6. 偏移とは、存在のもうひとつのかたち
夜の空気は、まるで凍りついた潜流のように冷たかった。
念安は、真っ白な石畳の路地を、ただひたすら走った。
靴のかかとが地面を叩くたびに、パリッ、パリッと氷が割れるような音が響いた。
頭上の潜流街灯は揺れ、歪み、
残酷な光を路面に投げかけていた。
念安の手は、胸元の共振ペンダントを必死に握りしめていた。
その手のひらは、すでに冷たい汗で濡れていた。
ようやく自宅にたどり着いた彼女は、玄関を開け放ち、
転がるように洗面室へと駆け込んだ。
明かりをつける暇も、ドレスを脱ぐ余裕もない。
念安は洗面台の前に突っ伏し、激しく嘔吐した。
胃の中には、もはや何も残っていなかった。
込み上げてきたのは、乾いた酸味と、裂けるような痛みだけだった。
洗面台の潜流スクリーンが自動で起動し、
優しい音声で、標準的な精神整列リマインダー(Alignment Mental Reminder)を再生した:
「感情曲率に異常な波動が検出されました。
直ちに『平穏瞑想(Drift Stabilization Session)』を実施してください。」
念安は、全身の力を振り絞り、
スクリーンの電源を押し切った。
光が消える。
世界は、束の間の静寂へと沈んだ。
彼女は、洗面台の下の小さな隅に、そっと身体を滑り込ませた。
両膝を抱え、額を冷たいタイルに押し当てる。
呼吸は、まるで壊れかけた潜流のように、断続的だった。
——張慕言は、狂ってなんかいなかった。
——張慕言は、壊れてなんかいなかった。
彼は、ただ——
「存在のあり方」が、ほんの少しだけ、
ズレていただけだった。
念安は、たしかに耳で聞いた。
あの潜流回響の中で、
あれほど冷静で、そしてあれほど切実な声で——
蘇霊溪が言ったのを。
「偏移とは、罪じゃない。
それは——存在の、もうひとつのかたち。」
念安の心の奥、
潜流の底にひっそりと刻まれていた小さな亀裂が、
その瞬間——音もなく、崩れ落ちた。
彼女は、理解したのだ。
もう、これまでのように「清らか」ではいられないことを。
彼女のbasin核には、すでに——
偏移の火が、灯っていた。
だが同時に、もうひとつの“真理”にも気づいていた。
——この都市で生き残るには、
自らの漣漪を切り捨てなければならない。
——標準潜流のように、
冷たく、従順で、すべてを平らにならすしかない。
ほんのわずかでも震えがあれば——
張慕言のように、
あの瞬間だけ燃えて咲いた“血の薔薇”のように、
都市に、無言のまま引き裂かれてしまう。
念安は、頭を抱えて小さく身体を丸めた。
震える呼吸を押し殺しながら、
小さな、けれど確かな漣漪を抱きしめていた。
彼女が、いつ泣き終えたのかは、分からない。
数分かもしれないし、数時間だったのかもしれない。
やがて顔を上げたとき——
洗面台の割れた鏡の向こう、
念安の瞳の奥には、
銀色の漣漪が、かすかに漂っていた。
それは、あまりに小さく、あまりに儚い。
けれど——決して、消えようとはしなかった。
念安は、そっと微笑んだ。
その微笑みは、空気にさえ届かないほど小さかったが——
彼女のbasinの最奥では、それこそがまさに:
最初に静かに灯された、小さな星の火だった。