船幽霊(ふなゆうれい)【表】~一夜目~
赤間関の港町に生まれた与吉は、舟子として暮らしていた。
瀬戸の潮を読んで江戸へ米や塩を運び、また戻る。潮に生き、潮に死ぬのが舟子の定めである。
一家は代々舟子であり、生まれたときからその道以外は与えられなかった。幼い頃は他の生き方を夢見たこともあったが、今は親父の跡を継ぎ、舟を操ることに迷いはなかった。
港では折に触れて、古老たちが語る話を耳にした。
――「日が沈んだら、決して沖に出るな」
曰く、海で死んだ者が夜な夜な舟の縁に手をかけ、底へと引きずり込む。
曰く、「柄杓を貸せ」と声をかけてくるが、そのとき底の抜けた柄杓を渡さねばならぬ。
古老たちはさらに続ける。
「ここ壇ノ浦は、昔、平家が滅びた場所じゃ。女も子も、幼い帝すらも、皆この潮に呑まれた。あれから幾百年、成仏できぬ魂が、船幽霊となって夜の舟を沈めようとするのだ」
与吉は若く、そんな話は作り話だと笑い飛ばしていた。
だがある夏の夜、己の言葉を呑み込むことになる。
***
その晩、他所から来た新しい旦那の命で、与吉は数人の舟子仲間と塩俵を積み、江戸へ向かうこととなった。
古老の舟子は「夜の沖へ出るのは凶事を招く」と必死に諫めたが、旦那は「こんな大きな船が沈むはずがない」と一笑に付した。
結局、古老を外し、若手ばかりで船は漕ぎ出すこととなった。
夕方に発ったため、夜半には沖合に取り残されることなった。
月は雲に隠れ、海は墨を流したように暗く、早鞆の瀬戸を渡る潮の音だけが響く。
与吉が寝ずの番をしていたときだった。舟がどんと揺れ、何かが側板にぶつかった。
覗き込むと、暗い水面に白いものが浮かんでいる。
いや、浮いているのではない――
白い手だ。
死人の手が舟の縁を掴んでいる。冷たい水気が木を伝い、じわりと板に染みる。
おい、起きろ!
与吉が叫ぶと、仲間たちが跳ね起きた。
「なんだこれは……」
声を漏らした途端、反対側からも、前からも後ろからも、次々と白い手が現れた。舟を囲むように、幾本も幾本も。
「沈むぞ!」
舟子の一人が櫂で手を叩いた。だが掴む力は離れない。むしろ怒ったかのように舟を揺さぶりはじめた。
そのとき、海から声がした。
――柄杓を貸せ。
幾人もの声が重なり、低く、湿った声が舟を包んだ。
仲間たちは震えあがり、泣き声を漏らす者もいた。
与吉は思い出した。親父や古老の言葉を。
「柄杓を貸せ」と言われたら、底の抜けたものを渡せ――。
荷の脇に柄杓がある。だが、どれも底は抜けていない。
どうすることもできず、ただ握りしめた。
すると仲間の一人が叫び、刀を抜いた。
「畜生め、斬ってやる!」
その刃が水中の白い手を裂いた瞬間、耳を裂くような悲鳴が響き、舟は大きく揺れた。
無数の手が一斉に舟を掴み、今にもひっくり返そうとする。
「やめろ! 逆らうな!」
与吉は必死に叫んだ。だが怒り狂った海は止まらない。
そのとき――
与吉の手の中の柄杓が、ふいに割れた。
古びた木が水気を含んで朽ち、底が抜け落ちたのだ。
「……これだ!」
与吉は咄嗟に、それを海へ投げ込んだ。
底の抜けた柄杓は水に浮かび、白い手が一斉に群がって掴んだ。
次の瞬間、舟を取り囲んでいた手が、嘘のようにすうっと消えた。
残されたのは、静かな闇の海と、震える舟子たちだけだった。
***
明け方、与吉らはようやく港に戻った。
舟の縁には爪のような痕がいくつも残っていた。
だが血も肉も、何ひとつ残ってはいない。
あの後、刃を振るった仲間は高熱を出し、数日のうちに息を引き取った。
「船幽霊に印を付けられたのだ」と、古老たちは言った。
与吉はその日から、舟に必ず底の抜けた柄杓を積むようになった。
笑い飛ばしていた昔の自分を思い出すたび、背筋が冷えた。
そして夜の海を見やるとき、思う。
――あの手は怒りではなく、ただ仲間を求めて伸びてきたのではないか。
永劫に終わらぬ水汲みを続ける、死者の群れに。
潮は今日も流れている。
赤間関の沖の底には、今もなお白い手がうごめいているのだろう。