表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/1

優しい人

「本当に優しい方ですね」


女はそう言って、こちらを見た。

その眼差しには、世間一般に流通している善意と同程度の、曖昧で安価な感情が浮かんでいた。

私が優しい――その判断に至るまでに、この女は、どれほどの観察を行ったのだろうか。

あるいは、観察などという不躾な行為を、最初から放棄しているのかもしれない。

人を理解するには、人を疑うだけの知性が要る。

その点で言えば、この女は、いささか知性に欠けていた。


「そう見えますか」


私は感情の混入を極力排した声で応じた。

肯定でも否定でもない言葉は、相手の思考を最もよく露呈させる。

世には、優しい人間と冷たい人間がいる、という通俗な区分がある。

しかしそれは、人間という存在を、あまりに簡単に把握しようとする怠慢の産物だ。

実際のところ、人間の大半は冷たく、残りは、冷たさを理屈で装飾する技術に長けているだけである。

善意とは、自己保身の一形態に過ぎない。

人は他者を思いやるのではなく、他者に冷酷である自分を認識したくないだけだ。

それを知った者だけが、ようやく人間を見る目を持つ。

それにもかかわらず、この女は、私を「優しい」と呼んだ。

その言葉は、彼女自身の無知を、簡潔に告白しているに等しい。

私はその事実を指摘するほど、親切ではなかった。

そしてまた、それを黙認するほど、無関心でもなかった。

ただ、女の顔を一瞥し、沈黙した。

沈黙は、時に言葉よりも正確に、人間の本性を語る。


沈黙のうちに、女は私の返答を待っていた。

だが、待つという行為そのものが、すでに一つの期待である。

期待は人を盲目にする。

殊に、人に対する期待ほど、危険なものはない。

私は女の指先に目をやった。

わずかに力が入っている。

無意識の緊張――それは、彼女自身も気づかぬうちに、こちらから何かを受け取ろうとしている証拠だった。

感謝か、肯定か、あるいは救済か。

いずれにせよ、それは私の与えるべきものではない。


「優しさという言葉は、便利ですね」


思わず、そう口をついた。

言葉は空気のように軽く、しかし一度放たれれば、もはや回収はできない。

女は一瞬、戸惑ったように眉を寄せた。

それでも否定はしない。

否定しないという選択は、多くの場合、理解ではなく回避である。


「便利で、そして安全です。誰も傷つけない代わりに、誰の本質にも触れない」


私の声は、自分でも驚くほど平板だった。

感情を削ぎ落とした言葉ほど、残酷に響くことを、私は経験的に知っている。

女は小さく息を吸い、何かを言いかけて、やめた。

その沈黙に、私はわずかな満足を覚えた。

言葉を失った人間は、ほんの一瞬だけ、思考を強いられる。

人は、優しいと言われることで安心する。

同時に、その言葉を投げた側も、自分が善人であるという錯覚に浸ることができる。

それは互いに都合のよい取引だ。

だが、そこには真実が一つも含まれていない。


「あなたは……冷たい人ですね」


女は、ためらいがちにそう言った。

その声音には、失望と安堵とが、奇妙に混ざっていた。

私はわずかに口角を上げた。

それは笑みと呼ぶには、あまりに短く、また意味の薄いものだった。


「そうかもしれません」


冷たい――その評価の方が、まだ現実に近い。

少なくとも、優しいという言葉よりは、観察の痕跡がある。

女はそれ以上、何も言わなかった。

そして私も、何も付け加えなかった。

人と人との距離は、理解によって縮まるのではない。

誤解によって、かろうじて保たれている。

その均衡が崩れるとき、人は初めて、他人の顔を直視することになる。

私は、その瞬間が訪れぬことを、内心でひそかに願っていた。

それは決して優しさではない。

ただの、慎重さだった。


女はしばらく黙っていた。

沈黙が長引くほど、人はそこに意味を見出そうとする。

だが、沈黙そのものには、意味などない。

意味を付与しているのは、常に人間の側だ。

私は女の顔から視線を外し、窓の外を見た。

夕暮れの色は、どの街でも同じように鈍く、無関心だった。

自然は人間の感情に関与しない。

その点で、自然は誠実である。


「……どうして、そんな言い方をするんですか」


女の声は、わずかに震えていた。

震えは怒りではない。

失望でもない。

自分が信じていたものに、形がなかったと気づいたときの反応だ。


「理由はありません」


私は即座に答えた。

理由を与えることは、相手に理解の可能性を残す行為である。

私はそれを望まなかった。

人は、他者の言動に必ず理由があると信じたがる。

理由があれば、納得できるからだ。

だが、現実には、多くの行為は無理由に行われる。

特に、人を突き放す行為は。

女は唇を噛みしめた。

そこに、かすかな怒気が混じる。

怒りは、まだ相手に期待している証拠だ。


「ひどい人ですね」


「そうでしょう」


否定しなかった。

否定する価値がないからではない。

否定する必要がないからだ。

人間は、冷酷さを自覚した瞬間にのみ、かろうじて理性的でいられる。

自分は善人だと信じ込んだ者ほど、無自覚に他人を傷つける。

私はその種の人間になるくらいなら、最初から悪人でいる方を選ぶ。

女は立ち上がった。

椅子が床を擦る音が、やけに大きく響いた。

感情は音を伴う。

理性は、静かだ。

彼女は振り返らなかった。

振り返るという行為は、最後の期待を示す。

それすら放棄したらしい。

扉が閉まる。

その音は、予想以上に軽かった。

私は、何も感じなかった。

少なくとも、そう思いたかった。

だが、机の上に残された、女のカップの跡を見たとき、

そこに、消えるまでの時間が必要だという事実だけは、正確に理解した。

人の痕跡は、感情よりも長く残る。

それが不快であるかどうかは、問題ではない。

私は、布巾を取り、跡を拭き取った。

それだけのことをするために、心を動かす必要はなかった。

優しさでも、後悔でもない。

ただ、残っているものを消したかっただけだ。


布巾を元の場所に戻し、私は椅子に腰を下ろした。

部屋は先ほどと何一つ変わっていない。

人が一人去ったという事実だけが、私の記憶の中にのみ存在している。

それは出来事ですらなく、ただの情報に過ぎなかった。

人は、他者に触れたと思い込むことで、自分が生きていると錯覚する。

だが実際には、誰も誰にも触れていない。

触れたように見えるのは、互いの孤独が一瞬、重なっただけだ。

私はその重なりを、意図的に避けてきた。

それは臆病さではない。

人間というものを、正確に理解した結果である。

窓の外では、街が何事もなかったかのように息をしている。

世界は常に平常であり、そこから逸脱するのは、人間の感情だけだ。

私は、もう一度だけ、先ほどの女の言葉を思い出した。


「本当に優しい方ですね」


その言葉を、心の中で静かに否定する。

人に優しくない者だけが、人を正しく見ることができる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ