18. “狂っている”のは、誰だ
都市内層・第二区。
朝が、ようやく始まろうとしていた。
潜流ライトはまだ完全には消えておらず、
空気には、微細な同期振動がほのかに漂っていた。
ある中層エンジニアの男──姓は劉。
彼は、いつも通りに目を覚まし、
無意識のまま顔を洗い、着替え、潜流同期コードを確認する。
――標準化された潜流生活。
その脚本の中で、すべては“正しく”進んでいた。
*
キッチンには、妻がいた。
静かに朝食を準備している。
吐き出されるコーヒーの蒸気。
パンの焼ける匂い。
加熱パネルに浮かぶレシピコード。
何もかもが、整っていた。
床は暖かく、ニュースキャスターの笑顔が画面越しに微笑んでいた。
彼女の声は明るく、穏やかだった。
テーブルには、トースト、卵、ホットミルク。
ミルクの表面には、ほんの少し泡が立っていた。
エンジニアは椅子に座り、食卓を見渡した。
手を伸ばして、塩のボトルに触れたその瞬間──
ふと、動きが止まった。
……塩の位置が、いつもと違う。
わずかに、五センチ。
それは、ごくわずかなズレ。
けれど、彼の中で何かが軋んだ。
──妻は、位置を間違えない。
彼女は、間違えない“はず”だった。
*
「おはよう。」
背後から、妻の声がした。
いつも通りの、やさしい調子。
彼は反射的に微笑み、「おはよう」と返した。
振り向いたその刹那、
視界に妻の顔が入った。
*
笑顔は、完璧だった。
角度も、口元のカーブも、
標準教育で教えられる模範写真と寸分違わぬそれ。
だが──完璧すぎた。
その“笑顔”には、人間の顔にあるはずの
細かな震えも、潜流の情動共振も、一切なかった。
*
彼は、塩のボトルをそっと置いた。
その手の動きはぎこちなく、
壊れかけた機械人形のようだった。
胸の奥で、心臓が不規則に跳ね始める。
*
妻は、首を傾けたまま彼を見ていた。
笑顔は、崩れない。
“やさしい妻”という脚本に閉じ込められたままの、硬い仮面。
*
エンジニアは、ゆっくりと立ち上がった。
一歩、また一歩。
近づくたびに、潜流同期インジケーターがかすかにノイズを発した。
それは、警告だった。
──この個体は、同期していない。
*
妻は、微動だにしない。
ただ、笑っていた。
その目には、怯えも困惑も、温度もなかった。
ただ、空っぽだった。
*
彼は、おそるおそる手を伸ばし、
妻の頬に触れようとした。
指先が宙で一瞬止まり、そして──
そっと肌に触れた。
*
震え。
微細で、途切れがちで、
まるで限界で回っているモーターのような振動。
笑顔は、変わらない。
目元も口元も、まったく動かなかった。
ただ、右目の端が、ほんの一瞬だけ、ピクリと震えた。
それは、壊れた義手が最後に痙攣するときの、無意味な信号に似ていた。
*
エンジニアは、叫ぶこともできず、
そのまま崩れ落ちた。
*
ミルクのカップが倒れ、床に砕ける。
白い液体が跳ねて、壁に貼られたスローガンにかかる。
【標準こそ、生存。】
その文字に、じわじわと牛乳が染み込んでいく。
雫が“ぽた、ぽた”と床に落ちる音が響いた。
*
心音のように。
崩壊の音のように。
そして──裂け目の始まりの音のように。
*
朝の光が、潜流シールドを透けて、部屋に差し込んでいた。
その光に照らされた“妻”の笑顔は──
完璧すぎる仮面のようだった。
けれど彼女は、そのまま、穏やかに言った。
「あなた、ごはんできたわよ」
その声には、潜流共振の“ゆらぎ”が、ひと欠片もなかった。
*
エンジニアは、頭を抱え、震えていた。
同期装置のエラー音が、耳元で鳴り続けていた。
──今すぐ報告を。
それが、標準マニュアルの指示。
だが彼は、動けなかった。
逃げ出したかった。
けれど、都市の深層に埋め込まれた“何か”が、
彼の足を、その場に縫い止めていた。
*
“狂っている”のは、誰だ?
自分か?
目の前の“彼女”か?
──わからない。
彼女は、ただ、笑っていた。
静かに。
“彼”の選択を、待っていた。
*
遠くで、低周波の警告音が鳴った。
どこかの潜流シールドが、かすかに揺れた。
──まるで、静かな水面に、何かが落ちたように。




