第3話 名前で呼ばれる距離
名前で呼ばれるというのは、不思議なものだ。
苗字のままなら、他人でいられる。
名前になった瞬間、少しだけ、内側に踏み込まれる。
それが、たとえ呼び捨てではなくても。
◇
その日は朝から、雨が降っていた。
窓に当たる雨音が、いつもよりオフィスを静かにしている。
「白石さん」
資料を抱えて歩いていると、後ろから声をかけられた。
「……由依さん」
一瞬、足が止まる。
聞き間違いかと思った。
でも、振り返った先で、高瀬さんは少し気まずそうに笑っていた。
「あ……すみません。急に」
謝る理由が、よく分からなかった。
「いえ……」
私は、なんとかそう返した。
心臓が、静かに騒いでいる。
名前で呼ばれるだけで、こんなにも動揺するなんて。
自分でも、少し情けなかった。
◇
「この前のお昼、ありがとうございました」
「こちらこそ」
「……由依さん」
また、名前。
高瀬さんは、私の反応を確かめるように、一拍置いてから言葉を続ける。
「雨、ひどくなりそうですね」
それだけの会話。
それだけの内容。
でも、私はもう、平静を保つのに必死だった。
――期待しない。
頭の中で、何度も繰り返す。
名前で呼ばれたからといって、何かが始まるわけじゃない。
これはただの距離感の調整。
深い意味は、ない。
そう思い込まなければ、足元が崩れてしまいそうだった。
◇
昼休み、佐藤真琴がニヤニヤしながら話しかけてきた。
「ねえ、白石さん。最近、高瀬さんと仲良くない?」
「……普通よ」
「えー? 名前で呼ばれてたけど?」
耳まで熱くなるのが分かった。
「聞こえてた?」
「そりゃ聞こえるでしょ。由依さん、って」
真琴は楽しそうに笑う。
「進展?」
「ない」
即答だった。
進展なんて、あるはずがない。
私は、進まない場所に立つと決めている。
◇
午後、企画部から急ぎの修正依頼が入った。
いつもならメールで済む内容なのに、高瀬さんはわざわざ総務まで来た。
「直接説明したほうが早いと思って」
そう言って、私の隣に立つ。
距離が、近い。
肩が触れそうで、触れない。
私は、画面に視線を落としたまま、説明を聞いた。
「……大丈夫ですか?」
不意に、声をかけられる。
「はい」
「無理してません?」
その言葉に、胸の奥が、きゅっと締まる。
無理をしているかどうかなんて、自分でも分からない。
ただ、期待しないようにしているだけだ。
◇
仕事が終わり、帰り支度をしていると、また声がした。
「由依さん」
今度は、自然だった。
名前で呼ばれることに、少しだけ慣れてしまっている自分が怖い。
「雨、止みそうにないですね」
「そうですね」
「……駅まで、よかったら」
一瞬の沈黙。
私は、心の中で天秤を動かす。
断る理由は、ない。
でも、進む理由も、ない。
「お願いします」
そう答えたのは、私だった。
◇
傘を並べて歩く、駅までの短い道。
会話は少ない。
それでも、沈黙が苦ではなかった。
「由依さんは……」
高瀬さんが、何か言いかけて、言葉を止める。
「……いえ、すみません」
「なんですか?」
少しだけ、勇気を出して聞き返す。
「……また、今度」
その曖昧さが、胸に残る。
踏み込まない。
でも、引かない。
それが、この人の距離感なのだろう。
◇
駅の改札前で、立ち止まる。
「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ」
高瀬さんは、少しだけ迷ってから言った。
「由依さんと話していると……」
一拍。
「安心します」
また、その言葉。
私は、笑ってしまいそうになるのを堪えた。
安心なんて言葉、簡単に口にしてはいけない。
それは、期待の入口だ。
◇
電車に揺られながら、私は天井を見つめる。
名前で呼ばれる距離。
一緒に歩く帰り道。
「安心する」という言葉。
それでも、私はまだ信じない。
期待しない。
恋にならない。
そう決めているはずなのに。
――どうして、こんなにも心が騒ぐのだろう。
その答えを知るのは、
もう少し先のことになる。
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