第1話 期待しないという選択
この物語は、
「期待しないことで自分を守ってきた大人の女性」と
「選ぶことから逃げてきた大人の男性」の、
すれ違い続ける恋の話です。
大きな事件は起きません。
告白も、すぐにはありません。
でも、
何も起きていないように見える日常の中で、
少しずつ心が動いていく過程を描いています。
ハッピーエンドは保証します。
安心して、ゆっくり読んでいただけたら嬉しいです。
期待しなければ、傷つくことはない。
それが私の出した結論だった。
朝六時半。
キッチンで一人分のコーヒーを淹れる。豆を挽く音だけが、静かな部屋に響く。二人分のマグカップを持つ必要はもうない。間違えることも、余らせることもない。
一人でいることに、私はすっかり慣れてしまった。
白石由依、三十四歳。独身。
仕事は安定しているし、生活に困っているわけでもない。休日に一人で映画を観に行くことも、美味しいものを食べることも、特に苦ではなかった。
ただ一つ、恋愛だけが――
いつの間にか、私の人生から外されていた。
思い出そうとしなくても、ふとした瞬間に蘇る言葉がある。
「今じゃないと思うんだ」
それは、五年以上付き合った元恋人が、最後に残した言葉だった。
嫌いになったわけじゃない。浮気をしたわけでもない。ただ、「結婚を決断できなかった」。それだけの理由で、私は選ばれなかった。
あの時、泣いた記憶はあまりない。
代わりに、胸の奥に何かが沈んで、そのまま固まってしまった感覚だけが残っている。
――ああ、私はきっと、こういう立場の人間なんだ。
それ以来、私は「期待しない」ことを選んだ。
期待しなければ、裏切られることもない。
希望を持たなければ、失望もしない。
恋をしない人生は、思っていたより静かで、安全だった。
◇
転職して一週間目。
新しい職場にも、少しずつ慣れてきた頃だった。
「白石さん、これお願いできる?」
上司に声をかけられ、資料を受け取る。特別な仕事ではない。淡々と、問題なく終わる業務。私はこういう場所にいるのが、案外得意だ。
「ありがとう。あ、白石さん」
声をかけられて顔を上げると、そこに立っていたのは見知らぬ男性だった。
「高瀬です。企画部の」
穏やかな声。柔らかい笑み。
年齢は……三十代後半くらいだろうか。派手さはないけれど、清潔感があって、落ち着いた雰囲気の人だった。
「これ、先方から返ってきた資料です」
「あ、ありがとうございます」
それだけのやり取り。
なのに、不思議と嫌な感じがしなかった。
彼はそれ以上踏み込むことなく、軽く会釈をして去っていった。連絡先を聞くわけでも、雑談を続けるわけでもない。必要なことだけを伝えて、きちんと距離を保つ。
――ああ、この人は、安全だ。
私は無意識に、そう判断していた。
◇
昼休み、給湯室でコーヒーを淹れていると、また高瀬さんに会った。
「白石さん、でしたよね」
「はい」
「この会社、コーヒーだけはやたら美味しいですよね」
それだけの会話。
天気や、仕事の進め方や、些細な話題。
彼は私のことを深く知ろうとしない。
プライベートにも踏み込まない。
それが、ありがたかった。
恋愛は、距離を詰めた瞬間に始まる。
そして、期待が生まれた時点で、負けが決まる。
私はもう、あの負け方をしたくなかった。
◇
夕方、コピー機の前ですれ違ったとき、高瀬さんがふと口を開いた。
「白石さん」
名前を呼ばれただけで、心臓が一拍遅れる。
「この資料、助かりました」
「いえ……」
それだけ。
本当に、それだけなのに。
胸の奥が、ほんの少しだけ揺れた。
私はすぐに、自分の心をなだめる。
――期待しない。
――これはただの同僚。
恋じゃない。
恋になるはずもない。
◇
その日の帰り道、駅までの道を一人で歩きながら、私は結論づけた。
高瀬さんは、きっといい人だ。
でも、この人は「恋にならない人」。
そう思えば、安心できた。
期待しなければ、何も失わない。
恋を始めなければ、終わりも来ない。
それが、今の私にとっての最適解だった。
――この時の私は、まだ知らなかった。
この「安心できる距離」が、
いずれ、私を一番苦しめることになるなんて。
本話もお読みいただき、ありがとうございました!
少しでも続きが気になる、と感じていただけましたら、
ブックマーク や 評価 をお願いします。
応援が励みになります!
これからもどうぞよろしくお願いします!




