23. 投票を、行いますか
同期局の中央審問層、地上から六十メートル地下——。
空気には、ごく薄い同期霧(Drift Mist)が漂っていた。
それは微粒子によって構成され、潜流の異常波動をリアルタイムで検出するための専用層。
銀色に統一された審問室は光が乏しく、静寂の中に鈍く沈んでいた。
その中央にぽつんと置かれた一脚の標準型抑制椅子(Suppression Chair)。
まるで、沈黙した裁定者のように、何も語らずそこに“在る”。
*
沈以安は、そこに静かに座っていた。
同期拘束具(Drift Shackle)は首から手首、足首にかけて装着され、
微細な震動によって彼の潜流ノードを完全に封じ込めていた。
周囲では、潜流監視装置(Drift Surveillance Array)が静かに回転し、
一秒間に三度、精密なスキャンを実行していた。
その精度は、皮膚下の潜流漣漪さえも捉えるほど。
——けれど。
沈以安は、何も抗わなかった。
叫ばず、もがかず。
まつげさえ、ほとんど動かない。
ただ俯き、口元にごく穏やかな微笑を浮かべていた。
芽吹きを待つ種のような、静かすぎる沈黙。
審問室の背後に設けられた観察室では、警備官たちが声をひそめて会話を交わしていた。
彼らは彼を「汚染者(Contaminated Host)」と呼んでいた。
主任はスクリーン上に映し出された数値を淡々と確認していた。
——潜流曲率は軽度に異常、だが許容誤差内。
——basin核の安定度は8.3%低下、中度汚染の可能性。
——情緒波形の振幅はやや低く、「抑制型反応」として分類。
全てが「マニュアル通り」。
処理手順もすでに確定していた。
初期の同期検査 → 情緒スペクトル較正 → 深層スキャン →
中度以上の汚染が確定すれば即、局所同期リセット(Localized Drift Reset)。
誰も、彼の「正体」に疑いを持っていなかった。
——なぜなら、沈以安は「かつて」潜流制御の天才だったから。
彼ほど安定したbasin核を持つ者は、数えるほどしかいなかった。
だからこそ、人々は望んでいた。
「ただの汚染であってほしい」
「洗浄すれば、元に戻るかもしれない」
それは希望であり、幻想だった。
*
主任が咳払いを一つして、審問官に目配せを送る。
審問官は、同期音声装置を起動。
複数の情緒フィルターを通した、柔らかな音声で第一声を投げかけた:
「沈以安さん。あなたの主観意識状態について説明してください。
異常な潜流干渉を自覚していますか?
また、自身のbasin核に歪みや違和感を感じていますか?」
——完全に定型化された質問だった。
応急の自傷防止薬も準備されていた。
彼が少しでも異常な反応を見せたなら、即座に投与される段取りだった。
*
だが——
沈以安は、
ゆっくりと顔を上げた。
その眼差しは静かで、
その瞳は深くて冷たい水面のようだった。
口元には、ごく小さな、消えそうな微笑。
そして、何も答えなかった。
*
空気が一瞬、止まった。
監視装置の波形に、ごく微かな震え。
極低周波の一線。
——微細すぎて、
誰の警戒域にも引っかからなかった。
ただ一人。
沈以安だけが、その胸の奥で静かに数を数えていた。
「……あと少し……」
*
床に漂う同期霧が、ゆっくりと回転する。
審問室の外、照明が一度だけかすかに瞬いた。
まるで、遠くのシールド層に微かな“割れ”が走る直前、
最初の光が、ほんの一粒だけこぼれたように——。
すべては標準範囲内。
すべては、予定通り。
ただひとつ、誰も気づいていないことがあった。
——標準化されたその椅子の上に、
沈黙という名の火種が、静かに膨張を始めていた。
*
軍部・中央支柱層に位置する指揮ホール。
銀灰の合金壁に囲まれ、天井には潜流シールド発生装置(Drift Shield Generator)が弧を描いて吊られている。
都市そのものが潜流の渦の中心で、無言で回転し続けているかのような空間。
だが今——
その中心部が、ゆっくりと熱を帯びはじめていた。
*
「——ゼロ同期を、即刻実行しろ!」
白瑾秋が叫ぶ。
拳が机を叩き、鋭い声が空気を裂いた。
銀の縁飾りがついた軍服。
血走った眼。
蒼白な顔。
今にも矢が放たれる寸前の弓のような緊張。
「潜流曲率に断裂端点が発生してる!
このままじゃシールドが崩壊する!早く、ゼロへ戻せ!!」
その一声が、ホールのすべての神経を直撃する。
*
反対側に立つのは、蘇遠征。
「ゼロに戻した、その先は?」
その声は低く、だが確かだった。
「……また精神崩壊潮を引き起こすのか?
——三十年前、どれだけの人間が命を落としたと思っている。」
背後のシールドが、かすかに軋む。
空気まで張り詰めていた。
*
白瑾秋は、静かに、しかし刺すように笑った。
「……甘いな。」
そして怒声。
「この一秒の遅れで、街が、兵士が、娘が、全部潰されていくんだぞ!」
*
情緒監視官が、そっと警告を放つ。
「情緒波動、上昇中。潜流への影響が——」
だが、誰も聞かなかった。
*
ホール後方。
老将・歴懐謹が、静かに杖を握った。
「……三十年前、俺は“ゼロ”の暴走を見た。」
静寂。
「シールドが、内側から反転崩壊した。
三百万人の潜流が破断され、半数以上が“痕跡”すら残らなかった。」
「今も、あの場所には誰も立ち入らない。」
静かな声。
それが最も重かった。
*
白瑾秋が歯を食いしばる。
「……あれは技術の未熟ゆえだ。
今とは違う!
——時間がないんだ!!」
拳で光影台を叩き、地図が揺れた。
潜流シールドに、警報の赤が灯る。
*
蘇遠征の声は冷たい。
「技術は進歩した。
だが、生物の“漣漪”は変わらない。」
「basin核は機械じゃない。
完全に制御などできない。
——もし失敗すれば。
この都市ごと、すべてが崩壊する。」
*
「それに——」
「当時ゼロが暴走した本当の原因。
今も未解明だ。」
*
「やめろ!」
歴懐謹の声が響く。
あのときの“ゼロ”には、
外部からの精密な干渉があった可能性——
つまり“内通”が、軍の一部で囁かれていた。
歴懐謹は、未だそれを口に出したことはない。
だが、怒りは深く、その記憶は忘れていなかった。
*
張り詰める指揮ホール。
ただ、潜流シールドのうなりだけが聞こえる。
それは、地の底から響いてくる巨獣の寝息のようだった。
*
白瑾秋と蘇遠征、二人の目が交差する。
言葉のない、剣のような視線のぶつかり合い。
緊張は臨界点へと向かっていた。
*
その時——
沈黙を破ったのは、副指揮官・羅琦。
「……投票を、行いますか?」
その短い一言が、冷たく張り詰めた空気を切り裂いた。
老練で知られる彼女の提案に、全員の視線が集まる。
*
「投票だ。すぐに。」
白瑾秋が、静かに、だが迷いなく言う。
蘇遠征は同期令牌を握りしめ、ゆっくりと頷いた。
歴懐謹は、ただ目を閉じ、深く息をついた。
*
そして——
潜流の深層。
誰の目にも見えないその奥で。
——ひとつの“閾値”が、
静かに、押し開かれつつあった。




