第4話 過去を聞かない女
知らないほうが、楽なこともある。
知ってしまえば、気にしてしまう。
気にしてしまえば、期待が生まれる。
期待が生まれれば――終わりだ。
だから私は、聞かない。
◇
午前中、総務フロアがいつもより少しざわついていた。
「ねえ、白石さん。聞いた?」
佐藤真琴が、声を潜めて椅子を寄せてくる。
「何?」
「高瀬さん、前に婚約してたんだって」
その言葉に、心臓が一度だけ、強く鳴った。
「……そう」
私は、それだけ答えて画面に視線を戻す。
「しかもさ」
真琴は、言うか迷うように一瞬ためらってから続けた。
「向こう、結構傷ついたって話もあるみたい」
それ以上は聞かなかった。
聞かなかったし、聞きたくもなかった。
理由を知ったところで、
私の立場が変わるわけじゃない。
◇
婚約していた。
別れた。
誰かが傷ついた。
それだけで、十分だ。
過去の恋愛なんて、
掘り下げれば掘り下げるほど、
現在を歪ませる。
――どうせ、私は当事者にならない。
そう思えば、胸のざわつきも、
きちんと収まる。
◇
午後、企画部から内線が入った。
「白石さん、少し時間ありますか」
高瀬さんの声。
指定された会議室に入ると、
彼は資料を揃えながら、少し落ち着かない様子をしていた。
「急にすみません」
「大丈夫です」
仕事の説明は、いつも通り丁寧で分かりやすい。
無駄がなくて、感情も挟まらない。
この人は、本当に仕事ができる。
◇
説明が一段落したとき、高瀬さんがふっと視線を落とした。
「……さっき、変な話、聞いてませんか」
その声は、ほんの少しだけ硬かった。
私は一瞬だけ考えてから、答える。
「いいえ」
嘘ではない。
私は、深くは聞いていない。
「そうですか」
高瀬さんは、ほっと息をついたように微笑んだ。
その表情が、胸に引っかかる。
――聞かれたくなかったのだろうか。
――それとも、知られたくない理由があるのだろうか。
でも、私はそこから先を考えない。
◇
「由依さんは……」
高瀬さんが、何かを言いかけて口を閉じる。
言葉を探すというより、
言ってはいけない言葉を避けたような間。
「……いえ、すみません」
「大丈夫です」
私は、笑ってそう返した。
踏み込まない。
問い詰めない。
それが、私の選んだ距離だ。
◇
会議室を出るとき、高瀬さんが言った。
「もし、何か聞いても……気にしないでください」
「気にしません」
即答だった。
気にしないのではなく、
最初から入れない。
◇
仕事終わり、デスクを片付けていると、真琴がまた小声で言う。
「白石さん、本当に気にならないの?」
「ならない」
「……大人だね」
私は、曖昧に笑った。
それは大人だからじゃない。
もう、傷つき方を知っているだけだ。
◇
エレベーターの中で、高瀬さんと二人きりになる。
狭い空間。
沈黙。
「……」
何か言いたげな空気を感じても、
私は待たない。
待つという行為は、
期待に近い。
◇
一階に着き、扉が開く。
「お疲れさまでした」
「お疲れさまです」
それだけのやり取りで、
今日も何事もなく終わる。
◇
帰宅して、部屋の電気をつける。
一人分の夕食。
変わらない日常。
包丁を握りながら、ふと思う。
もし、あの時。
ほんの少しだけ踏み込んでいたら。
もし、あの人の過去を、
少しでも知ろうとしていたら。
――いいえ。
そんなことを考えるのは、無意味だ。
私は、選ばれない側の人間だ。
だから、聞かない。
だから、踏み込まない。
それが、私の身の守り方。
この時はまだ、
聞かなかったことが、後で一番の後悔になるなんて、
思いもしなかった。
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