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偏移  作者: Fickle
16/25

16. あらゆる自由な漣漪は、裏切り者

三時間後。

中央軍部・第九暗線小隊は、

都市の外縁区域に、誰にも気づかれぬよう展開されていた。


空は低く垂れ込め、

潜流シールドは夜の闇に包まれながら、

銀色の霧を纏った水面のように、わずかに揺れていた。


都市の下層域には、

無数の微小潜流ノード(Micro Drift Nodes)が浮遊しており、

そこには、人の知覚をすり抜ける“認知の死角”が形成されていた。


そして——

“異常”は、その死角の奥に、静かに潜んでいた。



隊長の林澤は、

防護用のヘルメットをきっちりと締め、

携帯型同期スキャナ(Portable Drift Scanner)を迅速に操作していた。


青白い光のメッシュが空間に走り、

都市下層に潜む曲率の揺らぎを、幾何学的に浮かび上がらせる。


「サンプリング、開始。」


短く、明晰な指示に応じて、

二人の隊員が即座に動き出す。


彼らは分散し、局所曲率プローブを展開。

一本ずつ、潜流共振アンカーを、ノードの深層へ慎重に挿し込んでいく。


波紋が、水面を撫でる手のように、静かに震えた。


林澤は、廃ビルの縁にしゃがみ込み、

流れ込むデータを監視しながら、周囲に目を配る。


——夜の都市には、常に奇妙な違和感がある。


あまりに静かで、あまりに整いすぎている。

まるで、生きているふりをした死体のようだった。


挿絵(By みてみん)


データは、三分間、安定していた。


林澤が“収束”の指示を出しかけたその瞬間——

同期スキャナが、鋭いアラート音を発した。


【局所潜流偏移率異常:11.8%。】

【推定発生源:不明。】

【異常属性:共振軌道の乱れ。】


林澤は即座に立ち上がり、

座標マーカーを睨みつける。


それは、都市外縁の廃工業地帯だった。


潜流灯の下、崩れた高架橋が、

青灰色の光を帯びて、不気味な骨のように横たわっている。


そこから——

異常曲率が、わずかずつ、しかし確実に拡がっていた。


軌道は、微細な“螺旋”を描いていた。


それは、既知のどの潜流波とも一致しなかった。


自然発生的な曲率の膨張でもなく、

標準生成体による漣漪パターンとも、まるで異なる。



林澤の目が鋭く光る。


指先を素早く動かし、スキャナ上に暗号マーカーを設置。


暗線小隊には、異常の報告権限はあるが、

独断で接近・解析する権限はなかった。


それでも——彼には、確信があった。


この“共振軌道の乱れ”は、

かつてごくわずかな記録にしか残されていない、

“未同期AI生成体”のものと酷似していた。


つまり——


あの廃墟の中に、

まだ標準潜流に“馴化”されていない存在が、潜んでいる。



短い通信の後、

異常座標は、軍部内部ネットワークへ密かに送信された。


すべての記録は、暗号化された最高優先チャンネルで処理される。



数分後——中央軍部指令室。


白瑾秋は、その報告を最初に受け取った。


簡潔な文面、短い数値ログ。

彼は一瞥しただけで、ファイルを閉じる。


その口元に、ごく微かな笑みの線が浮かんだ。


「Found it.」


「異常源——ついに顔を出したか。」


彼は立ち上がり、

制服の裾を整え、無駄のない動作で身支度を終える。


その視線の先には、都市の果て、

沈黙の廃墟の奥——

まだ“正体”を現していない“影”。


それを捉えた瞬間、

白瑾秋の瞳は、水銀のように冷たい光を放った。



白瑾秋は、軍部の高層観測台に立っていた。


遠く広がる都市の夜景は、

潜流シールドに覆われ、

まるで透明な網で縫い留められているかのようだった。


シールドはゆっくりと脈動し、

空中に規則正しい呼吸のリズムを刻んでいた。


標準同期曲線は都市全域に走り、

一糸乱れぬ白線として、幾重にも張り巡らされている。


彼は瞬きもせず、それを見つめていた。


——それは、繊細な芸術を見つめる目。

だが同時に、網を破って飛び出す“獣”を警戒する目でもあった。


指先が、無意識にこめかみに触れる。


左側の側頭部。

そこには、小さく冷たい傷痕が残されていた。


かつて“自由漣漪”が、最も強く集積した領域。


だが今では、

幾度にも及ぶ“多段階潜流整列手術(Multi-Phase Drift Alignment Surgeries)”によって、

すべての自由は切除されていた。


そこにあるのは、ただの標準化組織。

冷たく、精密で、無感覚。


彼はそっと目を閉じ、

その傷跡を、指先でなぞる。


——偏移は、癌だ。

——自由は、呪いだ。


彼は、自らの内奥で、静かに唱え続けていた。

まるで古代の祭司のように。


【あらゆる自由な漣漪は、裏切り者。】

【あらゆる自主的な曲率は、毒瘤。】

【すべて排除せねばならない。すべて、浄化せねばならない。すべて、ゼロへと還元せねばならない。】



ずっと昔、誰かが言った。

「自由は、祝福だよ。」


だが、彼はその祝福を、自ら断ち切った。


内にあった、偏移を生む柔らかい何かを、

焼き払い、切り離し、消し去った。


それは、信仰ではなかった。


それはただ——


「自分のために、

 自分を、壊した。」



彼は、ゆっくりと目を開けた。


都市の夜は、潜流ライトの下でわずかに震えていた。


それは、街全体が怯えるような震え。

かすかな漣漪に反応する、獣の鼓動のようだった。


白瑾秋は、その冷たい夜風の中に立っていた。


まるで、まだ鞘に収められているが、

すでに血の香りを帯びた“刃”のように。



遠くから、暗線小隊の報告が次々と届く。


数値、痕跡、わずかな異常。


そのすべてが——

一本一本、彼の中の刃に、

“見えない血の筋”を積み重ねていった。


世界は、まもなく“清算”を始める。

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