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期待しない女は、最後に選ばれる  作者: 篠宮しずく


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第9話 名前で呼ばれることに慣れた

 慣れるというのは、怖い。


 最初は意識していたことも、

 気づけば当たり前になる。


 それが、良いことなのかどうかは、

 後にならないと分からない。



「由依さん」


 呼ばれて、自然に顔を上げた。


「はい」


 返事をしてから、

 自分が何の迷いもなく反応していることに気づく。


 ――慣れたんだ。



 高瀬さんが私の名前を呼ぶようになって、

 どれくらい経っただろう。


 最初は、心臓が一拍遅れた。

 次は、意識してしまった。


 今は――

 何も考えずに、応えている。



「この資料、確認お願いできますか」


「分かりました」


「急ぎじゃないので」


 会話は、いつも通り。


 でも、呼び方だけが違う。


 それだけのことなのに、

 距離は、確実に縮まっている。



 昼休み、食堂に向かう途中で高瀬さんと並んだ。


「今日は空いてますね」


「そうですね」


 他愛ない会話。


 それなのに、周囲の音が少し遠く感じる。



 席に着く。


 向かいに高瀬さん。


 いつの間にか、

 この配置が“普通”になっていた。



「由依さんって、静かですよね」


「そうですか?」


「ええ。でも、ちゃんと周りを見てる」


 評価されている、というより、

 理解されているような言い方だった。


 それが、胸に残る。



 午後、仕事が立て込んで、

 少しだけ焦っていた。


「由依さん、大丈夫ですか」


 声をかけられる。


「はい」


 答えながら、

 本当は「大丈夫じゃない」と思っている自分に気づく。


 でも、言わない。



 仕事を終え、エレベーターに乗る。


 また、二人きり。


 この状況にも、慣れてしまった。



「最近、忙しいですよね」


「はい。でも……」


 何か言おうとして、止める。


 言葉にしたら、

 甘えてしまいそうだった。



 駅までの道。


 並んで歩く距離も、

 もう測らなくなっている。



「由依さん」


「はい」


「……」


 高瀬さんが、何か言いかけて黙る。


 私は、待たなかった。


 待つという行為は、

 期待に近い。



 改札前で立ち止まる。


「お疲れさまでした」


「はい」


 それだけで、少し寂しいと思ってしまう。



 帰宅して、バッグを置く。


 部屋は静か。


 それなのに、

 今日は一日、誰かの声が頭から離れない。


 ――由依さん。


 名前で呼ばれることに、慣れた。


 それは、

 もう他人じゃない、ということなのだろうか。



 私は、ゆっくりと首を振る。


 違う。

 そうじゃない。


 これは、仕事。

 これは、日常。


 恋じゃない。


 ただ、名前で呼ばれることに、慣れただけ。


 そう言い聞かせながら、

 私は、明日の予定を確認する。


 そこに、高瀬さんの名前があることを、

 もう何とも思わなくなっている自分に、

 少しだけ、目を逸らした。

本話もお読みいただき、ありがとうございました!


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