第43話 歪む選民思想
帝都の貴族街にあるスー公爵家の屋敷は、今日も静まり返っていた。
広大な庭園には手入れの行き届いた花が咲き、噴水の水が穏やかな音を立てている。白い石造りの大邸宅は帝都でも指折りの豪奢さを誇り、通りを歩く人々が思わず足を止めて見上げるほどだった。
だが、その屋敷の二階――
一つの部屋では、机の上に帳簿が乱雑に広げられていた。
「……どうして」
ぽつりと呟く声。
その部屋の主は、まだ幼い少女だった。
**メアリー・スー。**
スー公爵家の一人娘。
年齢はまだ**十歳**。
しかし、その顔には子供らしい無邪気さはほとんどない。
机の上には、これまで彼女が作った商会の帳簿が並んでいた。
一冊。
二冊。
三冊。
四冊。
そして――
すべて赤字。
すべて倒産。
メアリーはその帳簿を睨み続けていた。
「おかしいわ……」
前世の記憶。
この世界が乙女ゲームの世界であるという事実。
その未来の知識。
メアリーはそれを持っている。
だからこそ思っていた。
自分は特別な存在だと。
**選ばれた存在。**
世界の物語を知る者。
未来を理解している者。
つまり、この世界で一番有利な立場にいる者。
それが――
メアリー・スー。
そのはずだった。
しかし現実は違う。
彼女は何度も商会を作り。
そして何度も失敗した。
菓子店。
服屋。
宝石店。
香水店。
すべて潰れた。
しかもその間に、帝都では別の話題が広がっていた。
**北方商会。**
辺境の北方領で生まれた商会。
商品が優れている。
価格が安い。
取引が安定している。
そんな噂が帝都の商人たちの間で広まっていた。
メアリーはその名前を思い出す。
「レスティーナ……」
その少女もまだ**十歳**。
自分と同じ年齢。
だが北方領の領主として、町を作り、商会を成功させている。
メアリーは拳を握りしめた。
(そんなはずない)
ゲームのシナリオにはそんな人物はいなかった。
つまり彼女は――
**イレギュラー。**
物語を乱す存在。
「許せない……」
メアリーの心の奥で、苛立ちが大きくなっていく。
自分こそが特別な存在。
自分こそがこの世界を理解している。
そう信じているのに。
どうしてレスティーナが成功しているのか。
理解できない。
その時、部屋の扉がノックされた。
「お嬢様」
執事の声だった。
「何?」
「帝都の商人ギルドから情報が届いております」
「言って」
執事は少し躊躇してから答えた。
「北方商会の馬車隊が、さらに増えたそうです」
メアリーの眉が動く。
「何台?」
「十台以上だそうです」
「……」
それはもう小さな商会ではない。
**大商会**の規模だ。
メアリーの胸がざわつく。
「さらに」
執事は続ける。
「北方領の人口が八百人を超えたそうです」
その言葉を聞いた瞬間。
メアリーは立ち上がった。
「嘘よ!」
机を叩く。
椅子が倒れる。
「そんなのあり得ない!」
十歳の子供が領地経営?
都市建設?
商会経営?
普通ならできるはずがない。
なのに。
現実に成功している。
メアリーの胸の中で、苛立ちが膨らんでいく。
(違う)
(これは間違ってる)
物語の中心はヒロイン。
悪役令嬢は自分。
そう決まっている。
そして未来を知る自分こそが特別。
それなのに。
レスティーナという少女が現れた。
そして物語とは違う未来を作り始めている。
メアリーの瞳が暗く揺れた。
「……邪魔ね」
ぽつりと呟く。
もし。
もしレスティーナがいなければ。
自分が帝国で一番の商人になれたかもしれない。
帝都で名声を得られたかもしれない。
すべての注目を集められたかもしれない。
だが今。
噂の中心は北方領。
レスティーナ。
北方商会。
その名前ばかりが広がっている。
メアリーはゆっくりと帳簿を閉じた。
そして小さく呟いた。
「次よ」
スー公爵家には資金がある。
何度でも商会を作れる。
何度でも挑戦できる。
メアリーは自分に言い聞かせる。
自分は特別。
選ばれた存在。
未来を知る者。
だから――
必ず成功する。
そのはずだった。
だがメアリーはまだ気づいていない。
自分の考えが少しずつ歪んでいることに。
そして北方で起きている変化が、すでに帝国全体へ広がり始めていることに。
十歳の少女の焦燥は、静かに膨れ上がっていた。




