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期待しない女は、最後に選ばれる  作者: 篠宮しずく


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第1話 期待しないという選択

この物語は、

「期待しないことで自分を守ってきた大人の女性」と

「選ぶことから逃げてきた大人の男性」の、

すれ違い続ける恋の話です。


大きな事件は起きません。

告白も、すぐにはありません。


でも、

何も起きていないように見える日常の中で、

少しずつ心が動いていく過程を描いています。


ハッピーエンドは保証します。

安心して、ゆっくり読んでいただけたら嬉しいです。

 期待しなければ、傷つくことはない。

 それが私の出した結論だった。


 朝六時半。

 キッチンで一人分のコーヒーを淹れる。豆を挽く音だけが、静かな部屋に響く。二人分のマグカップを持つ必要はもうない。間違えることも、余らせることもない。

 一人でいることに、私はすっかり慣れてしまった。


 白石由依、三十四歳。独身。

 仕事は安定しているし、生活に困っているわけでもない。休日に一人で映画を観に行くことも、美味しいものを食べることも、特に苦ではなかった。


 ただ一つ、恋愛だけが――

 いつの間にか、私の人生から外されていた。


 思い出そうとしなくても、ふとした瞬間に蘇る言葉がある。


「今じゃないと思うんだ」


 それは、五年以上付き合った元恋人が、最後に残した言葉だった。

 嫌いになったわけじゃない。浮気をしたわけでもない。ただ、「結婚を決断できなかった」。それだけの理由で、私は選ばれなかった。


 あの時、泣いた記憶はあまりない。

 代わりに、胸の奥に何かが沈んで、そのまま固まってしまった感覚だけが残っている。


 ――ああ、私はきっと、こういう立場の人間なんだ。


 それ以来、私は「期待しない」ことを選んだ。

 期待しなければ、裏切られることもない。

 希望を持たなければ、失望もしない。


 恋をしない人生は、思っていたより静かで、安全だった。



 転職して一週間目。

 新しい職場にも、少しずつ慣れてきた頃だった。


「白石さん、これお願いできる?」


 上司に声をかけられ、資料を受け取る。特別な仕事ではない。淡々と、問題なく終わる業務。私はこういう場所にいるのが、案外得意だ。


「ありがとう。あ、白石さん」


 声をかけられて顔を上げると、そこに立っていたのは見知らぬ男性だった。


「高瀬です。企画部の」


 穏やかな声。柔らかい笑み。

 年齢は……三十代後半くらいだろうか。派手さはないけれど、清潔感があって、落ち着いた雰囲気の人だった。


「これ、先方から返ってきた資料です」


「あ、ありがとうございます」


 それだけのやり取り。

 なのに、不思議と嫌な感じがしなかった。


 彼はそれ以上踏み込むことなく、軽く会釈をして去っていった。連絡先を聞くわけでも、雑談を続けるわけでもない。必要なことだけを伝えて、きちんと距離を保つ。


 ――ああ、この人は、安全だ。


 私は無意識に、そう判断していた。



 昼休み、給湯室でコーヒーを淹れていると、また高瀬さんに会った。


「白石さん、でしたよね」


「はい」


「この会社、コーヒーだけはやたら美味しいですよね」


 それだけの会話。

 天気や、仕事の進め方や、些細な話題。


 彼は私のことを深く知ろうとしない。

 プライベートにも踏み込まない。


 それが、ありがたかった。


 恋愛は、距離を詰めた瞬間に始まる。

 そして、期待が生まれた時点で、負けが決まる。


 私はもう、あの負け方をしたくなかった。



 夕方、コピー機の前ですれ違ったとき、高瀬さんがふと口を開いた。


「白石さん」


 名前を呼ばれただけで、心臓が一拍遅れる。


「この資料、助かりました」


「いえ……」


 それだけ。

 本当に、それだけなのに。


 胸の奥が、ほんの少しだけ揺れた。


 私はすぐに、自分の心をなだめる。


 ――期待しない。

 ――これはただの同僚。


 恋じゃない。

 恋になるはずもない。



 その日の帰り道、駅までの道を一人で歩きながら、私は結論づけた。


 高瀬さんは、きっといい人だ。

 でも、この人は「恋にならない人」。


 そう思えば、安心できた。


 期待しなければ、何も失わない。

 恋を始めなければ、終わりも来ない。


 それが、今の私にとっての最適解だった。


 ――この時の私は、まだ知らなかった。


 この「安心できる距離」が、

 いずれ、私を一番苦しめることになるなんて。

本話もお読みいただき、ありがとうございました!


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