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偏移  作者: Fickle
23/25

23. 投票を、行いますか

同期局の中央審問層、地上から六十メートル地下——。


空気には、ごく薄い同期霧(Drift Mist)が漂っていた。

それは微粒子によって構成され、潜流の異常波動をリアルタイムで検出するための専用層。


銀色に統一された審問室は光が乏しく、静寂の中に鈍く沈んでいた。

その中央にぽつんと置かれた一脚の標準型抑制椅子(Suppression Chair)。


まるで、沈黙した裁定者のように、何も語らずそこに“在る”。



沈以安は、そこに静かに座っていた。


同期拘束具(Drift Shackle)は首から手首、足首にかけて装着され、

微細な震動によって彼の潜流ノードを完全に封じ込めていた。


周囲では、潜流監視装置(Drift Surveillance Array)が静かに回転し、

一秒間に三度、精密なスキャンを実行していた。


その精度は、皮膚下の潜流漣漪さえも捉えるほど。


——けれど。


沈以安は、何も抗わなかった。

叫ばず、もがかず。

まつげさえ、ほとんど動かない。


ただ俯き、口元にごく穏やかな微笑を浮かべていた。


芽吹きを待つ種のような、静かすぎる沈黙。


挿絵(By みてみん)


審問室の背後に設けられた観察室では、警備官たちが声をひそめて会話を交わしていた。


彼らは彼を「汚染者(Contaminated Host)」と呼んでいた。


主任はスクリーン上に映し出された数値を淡々と確認していた。


——潜流曲率は軽度に異常、だが許容誤差内。

——basin核の安定度は8.3%低下、中度汚染の可能性。

——情緒波形の振幅はやや低く、「抑制型反応」として分類。


全てが「マニュアル通り」。


処理手順もすでに確定していた。


初期の同期検査 → 情緒スペクトル較正 → 深層スキャン →

中度以上の汚染が確定すれば即、局所同期リセット(Localized Drift Reset)。


誰も、彼の「正体」に疑いを持っていなかった。


——なぜなら、沈以安は「かつて」潜流制御の天才だったから。


彼ほど安定したbasin核を持つ者は、数えるほどしかいなかった。


だからこそ、人々は望んでいた。


「ただの汚染であってほしい」

「洗浄すれば、元に戻るかもしれない」


それは希望であり、幻想だった。



主任が咳払いを一つして、審問官に目配せを送る。


審問官は、同期音声装置を起動。

複数の情緒フィルターを通した、柔らかな音声で第一声を投げかけた:


「沈以安さん。あなたの主観意識状態について説明してください。

異常な潜流干渉を自覚していますか?

また、自身のbasin核に歪みや違和感を感じていますか?」


——完全に定型化された質問だった。


応急の自傷防止薬も準備されていた。


彼が少しでも異常な反応を見せたなら、即座に投与される段取りだった。



だが——


沈以安は、

ゆっくりと顔を上げた。


その眼差しは静かで、

その瞳は深くて冷たい水面のようだった。


口元には、ごく小さな、消えそうな微笑。


そして、何も答えなかった。



空気が一瞬、止まった。


監視装置の波形に、ごく微かな震え。


極低周波の一線。


——微細すぎて、

誰の警戒域にも引っかからなかった。


ただ一人。

沈以安だけが、その胸の奥で静かに数を数えていた。


「……あと少し……」



床に漂う同期霧が、ゆっくりと回転する。


審問室の外、照明が一度だけかすかに瞬いた。


まるで、遠くのシールド層に微かな“割れ”が走る直前、

最初の光が、ほんの一粒だけこぼれたように——。


すべては標準範囲内。


すべては、予定通り。


ただひとつ、誰も気づいていないことがあった。


——標準化されたその椅子の上に、

沈黙という名の火種が、静かに膨張を始めていた。



軍部・中央支柱層に位置する指揮ホール。


銀灰の合金壁に囲まれ、天井には潜流シールド発生装置(Drift Shield Generator)が弧を描いて吊られている。


都市そのものが潜流の渦の中心で、無言で回転し続けているかのような空間。


だが今——

その中心部が、ゆっくりと熱を帯びはじめていた。



「——ゼロ同期を、即刻実行しろ!」


白瑾秋が叫ぶ。

拳が机を叩き、鋭い声が空気を裂いた。


銀の縁飾りがついた軍服。

血走った眼。

蒼白な顔。


今にも矢が放たれる寸前の弓のような緊張。


「潜流曲率に断裂端点が発生してる!

このままじゃシールドが崩壊する!早く、ゼロへ戻せ!!」


その一声が、ホールのすべての神経を直撃する。



反対側に立つのは、蘇遠征。


「ゼロに戻した、その先は?」


その声は低く、だが確かだった。


「……また精神崩壊潮を引き起こすのか?

——三十年前、どれだけの人間が命を落としたと思っている。」


背後のシールドが、かすかに軋む。

空気まで張り詰めていた。



白瑾秋は、静かに、しかし刺すように笑った。


「……甘いな。」


そして怒声。


「この一秒の遅れで、街が、兵士が、娘が、全部潰されていくんだぞ!」



情緒監視官が、そっと警告を放つ。


「情緒波動、上昇中。潜流への影響が——」


だが、誰も聞かなかった。



ホール後方。


老将・歴懐謹が、静かに杖を握った。


「……三十年前、俺は“ゼロ”の暴走を見た。」


静寂。


「シールドが、内側から反転崩壊した。

三百万人の潜流が破断され、半数以上が“痕跡”すら残らなかった。」


「今も、あの場所には誰も立ち入らない。」


静かな声。

それが最も重かった。



白瑾秋が歯を食いしばる。


「……あれは技術の未熟ゆえだ。

 今とは違う!

 ——時間がないんだ!!」


拳で光影台を叩き、地図が揺れた。


潜流シールドに、警報の赤が灯る。



蘇遠征の声は冷たい。


「技術は進歩した。

 だが、生物の“漣漪”は変わらない。」


「basin核は機械じゃない。

 完全に制御などできない。


 ——もし失敗すれば。

 この都市ごと、すべてが崩壊する。」



「それに——」

「当時ゼロが暴走した本当の原因。

 今も未解明だ。」



「やめろ!」


歴懐謹の声が響く。


あのときの“ゼロ”には、

外部からの精密な干渉があった可能性——

つまり“内通”が、軍の一部で囁かれていた。


歴懐謹は、未だそれを口に出したことはない。


だが、怒りは深く、その記憶は忘れていなかった。



張り詰める指揮ホール。


ただ、潜流シールドのうなりだけが聞こえる。


それは、地の底から響いてくる巨獣の寝息のようだった。



白瑾秋と蘇遠征、二人の目が交差する。


言葉のない、剣のような視線のぶつかり合い。


緊張は臨界点へと向かっていた。



その時——

沈黙を破ったのは、副指揮官・羅琦。


「……投票を、行いますか?」


その短い一言が、冷たく張り詰めた空気を切り裂いた。


老練で知られる彼女の提案に、全員の視線が集まる。



「投票だ。すぐに。」


白瑾秋が、静かに、だが迷いなく言う。


蘇遠征は同期令牌を握りしめ、ゆっくりと頷いた。


歴懐謹は、ただ目を閉じ、深く息をついた。



そして——


潜流の深層。

誰の目にも見えないその奥で。


——ひとつの“閾値”が、

静かに、押し開かれつつあった。


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