17. 今の、なんだった……
夜の闇が、低く沈んでいた。
廃棄された工業地帯の上空、
潜流シールドの光膜がわずかに脈動しながら、ゆっくりと収縮していた。
半透明の膜のようでいて、どこか濁り、病的な光を帯びている。
かつてここは都市のエネルギー中枢だった。
今はただ、歪んだ鉄骨が風に軋むだけの、死んだ構造体。
崩れた高架橋には錆びた鋼索が垂れ下がり、
冷たい風がそれを無言で揺らしていた。
空気には、正体の知れない振動が漂っていた。
それはまるで、死にかけた何かが、遠くで微かに息をしているようだった。
*
林澤は、第九暗線小隊を率いて、廃墟の中を進んでいた。
隊員たちは潜流遮断ヘルメットを装着し、
手にした同期スキャナの青白い光が、闇の中でかすかに瞬いていた。
それが、崩れた都市の輪郭を、一本ずつ描き出していく。
ときおり、スキャナが「キィィ……」と軋むような音を立てた。
それは、潜流曲率に局所的なズレが生じたときの兆候。
骨の奥に響くような、微かな不協和。
小隊は扇状に展開しながら、沈黙のまま着実に前進していく。
足元を吹き抜ける風には、潜流の漏洩を思わせる生臭さが混じっていた。
地中に沈んだままの腐敗した記憶が、ふいに地表へと浮上してきたような匂い。
*
林澤が波形を確認していたとき、
視界の端で、半壊した工場の影が動いた気配を捉えた。
……人影。
汚れた作業服を着た背中が、猫背で、ゆっくりと揺れていた。
その動きは不自然に遅く、ぎこちなかった。
壊れた機械が、命令を忘れて徘徊しているような挙動。
林澤は手信号で部隊を静止させる。
スキャナの周波数を低帯域に切り替え、その影に向けて慎重に照射した。
光が人影の輪郭をなぞった。
だが、戻ってきたデータは、限りなく“空白”に近かった。
標準潜流との同期反応――なし。
検出されたのは、微弱で無秩序な揺らぎだけ。
それはまるで、接続されたことのない、死んだ構造体を読み取ったときのような感触だった。
*
その瞬間、人影がぴたりと止まった。
誰かに見られていることを、察知したかのように。
そして——
信じられないほどゆっくりと、首が回り始めた。
最初はわずかに。
次いで、「ギリッ」と耳障りな音とともに、関節の角度が崩れる。
ねじれた軸のように、頭部がぐるりと回った。
闇の中に、その“顔”が浮かび上がる。
表情はなかった。
瞳孔は、凍ったガラスの奥に閉じ込められたままで、光をまったく反射しなかった。
口元には、笑みのようなものがあった。
だがそれは、筋肉の動きと一致していなかった。
まるで、どこかから貼りつけられた“笑っている形”だけが、顔に固定されているようだった。
林澤は半歩、無意識に後退した。
そしてすぐに、戦術サインを出す。
——警戒態勢。
その合図と同時に、“それ”が動いた。
ぎこちなく、しかし異常な速さで突進してくる。
脚の関節は外れたまま跳ねているようで、
動作のすべてが、人間のそれとはかけ離れていた。
林澤は反射的に銃を抜き、三発撃つ。
標準弾が、正確に相手の胸を貫いた。
「ドン、ドン、ドン。」
銃声が廃墟に響く。
しかし、血は出なかった。
*
部隊は即座に包囲態勢を取る。
その個体は、ふいに動きを止め、首を傾けた。
その視線には、恐怖も、怒りも、痛みもなかった。
まるで“観察対象”ですらない、“ノイズ”を見るような目。
そして彼は、何事もなかったかのように踵を返し、
ふらつきながら工場の影へと消えていった。
靴底が地面を擦るたび、
「きぃ……きぃ……」と、骨を引きずるような音が響いた。
*
林澤は、スキャナに目を落とす。
さきほどまで異常数値を示していた座標が、
まるで何もなかったかのように、標準値に戻っていた。
あの存在自体が、最初から“なかった”かのように。
*
背後で、隊員のひとりが小さく息を漏らす。
「……今の、なんだった……?」
林澤は答えない。
ただ、背中を撫で上げてくるような見えない冷気に、
全神経がざわついていた。
*
遠く、廃墟の奥で、小さな足音がした。
一歩。 また一歩。
暗がりの向こうから、別の個体たちが、
ゆっくりと、都市の中枢へと向かって動き始めていた。




