第21話 人口五百作戦
城壁が完成した朝。
魔の森の開拓都市は、これまでとは明らかに違う空気に包まれていた。
昨夜まで響いていた木槌の音も、鋸の音も、もう聞こえない。代わりに、静かな緊張と達成感が町全体を覆っていた。
町をぐるりと囲むように築かれた丸太の城壁。
太い丸太を何重にも組み上げた防壁は、高さ四メートル。外側には斜めに杭が打ち込まれ、簡単にはよじ登れない構造になっている。
荒削りな木の壁。
石の城壁のような威圧感はない。だが、それでも確かな安心感があった。
この壁の内側は安全だ。
少なくとも、昨日までよりははるかに。
城壁の上では見張りが立っている。槍を持ち、弓を背負い、森の奥を警戒していた。
彼らの視線の先にあるのは――魔の森ではない。
そのさらに向こう。
丘の向こう側に広がる平地。
そこには煙がいくつも上がっていた。
**スー公爵軍。**
およそ五百の兵が野営を続けている。
白い天幕が並び、馬が繋がれ、焚き火の煙がゆっくりと空へ昇っていた。
丘の上からその光景を見下ろしていたレスティーナは、小さく息を吐いた。
「これで一つ」
ぽつりと呟く。
隣に立つジェイが静かに頷いた。
「城壁条件達成です」
彼の声には、抑えきれない安堵が混じっていた。
都市認定の条件の一つ――
**防御施設の存在。**
それを、この三日で完成させたのだ。
その横で腕を組んでいた帝国監察官アルトが、ゆっくり口を開いた。
「正直に言いましょう」
レスティーナが振り向く。
「まだ驚く?」
アルトは苦笑した。
「驚きます」
そして城壁を見上げる。
「三日で城壁完成など……帝国史上、聞いたことがありません」
普通なら、数ヶ月。
石の城壁なら一年以上かかることも珍しくない。
それを三日。
しかも、この魔の森の開拓地で。
レスティーナは肩をすくめた。
「人が多かったから」
アルトが小さく笑う。
「その『人』も、元は逃亡農奴でしょう?」
「ええ」
「面白い領主ですね」
レスティーナは答えなかった。
ただ、城壁の向こうを見つめた。
そして言った。
「次は人口」
アルトが頷く。
「都市認定の第二条件」
「人口五百人」
ジェイが帳簿を開いた。
現在の人口――
**二百七十六人。**
城壁が完成しても、都市にはまだ遠い。
半分程度だ。
ジェイが言う。
「帝国法では一年以内に条件達成」
「ええ」
「つまり猶予はあります」
レスティーナは笑った。
「一年もいらない」
アルトが眉を上げた。
「どうやって?」
レスティーナは森の向こうを見た。
遠くの煙。
スー公爵軍の野営地。
そして言った。
「彼らが呼ぶ」
ジェイが首を傾げる。
「公爵軍が?」
「そう」
アルトが興味深そうに聞いた。
「理由は?」
レスティーナは少し笑った。
「逃亡農奴」
アルトは目を細める。
レスティーナは続けた。
「今、公爵軍はここを包囲している」
「はい」
「つまり」
指を一本立てた。
「噂が広がる」
ジェイがはっとした。
「逃げ場がある」
レスティーナは頷いた。
「そう」
魔の森。
逃亡農奴。
そして帝国都市候補。
この三つが揃えば、噂は一気に広がる。
逃げてもいい。
行く場所がある。
そう思った瞬間、人は動く。
アルトが小さく笑った。
「なるほど」
レスティーナは続ける。
「だから」
「門を開ける」
ジェイが目を丸くした。
「城門を?」
「そう」
アルトが静かに聞く。
「危険では?」
レスティーナは肩をすくめた。
「公爵軍がいる」
アルトが理解する。
「つまり」
「兵は近づけない」
レスティーナは言った。
「でも」
「農民は来る」
ジェイは思わず笑った。
「大胆ですね」
レスティーナは平然としている。
「合理的よ」
その時だった。
城壁の上から見張りの声が響いた。
「人影!」
ジェイが振り向く。
森の奥。
木々の間を小さな影がいくつも動いている。
アルトが目を細めた。
「……逃亡者」
やがて姿がはっきりしてくる。
男。
女。
子供。
ぼろ布の服。
荷物を抱えて必死に走っている。
その後ろから怒鳴り声が響いた。
「止まれ!」
スー公爵軍の兵だった。
レスティーナは静かに言った。
「門を開けて」
兵が叫ぶ。
「開門!」
巨大な丸太の門がゆっくり動いた。
軋む音。
重い扉が開いていく。
逃げてきた人々が町へ飛び込んだ。
十人。
二十人。
三十人。
息を切らしながら、転ぶように中へ入ってくる。
レスティーナは静かに数えた。
「三十五」
ジェイが帳簿に書く。
「人口三百十一」
逃げてきた農民たちはその場に倒れ込んだ。
地面に手をつき、肩で息をしている。
長い逃亡の果てだった。
その中の一人の男が顔を上げた。
痩せた顔。
怯えた目。
「助けてください……」
レスティーナは静かに言った。
「ここは都市」
男は呟く。
「都市……」
レスティーナは頷いた。
「働くなら歓迎」
男の目から涙が溢れた。
「ありがとうございます!」
門の外では公爵軍の兵が怒鳴っている。
だが城壁の中へは入れない。
帝国監察官アルトがいるからだ。
帝国の監察下にある都市候補地への武力侵入は違法。
公爵軍でも越えられない線だった。
アルトが静かに言った。
「増えますね」
レスティーナは笑った。
「まだまだ」
ジェイが言う。
「噂はすぐ広がります」
レスティーナは頷いた。
「一週間」
アルトが聞く。
「何が?」
レスティーナは答えた。
「五百人」
アルトは思わず笑った。
「本気ですね」
レスティーナは丘の上から町を見下ろした。
城壁。
井戸。
建物。
働く人々。
そして新しく来た農民たち。
レスティーナは小さく呟いた。
「都市ってね」
ジェイが聞く。
「何ですか?」
レスティーナは言った。
「人が集まる場所」
そして森を見た。
その奥。
また新しい人影が動いている。
逃げてくる人々。
レスティーナは微笑んだ。
「だから」
「止められない」
城門は開かれたままだ。
逃亡農奴。
流民。
行き場を失った人々。
すべてがこの都市へ流れてくる。
そしてその流れは――
**止まる気配がなかった。**




