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偏移  作者: Fickle
18/25

18. “狂っている”のは、誰だ

都市内層・第二区。


朝が、ようやく始まろうとしていた。

潜流ライトはまだ完全には消えておらず、

空気には、微細な同期振動がほのかに漂っていた。


ある中層エンジニアの男──姓は劉。

彼は、いつも通りに目を覚まし、

無意識のまま顔を洗い、着替え、潜流同期コードを確認する。


――標準化された潜流生活。

その脚本の中で、すべては“正しく”進んでいた。



キッチンには、妻がいた。


静かに朝食を準備している。

吐き出されるコーヒーの蒸気。

パンの焼ける匂い。

加熱パネルに浮かぶレシピコード。


何もかもが、整っていた。

床は暖かく、ニュースキャスターの笑顔が画面越しに微笑んでいた。

彼女の声は明るく、穏やかだった。


テーブルには、トースト、卵、ホットミルク。

ミルクの表面には、ほんの少し泡が立っていた。


挿絵(By みてみん)


エンジニアは椅子に座り、食卓を見渡した。

手を伸ばして、塩のボトルに触れたその瞬間──


ふと、動きが止まった。


……塩の位置が、いつもと違う。


わずかに、五センチ。


それは、ごくわずかなズレ。

けれど、彼の中で何かが軋んだ。


──妻は、位置を間違えない。

彼女は、間違えない“はず”だった。



「おはよう。」


背後から、妻の声がした。

いつも通りの、やさしい調子。


彼は反射的に微笑み、「おはよう」と返した。

振り向いたその刹那、

視界に妻の顔が入った。



笑顔は、完璧だった。

角度も、口元のカーブも、

標準教育で教えられる模範写真と寸分違わぬそれ。


だが──完璧すぎた。


その“笑顔”には、人間の顔にあるはずの

細かな震えも、潜流の情動共振も、一切なかった。



彼は、塩のボトルをそっと置いた。

その手の動きはぎこちなく、

壊れかけた機械人形のようだった。

胸の奥で、心臓が不規則に跳ね始める。



妻は、首を傾けたまま彼を見ていた。

笑顔は、崩れない。

“やさしい妻”という脚本に閉じ込められたままの、硬い仮面。



エンジニアは、ゆっくりと立ち上がった。

一歩、また一歩。

近づくたびに、潜流同期インジケーターがかすかにノイズを発した。

それは、警告だった。


──この個体は、同期していない。



妻は、微動だにしない。

ただ、笑っていた。

その目には、怯えも困惑も、温度もなかった。


ただ、空っぽだった。



彼は、おそるおそる手を伸ばし、

妻の頬に触れようとした。

指先が宙で一瞬止まり、そして──

そっと肌に触れた。



震え。


微細で、途切れがちで、

まるで限界で回っているモーターのような振動。


笑顔は、変わらない。

目元も口元も、まったく動かなかった。


ただ、右目の端が、ほんの一瞬だけ、ピクリと震えた。

それは、壊れた義手が最後に痙攣するときの、無意味な信号に似ていた。



エンジニアは、叫ぶこともできず、

そのまま崩れ落ちた。



ミルクのカップが倒れ、床に砕ける。

白い液体が跳ねて、壁に貼られたスローガンにかかる。


【標準こそ、生存。】


その文字に、じわじわと牛乳が染み込んでいく。

雫が“ぽた、ぽた”と床に落ちる音が響いた。



心音のように。

崩壊の音のように。


そして──裂け目の始まりの音のように。



朝の光が、潜流シールドを透けて、部屋に差し込んでいた。

その光に照らされた“妻”の笑顔は──

完璧すぎる仮面のようだった。


けれど彼女は、そのまま、穏やかに言った。


「あなた、ごはんできたわよ」


その声には、潜流共振の“ゆらぎ”が、ひと欠片もなかった。



エンジニアは、頭を抱え、震えていた。


同期装置のエラー音が、耳元で鳴り続けていた。


──今すぐ報告を。


それが、標準マニュアルの指示。


だが彼は、動けなかった。

逃げ出したかった。


けれど、都市の深層に埋め込まれた“何か”が、

彼の足を、その場に縫い止めていた。



“狂っている”のは、誰だ?


自分か?

目の前の“彼女”か?


──わからない。


彼女は、ただ、笑っていた。


静かに。

“彼”の選択を、待っていた。



遠くで、低周波の警告音が鳴った。


どこかの潜流シールドが、かすかに揺れた。


──まるで、静かな水面に、何かが落ちたように。

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