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期待しない女は、最後に選ばれる  作者: 篠宮しずく


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第3話 名前で呼ばれる距離

 名前で呼ばれるというのは、不思議なものだ。


 苗字のままなら、他人でいられる。

 名前になった瞬間、少しだけ、内側に踏み込まれる。


 それが、たとえ呼び捨てではなくても。



 その日は朝から、雨が降っていた。

 窓に当たる雨音が、いつもよりオフィスを静かにしている。


「白石さん」


 資料を抱えて歩いていると、後ろから声をかけられた。


「……由依さん」


 一瞬、足が止まる。


 聞き間違いかと思った。

 でも、振り返った先で、高瀬さんは少し気まずそうに笑っていた。


「あ……すみません。急に」


 謝る理由が、よく分からなかった。


「いえ……」


 私は、なんとかそう返した。


 心臓が、静かに騒いでいる。


 名前で呼ばれるだけで、こんなにも動揺するなんて。

 自分でも、少し情けなかった。



「この前のお昼、ありがとうございました」


「こちらこそ」


「……由依さん」


 また、名前。


 高瀬さんは、私の反応を確かめるように、一拍置いてから言葉を続ける。


「雨、ひどくなりそうですね」


 それだけの会話。

 それだけの内容。


 でも、私はもう、平静を保つのに必死だった。


 ――期待しない。


 頭の中で、何度も繰り返す。


 名前で呼ばれたからといって、何かが始まるわけじゃない。

 これはただの距離感の調整。

 深い意味は、ない。


 そう思い込まなければ、足元が崩れてしまいそうだった。



 昼休み、佐藤真琴がニヤニヤしながら話しかけてきた。


「ねえ、白石さん。最近、高瀬さんと仲良くない?」


「……普通よ」


「えー? 名前で呼ばれてたけど?」


 耳まで熱くなるのが分かった。


「聞こえてた?」


「そりゃ聞こえるでしょ。由依さん、って」


 真琴は楽しそうに笑う。


「進展?」


「ない」


 即答だった。


 進展なんて、あるはずがない。

 私は、進まない場所に立つと決めている。



 午後、企画部から急ぎの修正依頼が入った。


 いつもならメールで済む内容なのに、高瀬さんはわざわざ総務まで来た。


「直接説明したほうが早いと思って」


 そう言って、私の隣に立つ。


 距離が、近い。


 肩が触れそうで、触れない。


 私は、画面に視線を落としたまま、説明を聞いた。


「……大丈夫ですか?」


 不意に、声をかけられる。


「はい」


「無理してません?」


 その言葉に、胸の奥が、きゅっと締まる。


 無理をしているかどうかなんて、自分でも分からない。

 ただ、期待しないようにしているだけだ。



 仕事が終わり、帰り支度をしていると、また声がした。


「由依さん」


 今度は、自然だった。


 名前で呼ばれることに、少しだけ慣れてしまっている自分が怖い。


「雨、止みそうにないですね」


「そうですね」


「……駅まで、よかったら」


 一瞬の沈黙。


 私は、心の中で天秤を動かす。


 断る理由は、ない。

 でも、進む理由も、ない。


「お願いします」


 そう答えたのは、私だった。



 傘を並べて歩く、駅までの短い道。


 会話は少ない。

 それでも、沈黙が苦ではなかった。


「由依さんは……」


 高瀬さんが、何か言いかけて、言葉を止める。


「……いえ、すみません」


「なんですか?」


 少しだけ、勇気を出して聞き返す。


「……また、今度」


 その曖昧さが、胸に残る。


 踏み込まない。

 でも、引かない。


 それが、この人の距離感なのだろう。



 駅の改札前で、立ち止まる。


「今日は、ありがとうございました」


「こちらこそ」


 高瀬さんは、少しだけ迷ってから言った。


「由依さんと話していると……」


 一拍。


「安心します」


 また、その言葉。


 私は、笑ってしまいそうになるのを堪えた。


 安心なんて言葉、簡単に口にしてはいけない。

 それは、期待の入口だ。



 電車に揺られながら、私は天井を見つめる。


 名前で呼ばれる距離。

 一緒に歩く帰り道。

 「安心する」という言葉。


 それでも、私はまだ信じない。


 期待しない。

 恋にならない。


 そう決めているはずなのに。


 ――どうして、こんなにも心が騒ぐのだろう。


 その答えを知るのは、

 もう少し先のことになる。

ここまでご覧いただきありがとうございます。


次の投稿からは、1日1回の更新になります。


ブックマークをして、楽しみにお待ちいただけると嬉しいです。

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