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期待しない女は、最後に選ばれる  作者: 篠宮しずく


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第5話 安心できる人

 安心できる人、というのは危険だ。


 刺激がない。

 不安もない。

 だからこそ、気づかないうちに心が近づく。


 私はもう、その落とし穴を知っている。



 その日は、月末処理で残業になった。


 総務フロアには、私ともう数人しか残っていない。

 静かなオフィスは、夜になると音が大きくなる。


 コピー機の音。

 キーボードを叩く音。


「まだ残ってたんですね」


 声をかけられて顔を上げると、高瀬さんが立っていた。


「企画部も、まだ何人かいます」


「そうなんですね」


 それだけの会話。

 でも、誰かが同じ時間に残っているという事実が、

 少しだけ心を緩める。



 しばらくして、ふと気づく。


 ――肩が、重い。


 長時間の作業で、首から背中にかけて鈍い痛みが走っていた。


「白石さん」


 いつの間にか、隣に高瀬さんが立っていた。


「……顔、固まってますよ」


「そうですか?」


「少し、休んだほうがいいです」


 注意するような口調じゃない。

 心配するような声。


 私は苦笑した。


「大丈夫です。もう少しで終わりますから」


 そう言いながら、無意識に肩を回す。



「……無理、しないでください」


 その言葉を聞いた瞬間、

 胸の奥が、静かに締めつけられた。


 前にも、言われた。


 特別な意味はない。

 誰にでも言っている。


 そう分かっているのに。



 結局、仕事を終えたのは、同じくらいの時間だった。


「駅まで、一緒に行きます?」


 高瀬さんが、自然な口調で言う。


「はい」


 断る理由は、やはりなかった。



 夜の空気は、少し冷たい。

 並んで歩く距離は、いつもと同じ。


「お疲れさまでした」


「高瀬さんも」


「……由依さん」


 名前を呼ばれることに、もう過剰に驚かなくなっている自分に気づく。


「本当に、頑張りすぎですよ」


「癖みたいなものなので」


「……そういう人ほど、無理します」


 その言葉は、責めるようでも、諭すようでもなかった。


 ただ、見ている人の言葉だった。



 駅が近づく。


 改札の明かりが、視界に入る。


「由依さんは……」


 高瀬さんが、また言葉を探す。


「……いえ」


 少し笑って、首を振る。


 私は、それ以上待たなかった。


 待てば、何かを期待してしまう。



 改札前で立ち止まる。


「今日は、ありがとうございました」


「こちらこそ」


 高瀬さんは、一瞬迷ってから言った。


「……由依さんといると、落ち着きます」


 安心。

 落ち着く。


 それは、恋に発展しない関係を表す言葉。


 私は、そう信じている。



 電車に乗り、座席に腰を下ろす。


 窓に映る自分の顔は、少し疲れているけれど、

 不思議と穏やかだった。


 ――安心できる人。


 それは、

 頼ってはいけない人。

 期待してはいけない人。


 私は、過去からそう学んだ。



 帰宅して、靴を脱ぐ。


 一人の部屋。

 静かな夜。


 それでも今日は、

 誰かと同じ時間を過ごした余韻が、

 まだ空気に残っている。


 私は、それを振り払うように、心の中で結論づけた。


 高瀬さんは、いい人だ。

 優しくて、気遣いができて、安心できる。


 でも――


 この人は、恋にならない人。


 そう思わなければ、

 また同じ場所で立ち尽くすことになる。


 だから私は、期待しない。


 そう決めた、その瞬間。


 スマートフォンが震えた。


 ――高瀬さんからの、業務連絡。


 内容は、どうでもいいことだった。


 それでも。


 画面を見つめる時間が、

 少しだけ長くなった自分に、私は気づいてしまった。


 それが、第1章の終わりだった。

本話もお読みいただき、ありがとうございました!


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