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00 誇り高き記憶

 

 ――――それは、プルヴィア・エンシスがまだ幼く、父の背中をただ見上げるばかりだった頃の記憶。



 後に「黄昏の大遠征」と呼ばれることになる、イニティア王国の歴史においても重要な一日の、夜明け前の出来事だった。



 場所は王城の正門前広場。吐く息が白く染まるほどの冷気の中、数千の屈強な騎士たちが、整然と隊列を組んでいた。



 掲げられた旗が風にはためき、磨き上げられた鎧兜が松明の光を反射して鈍い輝きを放つ。

 幼いエンシスの目には、その光景がまるで古の叙事詩の一場面のように映っていた。



 先頭に立つは三人の英雄。

 炎のような赤髪の剣聖ミカーレ。

 森のローブをまとう大賢者リディア。

 そして、聖剣を掲げる若き勇者アルトリウス。



 彼らがこれから挑むのは、王国の北方を脅かす蛮族の大軍勢と、それに呼応して活性化した魔獣の群れとの決戦だった。国の存亡を懸けたこの大遠征を前に、広場は荘厳な静寂と、熱を帯びた緊張感に包まれていた。



 その英雄たちの前に、たった一人、男が立っていた。


 豪華な鎧でも、魔力を秘めたローブでもなく、質実剛健な職人服に身を包んだ、壮年の男。


 その手には、使い込まれた(こて)が一本だけ握られている。



 プルヴィア・ペトレス。エンシスの父であり、王国にその人ありと謳われる、当代随一の【左官聖】。



「……壁は、万全だ」



 ペトレスの静かで、しかし揺るぎない声が、広場に響いた。



「昨夜のうちに、北壁の最終調整を終えてある。この日のために竜の墓所から運び込んだ最後の『竜骨』も、完全に壁と馴染んだ。その漆喰の魔力伝導率も、過去最高の状態で安定している。お前たちが留守の間、この国に指一本触れさせることはないと、この俺が保証しよう」


 剣聖が笑い、大賢者が微笑む。

「はっ、違いねぇ。お前の壁を越えられる奴なんざ、この世にいねぇ」

「あなたの壁が放つ聖気は、兵たちの心までも守っています」





 三人の英雄からの絶対的な信頼。




 それは、ペトレスが長年、ただひたすらに己の技を磨き、国を守り続けてきたことへの、何よりの証だった。彼は多くを語らない。



 ただ、その仕事ぶりだけで、自らの価値と信念を証明してきた。


 最後に、勇者アルトリウスが、真摯な眼差しでペトレスを見つめた。



「ペトレス。俺たちが、こうして後ろ髪を引かれることなく、心置きなく進軍できるのは、お前の壁が、俺たちの帰るべき場所を、愛する人々を、完璧に守っていてくれるからだ。お前という絶対の『盾』があるからこそ、俺たちは迷いなく『剣』を振るうことができる」


 勇者の言葉に、ペトレスはただ静かに頷いた。

 


「……お前たちの武運を祈る。必ず、全員で生きて帰ってこい。温かいスープと、頑丈な家をいつでも用意しておく」

「ああ、約束だ」



 アルトリウスは右手の拳を胸に当て、ペトレスもまた、左官職人としての誇りを込めて、鏝を握る右の拳を己の胸に当てた。


 言葉はなくとも、魂は通じ合っていた。


 攻める者と、守る者。



 役割は違えど、国を、人々を想う心は一つ。互いの力を認め、尊敬し、そして命を預け合う。それが、この時代のイニティア王国を支える、英雄たちの絆の形だった。



 やがて、アルトリウスは騎士たちの方へ向き直り、聖剣を高く掲げた。




「イニティアの誇り高き(つわもの)たちよ! 出陣の時は来た! 我らの背後には、最強の壁と、我らの帰りを待つ人々がいる! 恐れるな、躊躇うな! 勝利をこの手に掴み、必ずや故郷へと凱旋するぞ!」


『オオッ!!』



 数千の雄叫びが、大地を震わせた。



 朝日が地平線から昇り始め、騎士たちの鎧を金色に染め上げる。


 それを合図に、勇者アルトリウスを先頭に、イニティア王国が誇る最強の軍勢が、北の大地へと進軍を開始した。




 ペトレスは、その雄大な光景を、城壁の上から静かに見送っていた。


 彼らの背中が完全に見えなくなるまで。

 やがて彼は、踵を返し、自らの仕事場へと戻っていく。


 彼の戦場は、華々しい戦地ではない。血も歓声も、そこにはない。




 ただ、黙々と壁と向き合い、国を守り続ける。

 それが、左官聖プルヴィア・ペトレスの生き様であり、誇りだった。





 物陰からその一部始終を見ていた幼いエンシスは、父の大きく、そして誰よりも頼もしい背中を、憧れの眼差しで見つめていた。



 父の言葉、英雄たちの言葉、その全てが聖句のように幼い彼の心に刻み込まれていく。



 ――いつか自分も、あの背中のようになりたい――――。


 勇者たちが安心して戦えるような、完璧な「守り」を、この手で作り上げたい。

 その想いが、幼い彼の胸に、深く、深く刻み込まれた瞬間だった。



 だが、少年はまだ知らなかった――どんなに完璧なものでも、時間が経てば価値が失われることもあるのだ……。




 その『時間』とは、十年のことなのか……あるいは百年なのか。

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