高い玉座に、初老の国王陛下が座していた。冷たい灰色の瞳、白髪混じりの髭、重い王冠。その隣には、若く美しい王妃がぴったりと寄り添い、扇で口元を隠しながら笑みを浮かべている。


 けれど、ソフィアにはわかった。あの王妃の視線が、時折、会場の隅に立っているドグラスに向けられていることが。


 そして、ドグラスもまた、あちこちの貴婦人と歓談しながら、ちらりちらりと玉座の方を見ていることが。


 ──楽しい時間は、もう終わるわ。


 ソフィアは唇の端を吊り上げた。


 玉座の脇には、各国の使節からの献上品を一時的に置く供物台があった。彼女はワゴンを押してそこに近付き、給仕の振りをして、封筒を供物台の上にそっと置いた。


 表には何も書かれていない。けれど、封筒の上に置いた一枚のメモには、ただ一言。


『国王陛下御自身がお開きください。御身の名誉に関わる重大な事項につき』


 仕事は、終わった。


 ソフィアはワゴンを押しながら、ゆっくりと大広間を後にした。


 そして、二階の回廊から大広間を見下ろせる、薄暗いテラスの陰へと身を潜めた。


 ここからなら、全部見える。


 全部、見届けられる。



 §



 国王の側近が供物台に置かれた封筒に気付いたのは、それから十数分後のことだった。


 ソフィアはテラスの欄干に身を寄せ、息を殺してその様子を見つめていた。


 側近は怪訝そうにメモを読み、それから慌てた様子で国王陛下に何かを耳打ちした。


 国王が、わずかに眉を寄せた。


 そして、玉座に座ったまま、封筒を受け取り、自らの手で開いた。


 一枚目を読む。


 二枚目を読む。


 三枚目を、読む。


 国王の顔色が、見る見るうちに変わっていった。最初は怪訝、次に驚愕、そして──。


 ソフィアの心臓が高鳴った。


 国王の冷たい灰色の瞳が、静かに会場を見渡した。誰も、まだ気付いていない。楽団は陽気な舞踏曲を奏で、貴族たちは笑い、ドグラスは別の伯爵令嬢と何やら親しげに話している。


 王妃は、夫の異変に気付かないまま、グラスのワインを口元に運んでいた。


 ──ガシャァァァン! 


 国王が、玉座の脇のテーブルに置かれていたワイングラスを、床に叩きつけた。


 大広間がしんと静まり返る。


 楽団の演奏が、断末魔のような不協和音を残して止まった。


 全ての視線が玉座に集中する。

 国王陛下は、ゆっくりと立ち上がった。手にはドグラスと王妃の不貞の証拠が握られている。


「……衛兵」


 地を這うような声だった。


 若き日に大陸を血で染めた征服王の凍てついた殺意が、確かに滲んでいた。会場の空気が、一瞬で凍りついた。


「そこにいるドグラス侯爵と、そして」


 国王の視線が、隣で青ざめている若き王妃へと向けられた。


「我が妃を、捕縛せよ」


「へ、陛下……?」


 王妃が震える声を上げた。扇が手から滑り落ち、床で乾いた音を立てた。


「な、何を仰るのですか、私は何も──」


「黙れ」


 国王の一言が、王妃の喉を縫い止めた。

 大広間の四隅から、完全武装の近衛兵たちが音もなく現れる。彼らは整然と列をなしてドグラスと王妃を包囲した。


 ドグラスは、固まっていた。さっきまで伯爵令嬢に向けていた爽やかな笑顔のまま、表情が完全に凍りついている。やがて、彼は喉の奥から絞り出すように声を発した。


「へ、陛下、何かの間違いです。私は、私は何も……っ」


「言い逃れは無用だ」


 国王は手にした手紙の一通を、ばさりとドグラスの足元に投げつけた。


「これは貴様の筆跡であろう。『王妃よ、あの老人など今に始末してしまえばよい。王座は私とあなたで分け合おう』──読み上げてやろうか、ドグラス侯爵。貴様らが寝所で交わした言葉の数々を、この場の貴族たち全員に、聞かせてやろうか」


「ち、違います、それは──」


「黙れと言った」


 国王は冷たく告げ、別の手紙を王妃の足元に投げた。


「『あの老いぼれの肌に触れられるのは苦痛でしかありません』──そうか、苦痛であったか」


 国王の声には、もはや人間味すら感じられなかった。


「我が妃よ。そなたが苦痛から解放される方法を、余が用意してやろう」


 王妃の顔から血の気が引いた。

 彼女は床に膝をつき、首を振りながら何かを叫ぼうとしたが、声にならなかった。


 そして、彼女の視線がふらりと泳ぎ、隣で同じく床に這いつくばっているドグラスを捉えた瞬間──。


「全部、その男のせいです!」


 王妃が叫んだ。


「その男が私を誘惑したのです! 私はずっと陛下を愛しておりました、その男が、そのドグラス侯爵が私を脅迫して、無理矢理に……っ!」


「な、何を言ってる!?」


 ドグラスが顔を上げた。その顔から、社交界で名を馳せた爽やかな仮面は完全に剥がれ落ちていた。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった、ただの追い詰められた小心者の顔がそこにあった。


「お前から誘ってきたんだろう! あの老いぼれを暗殺する手伝いをしてくれと、お前が、お前から!」


「嘘です陛下! その男が私を陥れようと──」


 さっきまで愛を囁き合っていたであろう二人が、鼻水と涙でぐちゃぐちゃになりながら、互いに罪を擦り付け合い、罵倒し合う。


 大広間の貴族たちは、誰一人として動けないでいた。あまりにも醜悪で、あまりにも惨めで、あまりにも──。


 ──滑稽すぎて。


「あ……」


 テラスの暗がりで、ソフィアの口から小さな声が漏れた。


「あは……」


 押し殺した笑いが漏れる。


「あははっ……あははははははっ!」


 こらえきれなくなった笑い声が、欄干の影でこぼれた。


 楽しい。


 こんなに楽しいことが、世界にあったのか。


 毎日自分を殴り、罵り、「お前のような虫けらとは違う」と豪語していた男。


 その男が、今、床に這いつくばって、鼻水を垂らして、王妃と互いに罪を擦り付け合いながら、命乞いをしている。


 国王の冷たい灰色の瞳が、そんな二人を見下ろしている。


 あの瞳をソフィアは知っている。歴戦の征服王の、何百何千という敵を皆殺しにしてきた瞳。あの瞳に憐れみは映らない。あの瞳に映る者の運命は、ただ一つしかない。


「あはははっ、あははははっ、あははははははははっ!」


 ソフィアは欄干にもたれ、腹を抱えて笑った。


 涙が出た。久しぶりに、痛みではなく、笑いすぎて出る涙だった。


「処刑だな」


 国王の声が、大広間に響いた。


「我が妃とドグラス侯爵。両名を即刻、地下牢へ。明朝、王宮広場にて公開処刑とする。罪状は、姦通および国王暗殺謀議」


「お、お待ちください陛下!」


「ち、違うのです、私は被害者で──」


「黙れと言ったぞ、二度も」


 国王は手にした最後の一枚──王妃の筆跡で「あの老人を毒殺する手筈を整えました」と書かれた手紙──を、二人の前にひらりと落とした。


「貴様らに与える慈悲はない。連れて行け」


 近衛兵たちがドグラスと王妃の腕を掴んだ。ドグラスは抵抗しようとして殴られ、王妃は気を失いかけながら引きずられた。


 大広間を引きずり出されながら、ドグラスは最後まで叫んでいた。


「違う、俺は、俺は何も悪くない、悪いのはあの女だ、あの女が、あの王妃が、ぜんぶあの女が──!」


 そんな男の声が遠ざかっていく。


 ソフィアはテラスで笑い続けた。涙を流しながら笑った。


「あはははは……ふっ、ふふ、あははは……」


 やがて笑いが収まると、彼女はゆっくりと欄干から身を起こした。


 顔を上げる。


 月が、出ていた。


 久しぶりに見る月だった。


 こんなに、綺麗だっただろうか。


 ソフィアは、もう振り返らなかった。


 修羅場の結末を、見届ける必要すらない。


 国王陛下の怒りを買った以上、彼らに待っているのは公開処刑だ。あるいは、それ以上の地獄かもしれない。征服王と謳われたあの方は、敵の処刑を「見せしめ」として徹底的に行うことで知られている。国王暗殺を企てた逆賊と、不貞の王妃。その処刑がどれほど凄惨なものになるか、想像するだけで──。


「ふふっ」


 また、笑いが漏れた。


 ソフィアは王宮の使用人通路を抜け、裏門へと向かった。途中、誰にもすれ違わなかった。皆、大広間の騒ぎに気を取られているのだろう。


 裏門の外には、彼女が停めておいた馬車が静かに主を待っていた。


 ソフィアは御者台へとよじ登る。手綱を握り、馬の背に軽く当てた。馬の蹄が石畳を打つ音と共に、馬車は夜の街へと動き出す。


「南へ」


 彼女は誰に言うでもなく呟いた。


 王都の城壁を出る頃には、空に星が瞬き始めていた。


 冬の終わりの、まだ少し冷たい風があたる。けれど、痛くはなかった。



「さようなら、旦那様」


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― 新着の感想 ―
世の中のDV人間全員、これくらいの罰がくだるといいのに。 地獄から這い上がるチャンスを逃さず、しっかり準備をしてゴミクズ野郎を地獄へ叩き落としてやったソフィアなら、きっと幸せを掴み取れますよね(祈)…
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