第9話 名前で呼ばれることに慣れた
慣れるというのは、怖い。
最初は意識していたことも、
気づけば当たり前になる。
それが、良いことなのかどうかは、
後にならないと分からない。
◇
「由依さん」
呼ばれて、自然に顔を上げた。
「はい」
返事をしてから、
自分が何の迷いもなく反応していることに気づく。
――慣れたんだ。
◇
高瀬さんが私の名前を呼ぶようになって、
どれくらい経っただろう。
最初は、心臓が一拍遅れた。
次は、意識してしまった。
今は――
何も考えずに、応えている。
◇
「この資料、確認お願いできますか」
「分かりました」
「急ぎじゃないので」
会話は、いつも通り。
でも、呼び方だけが違う。
それだけのことなのに、
距離は、確実に縮まっている。
◇
昼休み、食堂に向かう途中で高瀬さんと並んだ。
「今日は空いてますね」
「そうですね」
他愛ない会話。
それなのに、周囲の音が少し遠く感じる。
◇
席に着く。
向かいに高瀬さん。
いつの間にか、
この配置が“普通”になっていた。
◇
「由依さんって、静かですよね」
「そうですか?」
「ええ。でも、ちゃんと周りを見てる」
評価されている、というより、
理解されているような言い方だった。
それが、胸に残る。
◇
午後、仕事が立て込んで、
少しだけ焦っていた。
「由依さん、大丈夫ですか」
声をかけられる。
「はい」
答えながら、
本当は「大丈夫じゃない」と思っている自分に気づく。
でも、言わない。
◇
仕事を終え、エレベーターに乗る。
また、二人きり。
この状況にも、慣れてしまった。
◇
「最近、忙しいですよね」
「はい。でも……」
何か言おうとして、止める。
言葉にしたら、
甘えてしまいそうだった。
◇
駅までの道。
並んで歩く距離も、
もう測らなくなっている。
◇
「由依さん」
「はい」
「……」
高瀬さんが、何か言いかけて黙る。
私は、待たなかった。
待つという行為は、
期待に近い。
◇
改札前で立ち止まる。
「お疲れさまでした」
「はい」
それだけで、少し寂しいと思ってしまう。
◇
帰宅して、バッグを置く。
部屋は静か。
それなのに、
今日は一日、誰かの声が頭から離れない。
――由依さん。
名前で呼ばれることに、慣れた。
それは、
もう他人じゃない、ということなのだろうか。
◇
私は、ゆっくりと首を振る。
違う。
そうじゃない。
これは、仕事。
これは、日常。
恋じゃない。
ただ、名前で呼ばれることに、慣れただけ。
そう言い聞かせながら、
私は、明日の予定を確認する。
そこに、高瀬さんの名前があることを、
もう何とも思わなくなっている自分に、
少しだけ、目を逸らした。
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