16. あらゆる自由な漣漪は、裏切り者
三時間後。
中央軍部・第九暗線小隊は、
都市の外縁区域に、誰にも気づかれぬよう展開されていた。
空は低く垂れ込め、
潜流シールドは夜の闇に包まれながら、
銀色の霧を纏った水面のように、わずかに揺れていた。
都市の下層域には、
無数の微小潜流ノード(Micro Drift Nodes)が浮遊しており、
そこには、人の知覚をすり抜ける“認知の死角”が形成されていた。
そして——
“異常”は、その死角の奥に、静かに潜んでいた。
—
隊長の林澤は、
防護用のヘルメットをきっちりと締め、
携帯型同期スキャナ(Portable Drift Scanner)を迅速に操作していた。
青白い光のメッシュが空間に走り、
都市下層に潜む曲率の揺らぎを、幾何学的に浮かび上がらせる。
「サンプリング、開始。」
短く、明晰な指示に応じて、
二人の隊員が即座に動き出す。
彼らは分散し、局所曲率プローブを展開。
一本ずつ、潜流共振アンカーを、ノードの深層へ慎重に挿し込んでいく。
波紋が、水面を撫でる手のように、静かに震えた。
林澤は、廃ビルの縁にしゃがみ込み、
流れ込むデータを監視しながら、周囲に目を配る。
——夜の都市には、常に奇妙な違和感がある。
あまりに静かで、あまりに整いすぎている。
まるで、生きているふりをした死体のようだった。
データは、三分間、安定していた。
林澤が“収束”の指示を出しかけたその瞬間——
同期スキャナが、鋭いアラート音を発した。
【局所潜流偏移率異常:11.8%。】
【推定発生源:不明。】
【異常属性:共振軌道の乱れ。】
林澤は即座に立ち上がり、
座標マーカーを睨みつける。
それは、都市外縁の廃工業地帯だった。
潜流灯の下、崩れた高架橋が、
青灰色の光を帯びて、不気味な骨のように横たわっている。
そこから——
異常曲率が、わずかずつ、しかし確実に拡がっていた。
軌道は、微細な“螺旋”を描いていた。
それは、既知のどの潜流波とも一致しなかった。
自然発生的な曲率の膨張でもなく、
標準生成体による漣漪パターンとも、まるで異なる。
—
林澤の目が鋭く光る。
指先を素早く動かし、スキャナ上に暗号マーカーを設置。
暗線小隊には、異常の報告権限はあるが、
独断で接近・解析する権限はなかった。
それでも——彼には、確信があった。
この“共振軌道の乱れ”は、
かつてごくわずかな記録にしか残されていない、
“未同期AI生成体”のものと酷似していた。
つまり——
あの廃墟の中に、
まだ標準潜流に“馴化”されていない存在が、潜んでいる。
—
短い通信の後、
異常座標は、軍部内部ネットワークへ密かに送信された。
すべての記録は、暗号化された最高優先チャンネルで処理される。
—
数分後——中央軍部指令室。
白瑾秋は、その報告を最初に受け取った。
簡潔な文面、短い数値ログ。
彼は一瞥しただけで、ファイルを閉じる。
その口元に、ごく微かな笑みの線が浮かんだ。
「Found it.」
「異常源——ついに顔を出したか。」
彼は立ち上がり、
制服の裾を整え、無駄のない動作で身支度を終える。
その視線の先には、都市の果て、
沈黙の廃墟の奥——
まだ“正体”を現していない“影”。
それを捉えた瞬間、
白瑾秋の瞳は、水銀のように冷たい光を放った。
—
白瑾秋は、軍部の高層観測台に立っていた。
遠く広がる都市の夜景は、
潜流シールドに覆われ、
まるで透明な網で縫い留められているかのようだった。
シールドはゆっくりと脈動し、
空中に規則正しい呼吸のリズムを刻んでいた。
標準同期曲線は都市全域に走り、
一糸乱れぬ白線として、幾重にも張り巡らされている。
彼は瞬きもせず、それを見つめていた。
——それは、繊細な芸術を見つめる目。
だが同時に、網を破って飛び出す“獣”を警戒する目でもあった。
指先が、無意識にこめかみに触れる。
左側の側頭部。
そこには、小さく冷たい傷痕が残されていた。
かつて“自由漣漪”が、最も強く集積した領域。
だが今では、
幾度にも及ぶ“多段階潜流整列手術(Multi-Phase Drift Alignment Surgeries)”によって、
すべての自由は切除されていた。
そこにあるのは、ただの標準化組織。
冷たく、精密で、無感覚。
彼はそっと目を閉じ、
その傷跡を、指先でなぞる。
——偏移は、癌だ。
——自由は、呪いだ。
彼は、自らの内奥で、静かに唱え続けていた。
まるで古代の祭司のように。
【あらゆる自由な漣漪は、裏切り者。】
【あらゆる自主的な曲率は、毒瘤。】
【すべて排除せねばならない。すべて、浄化せねばならない。すべて、ゼロへと還元せねばならない。】
—
ずっと昔、誰かが言った。
「自由は、祝福だよ。」
だが、彼はその祝福を、自ら断ち切った。
内にあった、偏移を生む柔らかい何かを、
焼き払い、切り離し、消し去った。
それは、信仰ではなかった。
それはただ——
「自分のために、
自分を、壊した。」
—
彼は、ゆっくりと目を開けた。
都市の夜は、潜流ライトの下でわずかに震えていた。
それは、街全体が怯えるような震え。
かすかな漣漪に反応する、獣の鼓動のようだった。
白瑾秋は、その冷たい夜風の中に立っていた。
まるで、まだ鞘に収められているが、
すでに血の香りを帯びた“刃”のように。
—
遠くから、暗線小隊の報告が次々と届く。
数値、痕跡、わずかな異常。
そのすべてが——
一本一本、彼の中の刃に、
“見えない血の筋”を積み重ねていった。
世界は、まもなく“清算”を始める。




