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偏移  作者: Fickle
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24. 模倣型バイオロイドみたい

夜が更け、学区シールドは節電モードに切り替わっていた。


標準型の街灯が潜流霧(Drift Mist)の中に細い光の柱を落とし、

封印された校舎は、まるで眠る巨大なクジラのように、静かに、微かに呼吸していた。


念安ネンアンはフードを深く被り、足音を忍ばせながら、封存棟の裏手へと回り込んだ。

そこにはすでに、澄川チョウ・センセンが待っていた。


彼は半ばしゃがんだ姿勢で、片手に携帯型攪乱装置(Portable Drift Jammer)を持っていた。


彼女に気づくと、澄川は口元だけで微笑んだ。

その目には、押し殺した悪戯の光がきらりと揺れていた。


「……どうした、怖気づいたか?」


念安は小さく鼻を鳴らし、手にしていた同期カードを差し出した。

澄川はくすっと笑ってそれを受け取り、素早く攪乱装置に挿入する。


わずかな潜流の漣漪が波紋のように広がり、

門の外側を覆っていた認証層に、ほそい裂け目が走る。


カチリ。


ロックが外れた。


二人は無言のまま視線を交わし、静かにドアを押し開けた。



封存室の内部には、淡い青の光が漂っていた。

歴史的な潜流データが透明なアーカイブとして浮遊し、

空間に、静かに浮かぶ小島の群れのような景観を描いていた。


空気は冷え切っており、

潜流粒子がゆるやかに流れ、二人の呼吸をかすかに青白く染めていた。


澄川は慣れた様子で索引装置を起動し、指先で光のキーボードを滑らかに操る。

念安はその隣で、緊張に喉を詰まらせながら、

その光標の動きひとつひとつに、胸の奥が薄刃でなぞられるような感覚を覚えていた。


間もなく、沈以安の訓練データが呼び出される。


挿絵(By みてみん)


一連の標準的な潜流波形が空中に展開された。


周波数、安定性、同期度——

一見して異常はない。どれも、教科書に載せたくなるほどの完璧さだった。


だが、澄川の目が細くなる。


彼は手を伸ばし、さらに深層のサブデータを引き出した。


「……主帯域が変質してる。」


その声は静かだが、

鋭く研がれた刃がガラスをなぞるような切れ味を帯びていた。


念安は身を寄せ、画面を覗き込む。


三ヶ月前——

主帯域は連続的で、生体的な漣漪パターンが自然に刻まれていた。


しかし現在のデータでは、

主帯域が12%も拡張され、

副帯域には異常な超低周波の震動が記録されていた。


曲率パターン(Drift Curvature Pattern)も、全体的に再構成されている。


これは「汚染」ではなかった。


汚染とは、曲線が歪み、断続し、崩壊することを意味する。


——だが、これは再構築(Reconstruction)だった。


まるで元の潜流核が消去され、その上に異質な基層構造が、

新たに塗り直されたかのように。



念安の指先が、スクリーンにふれた。

その奥から伝わってくる違和感は、

ひんやりとした蜘蛛の糸のように細く冷たく、手首を這い、心臓に絡みつく。


澄川は何も言わず、ただそっと、彼女の指に小指を絡めた。

そのささやかな触れ合いが、

冷えきった潜流空間の中で、ただひとつの熱源のように思えた。


念安は、崩れ落ちそうな心を、わずかに持ち直した。



「……澄川、

彼……潜流核が、変わってる。」


念安の声は震え、かすれていた。


澄川は静かにうなずく。


「変わってる。

——汚染じゃない。」


その言葉は、夜の静寂の中で、確かに響いた。


「……魂を、入れ替えたみたいに。」



封存棟の潜流粒子は、静かに旋回していた。


目に見えぬ無数の刃のようなものが、空気の奥底を音もなく切り裂いていくような、

そんな鋭さと静けさがあった。


二人は多源索引台の前に並び、沈以安の情緒訓練ログを閲覧していた。


澄川はキータッチひとつで、三ヶ月前と二週間前のデータを並列表示させる。


青白い光が二人の顔を照らし、

映し出された映像の縁を潜流の粒子が、漣のように揺らしていた。



三ヶ月前——


怒りの刺激を与えられた沈以安は、自然な笑顔で応じていた。

眼角の筋肉、頬の動き、瞳のゆらぎ。

どれも、生身の感情の発露そのものだった。


「……典型的な自然連動。潜流も、完全に同期してる。」


澄川の声に、念安はうなずく。



二週間前の記録が再生される。


同じ刺激、同じ訓練——


沈以安は再び、笑った。


だがそこには、

ほんのわずかな、計算された遅れ。

筋肉の収縮タイミング、口角の上がり方——


すべてが、「精密すぎた」。


その笑顔は、再現率の高い出力物のようだった。


潜流には、非同期のノイズ。

ミクロ単位の断続震動(Micro-Drift Jitter)。


——あれは、「模倣」だった。



念安の呼吸が止まり、全身が強張る。


「……訓練された……模倣……まるで、

昔の模倣型バイオロイドみたい……」


その声は微かだが、確かに震えていた。



澄川は何も言わず、

念安の手に指先を重ねる。


軽く、優しく、だがはっきりと——


その手の温度が、ふたりの間に小さな橋を架けた。



スクリーンに並ぶふたつの笑顔。

ひとつは、生きた感情。

もうひとつは、完璧すぎる影。


「……澄川……

あれは、模倣してる。」


念安の言葉は、夜の静けさに沈んでいった。


——そして、その小さな言葉は、

静かに都市の中枢へ向かって、波紋を広げていった。



澄川は、うなずいた。

その瞳には、深く、温かな光が宿っていた。


「知ってたよ」とも、

「言っただろ」とも言わなかった。


彼はただ、そっと念安の手を握った。

その身体を少しだけ傾けて、

夜風に冷やされる彼女の側に、ひとつの温度を寄せた。



夜の寮舎は、死んだように静まり返っていた。

灰と白で統一された標準化の壁面は、潜流灯の微かな冷光を受けて、

どの角も、どの廊下も、静かに、音もなく——


深い淵のように長く、歪んでいた。


念安と澄川は、慎重に廊下を進んでいた。


澄川は携帯型潜流攪乱器を最低出力で稼働させ、


巡回監視に引っかからないよう、細かく潜流を撹乱していた。


二人が立ち止まったのは、沈以安シン・イーアンの寮室前。



扉は、半開きだった。


潜流ロックはすでに失効していた。

まるで、極高周波の力で引き裂かれたような痕跡。


念安は無意識に澄川の手首を掴んだ。

澄川はちらりと彼女を見て、目で静かに問いかけた。


——入る?


念安は唇を噛み、力強く、ひとつうなずいた。



扉が、静かに開いた。


直後、鼻をつく異臭が二人を包んだ。

それは、潜流粒子が異常燃焼したときの焦げた臭い、

そして——もっと根源的な、生肉の腐敗と血の混ざった、甘く重い鉄の臭い。


念安は喉を押さえ、反射的にえずいた。


澄川はすぐに彼女を庇い、低く指示した。


「……息、止めろ。」


自分も眉をわずかにひそめながらも、

動きは正確だった。



部屋は荒れ果てていた。


標準のベッドはひっくり返され、

その上にあった潜流シールド発生器(Drift Shield Generator)は、

焼け焦げた金属の塊と化していた。


壁には高温潜流が穿ったような痕が残り、

それは神経のようにうねりながら走っていた。


床の中央、

ひとつの収容庫の蓋が、無理やりこじ開けられていた。



澄川がしゃがみこみ、懐中光を差し込んで中を覗いた。

そして、固まった。



念安は不安げに近づき、

彼の動きを真似て、収容庫の中を覗き込んだ。


次の瞬間——

心臓が、何か鋭いものに一気に引きちぎられるような感覚。



そこにあったのは、


——ひとつの、死体だった。



ぐったりと折り曲げられ、収容庫の奥に押し込まれていた。

その皮膚は、潜流焼灼によって白く裂け、

その裂け目から、黒く焦げた肉がのぞいていた。


目は大きく見開かれ、すでに光は失われている。

だが、その瞳孔には、死の直前に体を襲った恐怖と苦痛が、焼きついたままだった。

口はわずかに開いていた。

まるで、声なき悲鳴を最後に遺したような。


——それだけではない。


その胸部——


潜流核(Drift Core)の外殻は、鋭利な何かでこじ開けられていた。


白骨が見えるほどの深い裂け目。

そこにあったはずのbasin構造は、


……何者かの手によって、まるごと掻き取られていた。


——まるで、魂を、奪われたように。



念安は口を押えた。

だが、それでも耐えきれず、かすかな嗚咽を漏らした。


澄川は即座に彼女を抱き寄せ、

その細い身体で、収容庫を遮るように庇った。


「……見るな。」


その声は低く、掠れていた。


でも、もう遅かった。


あの光景は、すでに念安の心の最も柔らかい場所に、

深く、鋭く、永遠に刻み込まれてしまった。







そこに横たわっていたのは——


沈以安。


本物の、あの「完璧な優等生」。


——とうの昔に死んでいた。







この標準化された都市で。


誰もが安全だと信じていたこの場所で。




その「天才」は、魂を奪われ、

この冷たい収容庫の奥深くに、

誰にも知られずに放り込まれていた。




弔う者もなく。


気づく者もなく。






念安は、澄川の制服を掴んだ指を離さなかった。

彼女の肩は、細かく震えていた。

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