第8話 比べてしまっただけ
比べてしまっただけだ。
それ以上の意味は、ない。
……ない、はずだった。
◇
その日、総務に他部署の男性が用事で訪れた。
「白石さん、これお願いします」
年齢は同じくらい。
話し方も丁寧で、特に嫌なところはない。
以前から、何度か話したことがある人だ。
「ありがとうございます。助かります」
「いえ。白石さんって、いつも落ち着いてますよね」
そう言って、少し照れたように笑う。
――あ。
その瞬間、私は気づいてしまった。
この人、私に好意を持っている。
それ自体は、珍しいことじゃない。
大人になれば、好意はもっと静かに、分かりにくくなる。
◇
「今度、時間が合えば」
言いかけた言葉の続きを、私は聞かなかった。
「すみません。次の予定があって」
嘘ではない。
でも、少しだけ急ぎすぎた。
男性は「あ、そうですよね」と引き下がり、
それ以上踏み込んでこなかった。
それが、普通だ。
◇
席に戻ってからも、胸の奥がざわついていた。
嫌だったわけじゃない。
怖かったわけでもない。
ただ。
――違う。
その感覚が、はっきりしすぎていた。
◇
なぜ、違うと思ったのか。
答えはすぐに浮かんで、
私はそれを必死に否定した。
比べただけ。
高瀬さんと。
それだけだ。
◇
昼休み、社員食堂で席を探していると、
高瀬さんがこちらに気づいて軽く手を挙げた。
「白石さん」
その声を聞いた瞬間、
さっきまでのざわつきが、すっと落ち着く。
――だから、だめだ。
私は心の中で、何度目かの警告を鳴らす。
◇
向かいに座る。
会話は、いつも通り。
「今日は忙しそうでしたね」
「少しだけ」
「無理してませんか」
それは、特別な言葉じゃない。
誰にでも言える。
でも、さっきの男性と、自然に比べてしまう。
言葉の重さ。
視線の置き方。
間の取り方。
――違う。
◇
「……どうかしました?」
高瀬さんが、私の表情に気づいた。
「いえ」
私はすぐに笑う。
気づかれてはいけない。
自分の中の変化に。
◇
午後、仕事に集中しようとしても、
頭の片隅で、さっきの出来事が何度も再生される。
もし、あの人の誘いを受けていたら。
もし、高瀬さんと出会っていなかったら。
考えた瞬間、胸の奥が冷える。
――考えるな。
◇
帰り際、エレベーターで高瀬さんと二人きりになった。
沈黙。
「……今日は、お疲れさまでした」
「高瀬さんも」
「最近、忙しいですよね」
「はい。でも……」
言いかけて、止める。
この先を言葉にしたら、
きっと、何かが変わってしまう。
◇
駅までの道。
並んで歩きながら、私は思う。
比べてしまっただけ。
それだけなのに。
どうして、こんなにも心がざわつくのだろう。
◇
改札前で別れる。
「お疲れさまでした」
「はい」
高瀬さんが、少しだけ迷ってから言った。
「……白石さん」
「はい」
「何かあったら、無理しないでください」
また、その言葉。
安心。
落ち着く。
そして――逃げ場。
◇
帰宅後、ソファに腰を下ろし、
私は今日一日を思い返す。
好意を向けられたこと。
断ったこと。
そして、比べてしまったこと。
私は、ゆっくりと結論を出す。
恋じゃない。
ただ、慣れているだけ。
高瀬さんと一緒にいる時間に。
――そうでなければ、困る。
そう思わなければ、
私は、また同じ場所で立ち止まってしまうから。
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