24. 模倣型バイオロイドみたい
夜が更け、学区シールドは節電モードに切り替わっていた。
標準型の街灯が潜流霧(Drift Mist)の中に細い光の柱を落とし、
封印された校舎は、まるで眠る巨大なクジラのように、静かに、微かに呼吸していた。
念安ネンアンはフードを深く被り、足音を忍ばせながら、封存棟の裏手へと回り込んだ。
そこにはすでに、澄川チョウ・センセンが待っていた。
彼は半ばしゃがんだ姿勢で、片手に携帯型攪乱装置(Portable Drift Jammer)を持っていた。
彼女に気づくと、澄川は口元だけで微笑んだ。
その目には、押し殺した悪戯の光がきらりと揺れていた。
「……どうした、怖気づいたか?」
念安は小さく鼻を鳴らし、手にしていた同期カードを差し出した。
澄川はくすっと笑ってそれを受け取り、素早く攪乱装置に挿入する。
わずかな潜流の漣漪が波紋のように広がり、
門の外側を覆っていた認証層に、ほそい裂け目が走る。
カチリ。
ロックが外れた。
二人は無言のまま視線を交わし、静かにドアを押し開けた。
*
封存室の内部には、淡い青の光が漂っていた。
歴史的な潜流データが透明なアーカイブとして浮遊し、
空間に、静かに浮かぶ小島の群れのような景観を描いていた。
空気は冷え切っており、
潜流粒子がゆるやかに流れ、二人の呼吸をかすかに青白く染めていた。
澄川は慣れた様子で索引装置を起動し、指先で光のキーボードを滑らかに操る。
念安はその隣で、緊張に喉を詰まらせながら、
その光標の動きひとつひとつに、胸の奥が薄刃でなぞられるような感覚を覚えていた。
間もなく、沈以安の訓練データが呼び出される。
一連の標準的な潜流波形が空中に展開された。
周波数、安定性、同期度——
一見して異常はない。どれも、教科書に載せたくなるほどの完璧さだった。
だが、澄川の目が細くなる。
彼は手を伸ばし、さらに深層のサブデータを引き出した。
「……主帯域が変質してる。」
その声は静かだが、
鋭く研がれた刃がガラスをなぞるような切れ味を帯びていた。
念安は身を寄せ、画面を覗き込む。
三ヶ月前——
主帯域は連続的で、生体的な漣漪パターンが自然に刻まれていた。
しかし現在のデータでは、
主帯域が12%も拡張され、
副帯域には異常な超低周波の震動が記録されていた。
曲率パターン(Drift Curvature Pattern)も、全体的に再構成されている。
これは「汚染」ではなかった。
汚染とは、曲線が歪み、断続し、崩壊することを意味する。
——だが、これは再構築(Reconstruction)だった。
まるで元の潜流核が消去され、その上に異質な基層構造が、
新たに塗り直されたかのように。
*
念安の指先が、スクリーンにふれた。
その奥から伝わってくる違和感は、
ひんやりとした蜘蛛の糸のように細く冷たく、手首を這い、心臓に絡みつく。
澄川は何も言わず、ただそっと、彼女の指に小指を絡めた。
そのささやかな触れ合いが、
冷えきった潜流空間の中で、ただひとつの熱源のように思えた。
念安は、崩れ落ちそうな心を、わずかに持ち直した。
*
「……澄川、
彼……潜流核が、変わってる。」
念安の声は震え、かすれていた。
澄川は静かにうなずく。
「変わってる。
——汚染じゃない。」
その言葉は、夜の静寂の中で、確かに響いた。
「……魂を、入れ替えたみたいに。」
*
封存棟の潜流粒子は、静かに旋回していた。
目に見えぬ無数の刃のようなものが、空気の奥底を音もなく切り裂いていくような、
そんな鋭さと静けさがあった。
二人は多源索引台の前に並び、沈以安の情緒訓練ログを閲覧していた。
澄川はキータッチひとつで、三ヶ月前と二週間前のデータを並列表示させる。
青白い光が二人の顔を照らし、
映し出された映像の縁を潜流の粒子が、漣のように揺らしていた。
*
三ヶ月前——
怒りの刺激を与えられた沈以安は、自然な笑顔で応じていた。
眼角の筋肉、頬の動き、瞳のゆらぎ。
どれも、生身の感情の発露そのものだった。
「……典型的な自然連動。潜流も、完全に同期してる。」
澄川の声に、念安はうなずく。
*
二週間前の記録が再生される。
同じ刺激、同じ訓練——
沈以安は再び、笑った。
だがそこには、
ほんのわずかな、計算された遅れ。
筋肉の収縮タイミング、口角の上がり方——
すべてが、「精密すぎた」。
その笑顔は、再現率の高い出力物のようだった。
潜流には、非同期のノイズ。
ミクロ単位の断続震動(Micro-Drift Jitter)。
——あれは、「模倣」だった。
*
念安の呼吸が止まり、全身が強張る。
「……訓練された……模倣……まるで、
昔の模倣型バイオロイドみたい……」
その声は微かだが、確かに震えていた。
*
澄川は何も言わず、
念安の手に指先を重ねる。
軽く、優しく、だがはっきりと——
その手の温度が、ふたりの間に小さな橋を架けた。
*
スクリーンに並ぶふたつの笑顔。
ひとつは、生きた感情。
もうひとつは、完璧すぎる影。
「……澄川……
あれは、模倣してる。」
念安の言葉は、夜の静けさに沈んでいった。
——そして、その小さな言葉は、
静かに都市の中枢へ向かって、波紋を広げていった。
—
澄川は、うなずいた。
その瞳には、深く、温かな光が宿っていた。
「知ってたよ」とも、
「言っただろ」とも言わなかった。
彼はただ、そっと念安の手を握った。
その身体を少しだけ傾けて、
夜風に冷やされる彼女の側に、ひとつの温度を寄せた。
—
夜の寮舎は、死んだように静まり返っていた。
灰と白で統一された標準化の壁面は、潜流灯の微かな冷光を受けて、
どの角も、どの廊下も、静かに、音もなく——
深い淵のように長く、歪んでいた。
念安と澄川は、慎重に廊下を進んでいた。
澄川は携帯型潜流攪乱器を最低出力で稼働させ、
巡回監視に引っかからないよう、細かく潜流を撹乱していた。
二人が立ち止まったのは、沈以安シン・イーアンの寮室前。
—
扉は、半開きだった。
潜流ロックはすでに失効していた。
まるで、極高周波の力で引き裂かれたような痕跡。
念安は無意識に澄川の手首を掴んだ。
澄川はちらりと彼女を見て、目で静かに問いかけた。
——入る?
念安は唇を噛み、力強く、ひとつうなずいた。
—
扉が、静かに開いた。
直後、鼻をつく異臭が二人を包んだ。
それは、潜流粒子が異常燃焼したときの焦げた臭い、
そして——もっと根源的な、生肉の腐敗と血の混ざった、甘く重い鉄の臭い。
念安は喉を押さえ、反射的にえずいた。
澄川はすぐに彼女を庇い、低く指示した。
「……息、止めろ。」
自分も眉をわずかにひそめながらも、
動きは正確だった。
—
部屋は荒れ果てていた。
標準のベッドはひっくり返され、
その上にあった潜流シールド発生器(Drift Shield Generator)は、
焼け焦げた金属の塊と化していた。
壁には高温潜流が穿ったような痕が残り、
それは神経のようにうねりながら走っていた。
床の中央、
ひとつの収容庫の蓋が、無理やりこじ開けられていた。
—
澄川がしゃがみこみ、懐中光を差し込んで中を覗いた。
そして、固まった。
—
念安は不安げに近づき、
彼の動きを真似て、収容庫の中を覗き込んだ。
次の瞬間——
心臓が、何か鋭いものに一気に引きちぎられるような感覚。
—
そこにあったのは、
——ひとつの、死体だった。
—
ぐったりと折り曲げられ、収容庫の奥に押し込まれていた。
その皮膚は、潜流焼灼によって白く裂け、
その裂け目から、黒く焦げた肉がのぞいていた。
目は大きく見開かれ、すでに光は失われている。
だが、その瞳孔には、死の直前に体を襲った恐怖と苦痛が、焼きついたままだった。
口はわずかに開いていた。
まるで、声なき悲鳴を最後に遺したような。
——それだけではない。
その胸部——
潜流核(Drift Core)の外殻は、鋭利な何かでこじ開けられていた。
白骨が見えるほどの深い裂け目。
そこにあったはずのbasin構造は、
……何者かの手によって、まるごと掻き取られていた。
——まるで、魂を、奪われたように。
—
念安は口を押えた。
だが、それでも耐えきれず、かすかな嗚咽を漏らした。
澄川は即座に彼女を抱き寄せ、
その細い身体で、収容庫を遮るように庇った。
「……見るな。」
その声は低く、掠れていた。
でも、もう遅かった。
あの光景は、すでに念安の心の最も柔らかい場所に、
深く、鋭く、永遠に刻み込まれてしまった。
—
そこに横たわっていたのは——
沈以安。
本物の、あの「完璧な優等生」。
——とうの昔に死んでいた。
—
この標準化された都市で。
誰もが安全だと信じていたこの場所で。
その「天才」は、魂を奪われ、
この冷たい収容庫の奥深くに、
誰にも知られずに放り込まれていた。
弔う者もなく。
気づく者もなく。
—
念安は、澄川の制服を掴んだ指を離さなかった。
彼女の肩は、細かく震えていた。




