6 迷子のイブ
大陸暦717年5月11日 11:00 オロール王国 マドレー
マドレーは現在のオロール王国最北端の街であり、アードラー帝国ジェルム皇子の居城となる首都パリリスの南西60㎞、そのパリリスを守護する軍事城塞コトーの南30㎞にある国境の街であった。
マドレーは、高い柵に囲まれた街であり、その東西に小さな砦があった。
マドレーの市場へと続く人波に、若草色のつばの長い帽子とレースのワンピースを着た、清楚な雰囲気を醸し出している若い女性がいた。その女性は十代半ばから後半で、銀の髪を風に泳がせ、緑色の瞳でもの珍しそうに露店を眺めていた。
その美麗な姿は遠目からでも存在感を示していた。
露店の女主人が声をかける
「お嬢さん、このイチゴとグレープフルーツは今が旬で美味しいよ」
「ほんとうに、美味しそう。イチゴをいただこうかしら」
「はいよ。サービスしとくよ」
露店の女主人は、満面の笑みを浮かべて手渡した。
「お嬢さん、見かけない顔だね」
「・・・分かりますか」
その女主人は、自分の服装を点検でもするかのように見た。
「お嬢さんほどの器量なら、一目みたら忘れないよ」
「・・・実は、今、このマドレーに着いたばかりなのです。国境近くの街だと聞いて不安でしたが、治安は落ち着いていて安心しました」
「アードラー帝国が物騒になってきたから、商売ができるうちに稼いでおかないと、食べるためには、こっちも必至だよ」
「まあ、逞しい」
「お嬢さん、笑顔は一段と美しいね。
名はなんというんだい」
「イブ・ウォーカー」
「よい名前だねー。イブさんは、物騒な状況で、まさか観光でもしているのかい」
「いいえ、迷子になって、この街に着きました」
「え! 迷子? 幼い子供じゃあるまいし」
「はい。幼い頃から、私ってよく迷子になってしまって・・・」
「それは一大事だ。若い女性が1人で迷子とは・・・イブさんは、どこから来たんだ」
「ローグです」
「え、ローグ、この街の南10㎞くらいにある町だね。
いったい、どこへ行くつもりだったんだい」
「トランスパレン湖です」
「イブさん、ローグからトランスパレン湖は南に4㎞くらいだよ。このマドレーは北にあるから、真逆に来ちまったんだね。よし、衛兵まで連れて行ってあげるよ」
「ありがとうございます。でも、大丈夫です。
私は迷子になっても、必ずスティーブが、見つけ出してくれるので」
「そのスティーブさんも一緒にこの街に来ているのかい」
「いえ、そうではないのですが、この街に探しに来てくれる頃だと思います」
「心配だねー。困ったことがあったら、遠慮せずに相談するんだよ」
「ありがとうございます」
イブは噴水のある広場に出た。グレープフルーツが転がって来て、イブのつま先に当たった。
「?」
イブがグレープフルーツを拾い上げると、その先に数個のグレープフルーツを道に落としてしまった年老いた女性が、腰を曲げながら拾おうとしていた。
イブは素早くグレープフルーツを数個拾い上げると、その女性に手渡す。
「お婆さん、怪我はないですか」
「ありがとうよ。この年になると拾うのも大変だわ。
あらま、お嬢さんは、お人形さんみたいに可愛い子だねー」
「あら、いやだわ」
イブが顔を赤めた。
「お婆さん、この袋の底に穴が空いていますね。
・・・グレープフルーツを貸してください」
イブは首のスカーフでグレープフルーツを包んだ。
「お婆さん、はい。これで大丈夫です」
「これは、お嬢さんのスカーフでしょう。こんな上等な物をもらうわけにはいきません」
「困った時には、お互い様ですよ」
「ありがとうよ。最近の若い者も捨てたものではないね」
そう言って、グレープフルーツを1つイブに手渡した。
「お婆さんの大事なグレープフルーツをくださるのですか」
「気は心よ」
そう言ってウィンクした。
イブが幼い子を連れた女性と立ち話をしている。
その女性はイブに頭を下げると、子供も頭を下げた。女性がイブに菓子のマカロンの入った袋を手渡した。
イブは手を振って遠慮している様子であったが、女性がイブの手にその袋を握らせていた。
一部始終を見ていた長身の二十代前半から半ばくらいの男性が微笑んでいる。
「イブ、探したよ」
「スティーブ、見つけてくれたのね。ありがとう」
「無事で何よりだ。毎度のことなので、イブを探すコツをつかめた気がするよ」
「ふふっ、スティーブが必ず見つけてくれるので安心だわ」
「イブ、嬉しそうだね」
「うん、これを見て」
イブは、抱えているイチゴとグレープフルーツ、チーズ、パン、マカロンを見せた。
「随分と抱えているね。買ったのかい」
「うん、このイチゴは買ったの。他の物は貰い物よ」
「貰い物?」
「これはお婆さんから、これは落とし物を一緒に探したお礼、これは迷子の親から」
「・・・迷子が迷子の面倒を見たのか」
「ふふっ、この街の人は皆親切で温かだったわ。
非道とか、冷酷とか聞いていたけれども、全く違った。実際に会ってみると初めて分かることなのね」
「そうか・・・イブの迷子も無駄ではなかったのか」
「私は好奇心を押さえられないのよ。好奇心を満たすためなら、何でもするわよ。
・・・あ、その度に、スティーブには迷惑をかけているけれども・・・」
「迷惑なんてかけてないさ。ただ、イブが心配なだけだ」
「・・・ありがとう。次は、出発前にスティーブを誘います」
「そうあってくれると、俺も安心できる」
イブはスティーブの唇にイチゴを当てた。スティーブは、ぱくりと頬張る。
「甘い。これは美味いいちごだ」
イブも頬張る。
「・・・んーん、あまーい。酸味も絶妙ですね」
イブの目尻がさがり、スティーブと視線が合った。
「・・・スティーブ、そこの通りを曲がった所に、美味しい茶葉を売っている店があると聞いたの」
「はいはい、茶葉ですね。では、探しに行きましょう」
「楽しみだわ」
イブとスティーブは、通りの角を曲がった。
「きゃー」
「避けろー」
その通りから悲鳴が聞こえた。
石畳の通りを1頭の馬が荒い息を吐きながら疾走して来る。
「暴れ馬だ」
スティーブが逞しい腕で、イブを通りの脇に誘導した。
視点が定まらず興奮状態で走る馬の前で、幼い男の子が、慌てて逃げる人とぶつかって倒れた。
「あ、危ない」
イブは声と当時に、走り出した。男の子を抱きかかえるようにして、石畳の上にしゃがみ込んだ。
「きゃゃー!」
男の子の母親だろうか、それを見て絶叫した。
男の子を庇うイブを暴走する馬の馬蹄が踏みつけたと誰もが思った瞬間、スティーブは馬とイブの間に仁王立ちして、馬首を抱きかかえたまま馬を投げ飛ばした。馬は通りの脇に倒れる。
スティーブは倒れた馬に覆いかぶさるようにして、
「どうどう、よしよし・・・」
と、低い声をかけながら、鬣を撫でた。
馬は嘶きながら、4本の足を石畳について立ち上がった。
「どうどう、どうどう」
スティーブは、首を掌で摩る。
興奮した馬の血走った眼に、穏やかな瞳のスティーブが映る。
ブロロロッと口を鳴らすと、馬は落ち着き真ん丸の黒眼に戻った。
スティーブは手綱を持ったままイブの下まで歩き、声をかける。
「坊や怪我はないか」
幼い子供は泣き出した。
「怖かったね。もう大丈夫よ。大丈夫」
イブも胸に抱えた幼子に声をかけた。
母親が膝を着き、子供を抱きかかえるようにして頬ずりをした。母親は言葉にならない唸り声と、ヒクッ、ヒクッとしゃくり上げるような音を出していた。
息を切らして通りを駆けて来た馬の持ち主の男が、スティーブに頭を下げて謝罪する。
「旦那、ご迷惑をおかけしました。
この馬は、突然、犬に吠えられて興奮したようです」
「馬の持ち主ですか。・・・怪我人がいなくて何よりです」
幼い子供の母親が、イブとスティーブに何度も頭を下げては、お礼の言葉を述べる。
「なんとお礼を言っていいか分かりません。
この子の命は私の命です。ありがとうございました」
「坊やよかったわね」
イブは幼い子供の頭を優しく撫でた。
それから、イブとスティーブは、馬の持ち主からの強い懇願で昼食をご馳走になった。
「遠慮はいりません。たんと召し上がってください。儂の馬で人を殺めたら大変なことになっていましたから・・・」
「それでは遠慮なくいただきます」
スティーブは笑顔で答えた。
「しかし、旦那、駆ける暴れ馬の首を掴んで、放り投げるなんて驚きですよ。あの親子の英雄ですよ」
スティーブを見て声を大きくした。
「無我夢中でした。火事場の馬鹿力というやつですかね」
「スティーブは、頼りになるのよ」
「ええ、もう感謝のしようがありません。
しかし、ソレイユ・フォン・マーティン様といい、英雄とは突然現れるものなんですね」
イブが顔を馬の持ち主に向ける。
「ソレイユ・フォン・マーティン?」
「今朝届いた知らせです。もう、この街で噂になり始めています」
「そのソレイユが、どうしたのですか」
「城塞都市アルカディアがアードラー帝国軍に包囲されていて、リヤン王子の命で救援に向かったルーレン・フォン・アルノー辺境伯も苦戦していたらしいです。それで、アルカディア兵の士気も下がり、陥落寸前となっていたそうです」
「ほう、それで」
「そこにソレイユ・フォン・マーティンが、アルカディアを囲むアードラー帝国軍の近くを、右手でビアージュ家の軍旗を掲げ、馬で駆けたそうです。
勿論、アードラー帝国軍も黙ってはいかなったようです。30挺もの銃で、ソレイユ様を狙い撃ちしたそうです。
ソレイユ様は、その飛び交う弾丸の中を馬で駆け、アルカディア城内の兵に呼びかけたそうです。
『勇敢なる兵士たちよ。我と共に戦え!
我と共に勝利を勝ち取れ!』
とね。もう城内の兵士たちはその勇気に心を打たれ、大地を揺るがすほどの雄叫びを上げたそうです」
スティーブは感心したように頷く。
「なるほど、その豪胆さで英雄と称せられたのですね」
「はい、人の心を奮い立たせてこそ英雄です」
イブは黙って2人の会話を聞いていたが、
「英雄ソレイユ・フォン・マーティンか。面白そうね」
「・・・イブ、まさか、ソレイユに会いたいなんて言って、戦場まで行くつもりではないだろうな」
「ふふっ、会ってみたいけれども、ちょっと危険かな。それでも、会ってみたい・・・」
「おいおい、それだけは止めてくれよ」
スティーブは、不安そうな目をしてイブを見て言った。