第5話 安心できる人
安心できる人、というのは危険だ。
刺激がない。
不安もない。
だからこそ、気づかないうちに心が近づく。
私はもう、その落とし穴を知っている。
◇
その日は、月末処理で残業になった。
総務フロアには、私ともう数人しか残っていない。
静かなオフィスは、夜になると音が大きくなる。
コピー機の音。
キーボードを叩く音。
「まだ残ってたんですね」
声をかけられて顔を上げると、高瀬さんが立っていた。
「企画部も、まだ何人かいます」
「そうなんですね」
それだけの会話。
でも、誰かが同じ時間に残っているという事実が、
少しだけ心を緩める。
◇
しばらくして、ふと気づく。
――肩が、重い。
長時間の作業で、首から背中にかけて鈍い痛みが走っていた。
「白石さん」
いつの間にか、隣に高瀬さんが立っていた。
「……顔、固まってますよ」
「そうですか?」
「少し、休んだほうがいいです」
注意するような口調じゃない。
心配するような声。
私は苦笑した。
「大丈夫です。もう少しで終わりますから」
そう言いながら、無意識に肩を回す。
◇
「……無理、しないでください」
その言葉を聞いた瞬間、
胸の奥が、静かに締めつけられた。
前にも、言われた。
特別な意味はない。
誰にでも言っている。
そう分かっているのに。
◇
結局、仕事を終えたのは、同じくらいの時間だった。
「駅まで、一緒に行きます?」
高瀬さんが、自然な口調で言う。
「はい」
断る理由は、やはりなかった。
◇
夜の空気は、少し冷たい。
並んで歩く距離は、いつもと同じ。
「お疲れさまでした」
「高瀬さんも」
「……由依さん」
名前を呼ばれることに、もう過剰に驚かなくなっている自分に気づく。
「本当に、頑張りすぎですよ」
「癖みたいなものなので」
「……そういう人ほど、無理します」
その言葉は、責めるようでも、諭すようでもなかった。
ただ、見ている人の言葉だった。
◇
駅が近づく。
改札の明かりが、視界に入る。
「由依さんは……」
高瀬さんが、また言葉を探す。
「……いえ」
少し笑って、首を振る。
私は、それ以上待たなかった。
待てば、何かを期待してしまう。
◇
改札前で立ち止まる。
「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ」
高瀬さんは、一瞬迷ってから言った。
「……由依さんといると、落ち着きます」
安心。
落ち着く。
それは、恋に発展しない関係を表す言葉。
私は、そう信じている。
◇
電車に乗り、座席に腰を下ろす。
窓に映る自分の顔は、少し疲れているけれど、
不思議と穏やかだった。
――安心できる人。
それは、
頼ってはいけない人。
期待してはいけない人。
私は、過去からそう学んだ。
◇
帰宅して、靴を脱ぐ。
一人の部屋。
静かな夜。
それでも今日は、
誰かと同じ時間を過ごした余韻が、
まだ空気に残っている。
私は、それを振り払うように、心の中で結論づけた。
高瀬さんは、いい人だ。
優しくて、気遣いができて、安心できる。
でも――
この人は、恋にならない人。
そう思わなければ、
また同じ場所で立ち尽くすことになる。
だから私は、期待しない。
そう決めた、その瞬間。
スマートフォンが震えた。
――高瀬さんからの、業務連絡。
内容は、どうでもいいことだった。
それでも。
画面を見つめる時間が、
少しだけ長くなった自分に、私は気づいてしまった。
それが、第1章の終わりだった。
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