第35話 リリーちゃんは機嫌が悪い
遠くで雀の鳴き声が聞こえる。
初秋の朝は少し寒いから、布団の中でまどろむ時間は、最高の快楽の一つだ。
だが、そうも言ってはいられない。
雀の声を聴いて、ミーシャは「ふがっ!」と鼻を鳴らしながら跳ね起きた。雀がもう鳴いているとしたら、それは寝坊を意味する。
ミーシャは、いい加減な連中も多い冒険者稼業の中では、働き者の方だ。寝坊なんて、休みの日でも無ければ数えるほどしかしていない。
「いたたた……」
左腕が痺れている。エリサを抱いたまま寝てしまい、下敷きにしていたようだ。
エリサはというと、ミーシャの隣で、すぴすぴと気持ちよさそうに眠っていた。
(まだ寝かせておいてあげよう)
ミーシャはそう思って、布団をエリサにかけて、そっとベッドから抜け出す。
服を着て、ブーツをはき、手ぬぐいをもって洗面に向かう。
顔を洗ったら、小銭をもって階下に降りる。
1階は、昨日の喧騒こそ落ち着いたが、それでもいつもよりも緊張感が漂っていた。
いつもだったら、今日の仕事にあぶれた者や、今日は休みを決め込んだ冒険者が、朝からエールかワインを食堂で飲んでいることが多い。
だが今日は、そんな者は一人もおらず、整然としていることが、かえって落ち着かない。
受付脇の掲示板にも、今日はほとんど仕事が出ていない。売り切れた、というよりは、ゴブリンの巣の掃討のために、新規受付を停止しているようだった。
「おそよー」
ミーシャが、食堂で薄焼きパンに新鮮なクリームチーズと塩気の強いハムを乗せたものをかじっていると、リリーが声をかけてきた。
「むぐ、おふぁよう」
「……食べるか話すか、どっちかにしたら?」
リリーは、ミーシャがいるテーブルの、空いている椅子に腰かける。
「今日はなんだか、様子が変だね」
「そう。朝からギルドは大忙しだったけど、ようやく一段落したわ。こっちも今から朝ごはん」
そういって、リリーは「おばちゃーん! こっちも朝食1つちょうだーい」と声をかける。
「今日と明日は、依頼受付は一時中断。手の空いている冒険者はみんな、街道警備か討伐隊に駆り出されたわ。といっても、作戦の開始は今日の午後。お昼の鐘を合図に出発よ」
「えっ、きょう出発なのか。早いな」
「もうとっくに街道警備のみんなは出てるわよ。討伐隊は、とりあえず今、村の公会堂で参加者受付を、おじいちゃんたちがやってるわ。わたしは留守番」
「やば……アタシたちも、討伐隊なんだ。行かなきゃ」
慌てて席を立とうとするミーシャを、リリーは押しとどめる。
「大丈夫。ミーシャとエリサさんは、特別扱い。もうすでに数に入っているから、手続きはなし」
リリーはおばちゃんから朝食を受け取ると、ハムとパンを一緒にかじりついた。
「……で、どうしていつもは早起きのミーシャさんが、今日に限ってこんなに寝坊してるわけ?」
リリーは一口食べると、ジト目でミーシャに問いかけた。
「いや、別に……変わったことは」「うそ」「う、嘘じゃないよ!」「ふーん……信じられないなあ」「何がさ」「エリサさんとさぁ、夜通し、何かしてたんじゃないのぉ?」
すねたようなリリーの口調に、ミーシャは口にしていた香茶を吹き出しそうになって、ゲホゲホとむせた。
「やっぱり。ミーシャって、奥手だと思ってたのに、やるときはやるじゃない」
「違うって。そういうことは、してない! だいいち、エリサとはそういう関係じゃないし!」
「ふーん。じゃあ、まだポジションは空いてるってことね」
「?」
ミーシャがきょとんとすると、手早く食事を終えたリリーは、さっと席を立つ。
「……鈍感!!」
リリーはそれだけ言って、さっさとどこかへ行ってしまった。
◇
「出発は今日の昼だから、まだ時間はあるよ。落ち着いて支度して」
リリーがいなくなって所在がなくなったミーシャは、食堂で朝食をもう1セット注文して部屋に持ち帰った。
するとまだ寝ぼけていたのだろうか、エリサが下着姿で洗面に行こうとしていて、慌てて部屋に連れ戻した。
「今日はなんだかすごく眠いです……」というエリサの着替えを手伝ってやり、洗面に送り出す。
「さて。どうにかして《魔導書》を、他の連中に見つからず、手に入れないとね」
エリサが洗面から戻るまでの間、ミーシャはベッドに腰掛け、小剣と分厚いナイフの手入れをしながら、つぶやいた。
討伐隊に2人は組み込まれるのだが、その役割は道案内だ。現地についた後、荒事に巻き込まれるのかはわからない。
かといって、到着してすぐに行方不明、というのもまずいだろう。
そんなことを考えていると、顔を洗って目が覚めたエリサが戻ってくる。
「あの……ミーシャさん。おはよう……ございます」
どことなくエリサはもじもじしていた。もしかしたら、昨日の出来事を覚えているのかもしれない。
「おはよう。朝ごはんもらってきたから、食べなよ」
なるだけ意識しないようにミーシャは応える。エリサは素直にテーブルに置かれた朝食を食べ始めた。
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