3.『アリソン&ダイアン編』 後編
「……遅い」
カタカタと、右足を貧乏揺すりしながら毒づく。
あれほど豪語したのに、マークの野郎はまだ姿を見せてない。
ここは娼館の一室。アタシは今ダイアンと一緒にベッドの淵に腰かけ、目当ての人物が現れるのを今か今かと待ちわびていた。
「……マークさん、本当にきてくれるんでしょうか」
「ちゃんとそう言ったよ」
不安げなダイアンの頬が赤いのは気のせいじゃない。
緊張をほぐすために酒を飲ませている。
ダイアンの服装は貫頭衣だ。穴を開けた布を被り、腰紐一本で固定する方法は、昔の奴隷を彷彿とさせる。もっとも使っている生地自体は奴隷服よりもよほど薄手のものだ。身体のラインというより、裸身の輪郭が浮き上がっている。
簡素な服は、脱がしやすさを考慮して選んだ。お客の中には一枚一枚服をひっぺがすのを楽しむ連中もいるけれど、今のダイアンにそんな余裕なんてない。
ことが始まれば、目を瞑ってても行為を行えるように、最低限しか衣服を着せないのはアタシの考案したアイディアだった。
アタシはベッドの上のダイアンの手に、自分の掌を重ねた。
「良かったじゃないか。知り合いの男が指名してくれて」
「それは素直に嬉しいです。けど……今度失敗したら」
「やってみもしないうちに、ダメだったときのことなんて考えるもんじゃないよ」
アタシは、ダイアンの手を強く握り込んだ。これがラストチャンス。もしダメなら、ダイアンは力ずくで作法を教え込まれることになる。
同じ思いが念頭にあるんだろう。ダイアンはしゅんと顔を落として、弱気の虫にやられちまっている様子だった。
……ちょいとばかし、空気を変える必要があるねえ。
「ダイアン、少し聞かせてもらっていいかい?」
「えっと……はい、どうぞ」
「あんた、マークのどこをそんなに気に入ったんだい?」
「へ?」
素っ頓狂な声を出したかと思うと、かーっと顔が紅潮してゆく。
「あ、アリソンさん!? な、な、なにを!?」
「ほー、あんたわかりやすい娘だねえ」
「い、いえ私別にマークさんのことを好きなんかじゃ!?」
その反応が答えを言ってるようなもんだって、この娘はわかってないのかねえ?
「隠さずとも構わないよ。ちょっと前からなんとなくそうなんじゃないかって思ってたんだ。けど少し解せなくてね。マークって言ったら、あのフランクの腰巾着だろ。どうしてそんな男をあんたみたいのが好きになるのか疑問だったんだ」
弱気の虫は羞恥の虫に食われたようだね。
ダイアンはうーっと唸って、恥ずかしげに答えた。
「……じ、実は前に、助けてもらったことがあって」
「マークがかい?」
「はい、冒険者になったばかりの頃に」
聞けば、ダイアンがド新人だった頃に冒険者ギルドで絡まれてるところを助けてくれたのが、あのマークだったとか。
「……絡む方じゃなくて助ける方、ねえ」
半信半疑といった感じの反応。
ダイアンは少し気に入らないようだった。
「ま、マークさんは自発的に人に絡んだりなんてしません」
「そうは言っても、現にフランクと一緒に悪さしてるわけだし」
「あ、あれは、無理矢理付き合わされてる、だけで……」
尻すぼみになるのは、悪事を働いてる現場を見たからだろうね。
「……それに、たぶん私のせい、だから」
聞き捨てならない一言に、アタシは首を傾げる。
「私のことを助けて、からなんです。マークさん、フランクさんに付きまとわれるようになって、なにかと突っかかられたり、ことあるごとに笑われたり……きっと私を助けたせいで、マークさんはフランクさんに狙われてしまったんです。それで、あんな……」
ケンカを売られて、叩きのめされた。
恐怖の種を植え付けて、逆らえないようにした。
気持ちは、わかる。ロクデナシのフランクの方だ。
やっこさんはきっとマークが眩しかった。その正義感に、傷つけられた。
捻じくれた心の持ち主は、真になりたかったものを直視できない。存在自体が、自分のことを否定しているように思えちまうからだ。だから躍起になる。潰そうと、心をへし折ろうとする。叩きのめして、自分の下に付けようとする。
そんなことしたって嫉妬心まで支配できるわけじゃないのにね。
「どうあれ、悪い道に走ったことを擁護なんてできないさ」
「それは、そうかもしれません……」
ダイアンは俯き、自分の太腿に視線を落とした。
おっと、またしても話が変な方向に行っちまったね。
「ところで、どうしてロクデナシのフランクなんかに金を借りたのさ?」
「ええと、それは……他に貸してくれる人がいなかったのと、まさかあんなに利子が高いとは思ってなくて」
おやおや、初めての借金で勝手がわかってなかったってことかい。そのせいでこんなところにいるってなると、世間知らずってのは余程の大罪なんだねえ……。
このとき、部屋の外でどすんと大きな音がした。
別の客で、マークじゃない。けど、ダイアンの身体に震えが走る。
「……ひ」
「大丈夫だから」
ダイアンの背に腕を回して、大事な妹を守るように抱きしめる。
『ダイアンの身体は、きれいだったか』
ふと、マークが言った言葉が思い浮かんだ。
傷ひとつない身体の乙女としか遊びたくない。そんな傲慢を言った風にも取れるけれど、どうもあのときのニュアンスは違っていたような気がする。
身体検査なら最初にやった。ダイアンの身体には目立った外傷もなく、キレイなものだった。でなければおかみさんは売値を釣り上げないし、手厚く面倒を見たりもしないだろう。こっちだって慈善事業でやってんじゃない。
職業柄、よく冒険者の相手をする。彼らはみな、生活のために生き死にをかける。その身体からは常に死の匂いがしていて、だから身体を差し出す以外に食べる手段を持たないアタシにだってわかる。これは大変な仕事だって。
逆の立場なら、と考えてもみた。もしアタシが冒険者なら。今日の食い扶持のために、明日の望みのために、自分の命を晒せるだろうか。
無理だと思った。生きるか死ぬかの瀬戸際に立っている自分を想像するだけで、足が竦んで動けなくなっちまう。生死が交錯するような場所に立つくらいなら、まだしもここで身体を売ってる方がマシさ。病気に罹ったり、変なお客に当たったりしない限り、死の心配だけはないからね。
もちろん、アタシの仕事だって大変さ。
けどダイアンは、その大変な仕事を2つも渡ってきている。
この娘には、しあわせになって欲しいんだ。
ダイアンの、か細く痛ましい声を聞いた。
「……アリソンさん、私、こわいです」
「安心おしよ。マークはフツーの男さ。アンタにひどいことなんてしないよ」
肩に触れて身を離すと、ダイアンはぽかんと不思議そうな顔をした。
「なんで、そんなこと知ってるんですか?」
「……あー」
アタシとしたことが、うっかり口を滑らせて藪蛇っちまったねえ……。
どう言い訳したもんかと悩んだタイミングで、ノックの音が響いた。
「ダイアン、いるのか?」
「は、はいっ!!」
反射で答えたダイアンの声が裏返る。
「マークかい? 準備なら整ってるから入んな」
カチャリとドアノブを捻る音がして、マークが姿を見せる。
その姿に、思わずアタシは眼を剥いた。
「ちょいとお待ちよ、あんたその恰好……」
ベッドの淵から立ち上がり、マークの野郎を睨みつける。
「どういうことだい、話が違う!!」
「あ、アリソンさん?」
困惑するダイアンを置いて、アタシは肩を怒らせてマークの元へ歩いた。
そしてヤツの胸倉を掴み上げる。
「なんで服を着たままなんだよ! 言っただろ! 今日上手くやれなかったら、この子はひどい目に遭わされるって!!」
逆の拳を固めて、殴りかかる寸前で自制を保つ。
そんなアタシの視線を受けて、マークが淡々と答えた。
「……わかってるさ。だからここにきた」
「だったら!!」
「離してくれるか。ダイアンと少し、話がしたい」
赤熱する感情を、その一言が冷静にした。そうだ。ここにはダイアンだっている。こいつは、こんなんでもダイアンの思い人なのだ。
「……く」
歯噛みして引き下がると、マークが無表情で襟元を直す。
両拳を固めて震えるアタシを素通りして、ダイアンへと歩んだ。
「ダイアン」
「は、はい」
「これを」
小脇に抱えていたものを、マークが差し出す。
ダイアンは受け取ると、はっと眼を見開いて正面のマークを見上げた。
「これ、私がフランクさんに取り上げられた本です。どうしてマークさんが……」
「フランクなら、もういないよ」
聞き捨てならない一言に、アタシはマークの正面に回り込んだ。
「どういうことだい、あのロクデナシがもういないってのは?」
マークはアタシとダイアンを交互に見て、両方に向けて説明を始める。
「ダイアンが娼館に落ちた日、フランクは新人冒険者狩りをしようとしていた。相手は東から渡来してきた剣士で、ケンノスケ・ミサキと言った。俺はその日、どうしても気分が乗らなくて遅れて加勢にいったんだが、そこで信じられないものを見たんだ」
興味津々とばかりにアタシとダイアンが顔を寄せると、マークは淡々と事実を報告する。
「仕込み役のサイモンも含めて、フランクがやられてた。集合場所のすぐ傍にゴミ箱があるんだが、どうやっても人ひとり入れきれないそこに、2人して無理矢理詰め込まれてあった。それに貼られていたのが、これだ」
汚れた紙切れを、マークが差し出した。
アタシは字が読めない。ダイアンにアイコンタクトを飛ばすと、おずおずと読み上げてくれる。
「えっと……『クズはクズ籠に』ですか」
「信じられない。本当に新人があのフランクをやっつけたってのかい?」
横暴な冒険者がその横暴さを咎められないのは、実力があるからだ。ロクデナシのフランクが無法者を張っていられるのは、この街の冒険者ギルドで最強に近い実力を持っているからに他ならない。
「俺も信じられなかった。だからこう思うことにした。この世界には天賦の才を持った人間もいる。そういった連中には、凡人がいくら努力したところで敵わないもんなんだって」
冒険者の営みは専門外だし、興味は湧かない。肝心なのは、どうしてフランクがいなくなったのか、どうしてもういないと断言できるのかってところだ。
「やっこさん、どっかに潜伏してるだけかもよ?」
「その可能性はあった。翌日に出向くと、ゴミ箱は空になってたからな」
それ見たことか。
きっとロクデナシのフランクは、復讐を考えてんだよ。
「俺は、あいつの故郷にいった」
「……え?」
思いもかけない一言に、一瞬戸惑った。
故郷? なんでマークがわざわざそんなところに。
「フランクは貴族だ。正確には、その継承権がある」
「あの品のないロクデナシが貴族だってぇっ!?」
さすがのアタシも、叫んじゃうほど驚いたね。
そりゃそうもなるよな、みたいな顔してマークは続けたさ。
「よく聞く話だよ。家臣がそれぞれ別の世継ぎ候補に肩入れして、次期後継者として担ぎ上げる。そのせいで、フランクの家はムチャクチャだったらしい。家督争いが激化して、嫌になって実家を飛び出したんだ」
マークが言うには、フランクの帰還は領民の噂で知れたそうだ。放蕩息子をやってた領主の倅が帰ってきて、にわかに領主の座を継ぎたいと言い出したと。
「そんな急に心変わりなんざするもんかい」
「これは想像だが……怖かったんじゃないのか」
怖かった?
「俺自身の経験からものを言わせてもらうと、痛みで屈服させられたヤツは、またその痛みが与えられることを堪らなく怖がるようになる。フランクはどうしても、ケンノスケ・ミサキに太刀打ちできるイメージが湧かなかったんだろう」
なんてこった。
それほどまでに大きな実力差を見せつけられたってことかい。
ともあれ、これでフランクがこの街からいなくなった経緯はわかった。
残る問題はひとつ。マークの野郎が服を着てここに現れたってことだ。
「……服を脱ぎな、マーク」
厳しい口調で言うと、マークはこの期に及んで首を振ってくる。
「その必要はないよ」
「あんたになくても、アタシとこの子にはあるんだよ!!」
噛みつくように放言して、さらに言った。
「あんときのあんたの質問に答えてやるよ! この子の身体はとてもキレイさ! 本当に冒険者やってたのか疑わしくなるくらいね! あんたが傷の有無で女を選り好むクズ男だったとしても、なんの問題だってありゃしないだろ!!」
ここまで言っても、マークは自らの服に手をかけようともしない。
「そうか。なら、なおさら問題はないな」
「最後通牒だよマーク。脱がないなら、ここを出てきな!」
当人にその気がないなら、今からでも新しい男を探す他ない。
焦りが言わせた一言に、マークは懐から紙切れを取り出した。
「これを……ああ、文字が読めないのか」
「あんた、アタシのこと煽ってんのかい!!」
「違いますっ!!」
その声は、アタシから見て後方から飛んでくる。
驚きの表情のダイアンが、胸元で手を結んでいた。
「……ダイアン?」
「それ、私の身請け証明書です。支配人の印も捺してある」
「え?」
眼を凝らすと、たしかに書面の右下におかみさんの判子の痕があった。
「どういうこったい……まさか、あんたの身が捕まらなかったのって」
こくん、とマークはここに来て初めて肯定の意を示した。
「方々に金の無心に回ってた」
「その金って、まさか……!?」
悪党ってのは悪行を以って金を工面する。
マークは静かに首を振ることで、それを否定した。
「出所に問題のある金じゃない。信用のある筋に借金して……いや、カッコつけて話すのはよそう。農場経営で成功した叔父さんと、奉公先の商家で世継ぎに上りつめた兄貴の元に赴いて頭を下げて、金を借りたんだ。俺自身の家財道具も、埃を被ってた商売道具一式だって処分した。それでも、どうしてもあと少しってところで金が足りなかったんだ」
ふっと相好を崩して、マークがアタシを見る。
……ああ、そういう魂胆だったのかい。
答え合わせが果たされて、アタシもまたニッと口元に笑みを湛えた。
「それで吹っかけるような真似をしたってことかい」
「あのときは悪かった、アリソン」
マークが深々と頭を下げる。
「理由が知れれば、謝られる覚えはないね。それより……それならそうと、なんでアタシに言ってくれなかったんだい」
「逆に質問するが、俺が言って信じたか?」
そいつは快刀乱麻な一言だったね。
アタシが肩を竦めて降参を表明すると、マークは話に戻った。
「それに、アリソンの狙いはダイアンを独り立ちさせることにあると思った。俺のやろうとしてることは、店の利益に反することかもしれない」
なるほどね。
その言い分は理に適ってる。
普通に考えて、後輩娼婦を指導中の先輩娼婦が、第三者に後輩娼婦を持っていかれていい顔をするはずがない。
「なあマーク……」
「ダメです」
先の展望を尋ねようとした矢先、ダイアンの横槍を受ける。
マークとともに見ると、ダイアンはつらそうな顔をしている。
思い切ったように、こう言った。
「アリソンさん、お願いです。別のお客さんを連れてきてください。私、ちゃんとお相手してみせますから」
ここから抜け出すチャンスを捨てようとしている。
その理由は、なんとなくわかる。
けど……ここにきてそれはないんじゃないか。
「素直にマークの心意気を受ける気はないってことかい?」
「元はと言えば私の借金です。マークさんに迷惑をかけるわけにはいきません」
「俺は迷惑だなんて思ってない」
「それでも、です」
キッと、強い目つきでダイアンがマークに向き合った。
「私の身から出た錆なら、私が落とさないといけないって思うから」
強い眼だった。
この娘が、まさかこんな眼をするだなんてね。
言ってることだって、正論だ。ダイアンの借金は、当人の夢のために生まれたもの。経緯がどうあれ、マークの野郎が返すもんじゃない。
「……ああ言ってるけど、どうすんだい?」
2人に増えた強情っぱりの片割れに、そう問うてみる。
一歩、二歩、ダイアンとの距離を詰めて口を開く。
「これは俺のためだ」
「そ、そんな言い方したって!!」
ダメさ。
首を縦に振らせるための方便だと思われてる。
それが方便なんかじゃないと知れたのは、マークの次の言葉のせいだ。
「あの日、君が娼館落ちした日、俺は君を見捨てた」
「……え?」
言葉を失くすダイアンに、マークは。
「止められたはずだったんだ、俺は。フランクに会って企みを聞かされていた。結果はともかく、力尽くで邪魔をすることならできた。なのにしなかった。あいつのことが怖かったからだ。堪らなく怖かったからだ……」
いつしかマークの全身は震えている。
握り込む、両の拳の震えも止まることはない。
「もしこのまま君を見捨てたら、俺はフランクと同じになる。そうなったらきっと元に戻れない。だからこれは俺のためなんだ。俺がこれ以上堕ちないために、どうしてもここから君のことを引き上げないといけないんだ」
マークは言った。その言葉に嘘はないように思えた。
だからこそ、今のアタシは邪魔者だと思った。静かに、ダイアンを見る。
「マークさん……」
「それにここは、君の居場所じゃない。もうわかっているはずだ」
なるほどね。
アタシはマークの言わんとすることを理解した。
なら、ちょっくら要らぬ世話を焼いてみるとするかい。
「……マークはさ、あんたのことを買ってんだよ」
「どういう意味ですか?」
「あんたの天職はここじゃない」
そう言って、マークにウインクを飛ばす。
マークは頭を掻いて、アタシの言葉と連携した。
「ダイアン、君は新人冒険者の頃から、大きな傷を負っていないよな」
「そ、それは私が後衛だからで……」
そこでマークは首を振った。
「前衛や後衛は関係ないよ。傷を負うことは、この稼業に身を捧げた連中の宿命みたいなものだ。デビューからの3年間、ほぼ無傷で仕事を続けるだなんて芸当、君以外の誰にも見せてもらったことはない」
マークの言うことは、たぶん本当だ。
冒険者の傷は、勲章のようなもの。長く続けるに連れ、その階梯を登るに連れ、段々と多く、深くなっていくもんさ。それがダイアンにはない。3年という、冒険者として短くない期間を過ごしながら、キレイな肌を維持している。
「私、そんなんじゃ……」
反射で否定しかけるところを、マークが先んじた。
「冒険者パーティ、【東風】の連中にも話を聞いてる。戦闘における君の立ち回りは抜きんでていた。あいつはEランクに収まる器じゃないって言ってたよ」
マークの言によれば、元パーティメンバーの面々は、自分たちの実力がダイアンに見合わないと知って、いずれパーティから抜けさせる算段だったそうだ。
「そんな……私、そんな実力なんて持ってません」
「自己評価の低さは、正しい認識を包み隠すよ」
マークは片膝を立ててしゃがんで、ダイアンの眼を真っ直ぐに見た。
「冒険者に、戻ってくれないか」
その瞳は、きっといつか、フランクが内心で恐れたものだ。
「俺に金を返すなら、長期的に見て娼婦よりそっちの方が儲かる。そうしてくれれば俺も助かるし、ダイアンだって変な男を相手せずに済む。これは両方ともが得する選択なんだ。君に選択肢を、間違ってほしくない」
……勝負あったね。
涙に濡れた顔で、ダイアンが何度も頷きを返す。
それを見て、マークが立ち上がりアタシの方を見た。
アタシは拍手でもって、やっこさんの手腕に応える。
「強情っぱりはアンタの勝ちだったようだね、マーク」
「アリソンもありがとう。ダイアンのことを守ってくれて」
「全然。アタシゃ先輩風吹かしてただけだよ。それより……」
とそこで、アタシはマークの視線を自身の眼の動きで誘導した。
「その恰好なんだが、カタギのお嬢さんにさせとくには、ちょいと刺激的過ぎるとアタシは思うんだがね?」
ダイアンの姿を眼に入れたマークが、大袈裟に狼狽えた。
慌てて身体ごと反対方向に回って、叫ぶように言う。
「あ、アリソン! なにか上から羽織るものを貸してやってくれ!」
「そうは言ってもここは脱ぐ部屋だからねぇ……てか、なんだいその反応」
さっきまで向き合ってカッコイイこと言ってた癖にさ。
「い、今気づいたんだよっ!!」
おやまあ。
なんやかんやで、やっこさんもいっぱいいっぱいだったってことかい。
このアタシが、まさかマークの野郎をかわいく思う日がくるとは思わなかったよ。
「わ、私が出て行きますから!!」
今度はダイアンが叫んで、壁伝いに移動しようとするものの。
「外には他の客がいる。今出たら見られちまうよ」
「う……で、でもですね……」
「アタシならタダで眼福くれてやるサービスなんてしてやんないけどねえ?」
あまりの恥ずかしさに、壁に背を沿わせたまま動けなくなるダイアン。
さて、こうして2人をからかって遊んでるのも楽しけれど、アタシの頭の中には、別の考えが浮かび始めてる。
いつかダイアンが語ってくれた、公爵令嬢様のお話。婚約破棄の運命を受け入れ、娼館を経営して、大公令息様に見染められるロマンチックな物語。
それは傷のひとつもない完璧な恋愛話だったけれども、アタシにとっちゃ少々鼻につくものだった。
それよりも、だ。
無様で滑稽で、だけど愉快な今の2人のことを見ている方が、ずっと快い。
ドジ踏んで娼館に落ちかけた女と、へたれで頼りにならない王子様。傷も汚れもあるけれど、現実なんざ得てしてそういうもんさ。肩肘張らず、力を抜いて、ゆっくりとマイペースで、2人にはこれからを考えていってもらいたいね。
なにせ神様は、転生小説みたいに0からの再スタートなんて許しちゃくれない。
アタシたちは、どんなに辛くったって、今日の続きをやるしかないんだから。
「タオルだよ」
据え付けの戸棚を開けて、あえて2人の間を狙って投げてやる。
宙を舞うタオルはさながら、やるつもりもないアタシの結婚式の、ブーケのようにも思えたね。
◇◇◇
「精が出るな、アリソン」
背後からの声を受けて、ハッと顔を上げる。
振り返るとアタシの良い人が、旦那になった男がいた。
表の業務を終えて、アタシを迎えにきたのだ。
「もうそんな時間かい」
「ああ、そろそろ休もう」
机から身を離して、くーっと伸びをする。
娼館を出て、随分経つ。魔道具店の二代目と無事に結婚したアタシは、次期おかみとしてやってけるよう、帳簿関連の勉強に血道を上げていた。
「こんな遅くまで根を詰めなくたって」
「そうは言ってもさ。早く一人前になるためには、努力が必要だろ?」
「表に出て、店番してくれるだけで十分なんだがな……」
呆れたように言って、アタシの傍に近寄ってくる。
旦那は元娼婦のアタシとの結婚に、なんの条件も制約も設けなかった。
そんな良い男に、なにも応えないほど薄情な女じゃないつもりだ。
「昔からのポリシーなんだ。与えられた仕事は、ちゃんとがんばるっての」
「僕は別に、君にそんな仕事まで任せてはいないよ」
「じゃあ任せておくれ。次期おかみとして、ちゃーんとやってみせるから」
いつかぶりにウインクを飛ばすと、旦那は苦笑して。
「敵わないな君には。ただでさえ、僕に大きな助けをくれたっていうのに」
「なにも助けてなんてないさ。自分で自分を買い戻しただけだろ」
「持参金のようなものだ。本当は、僕が支払うはずのお金だったのに……」
その物言い、なんだかムカつくねえ……。
ちょいちょい、と人差し指を使って招き寄せると、アタシは旦那の額にデコピンをお見舞いした。
「あだっ!? アリソン、なにをするんだ?」
「あんたが生意気な口を利くのが悪いよ。元職場でねんごろになったとき、枕元で囁いてくれた言葉、まさか忘れちゃいないだろうね?」
赤くなった額を指先で押さえた旦那が、かしこまった表情になる。
「……この店を、街一番の魔道具店にしてみせる」
「あんたの口説き文句だったけど、まだ実現してない。だったら、アタシが協力しちゃいけない道理なんてないだろ」
してやられた、みたいな顔をしてからぷっと吹きだす。
「諺の通りだな。年上女房は金のサンダルを履いてでも探せ、だっけか」
「ちょい待ち、タメだっつったろ」
「娼館ではね。僕は店の宣伝文句を真に受けるほど子どもじゃない」
胸を張って、なにを得意ぶってるんだか。
アタシと結婚しときながら、また元職場にまで出向いたら承知しないよ。
「おっかない顔しないでくれ。君という者がありながら浮気なんてしない」
「男はみんな、最初はそう言うねえ……」
「僕は違う。君のことを愛してる」
まあ、その言葉が聞けただけでよしとしようか。
持ち直した機嫌と一緒に、アタシは椅子から立ち上がった。
店に併設している家へと戻りながら、物思いに耽る。
思い浮かぶのは、ダイアンとマークのことだ。あれから2人は冒険者稼業に戻り、今は同じパーティのメンバーとして仕事に精を出している。
マークの見立て通り、ダイアンは優れた冒険者の資質を持っていたらしい。なんでもランクアップも間近で、借金の返済も順調だそうだ。
もっとも2人の仲はというと、こっちは牛歩もいいところ。あれからなんの進展も見ていない。ダイアンは見たまま奥手だし、マークの野郎は朴念仁。前途は多難と言ったところだろうかねえ。
「……まあ、借金を返し終えたタイミングが、ひとつの転機になるかねえ」
身をきれいにして、寝間着に着替える。
寝床に向かいながら誰にともなく独りごちた。
扉を開けると、旦那はまだ寝ていなかった。
ベッドの傍にある椅子に腰かけ、蝋燭で手元を照らしている。
その手には――一冊の本があった。
「驚いたな。君は文字を読めなかったはずだが」
おやおや、驚かせようと黙ってたのにバレちゃったのかい。
ともあれ道半ばだ。アタシは首を振って応えた。
「勉強中さ。表記本のリードがないと、まだ読めやしないよ」
「これ、町娘の間で話題になってるやつじゃないのか」
「おかしかないだろ? 今やアタシだって表のお嬢さんだ」
日の光の下を、大手を振って歩ける身分。
両手を腰に、むふーっと胸を張ってやったね。
けれど旦那は、アタシが思っている以上にアタシに詳しかったらしい。
「少し内容を読ませてもらったが、君の趣味じゃないだろ」
「あー、それはそうかもしれないけどねえ……」
頬を掻いて、さてと考え込む。
「娼館にいた頃、最後に面倒を見た妹分がいてね。その子が、その手の本の書き手を目指しているのさ」
「夢、か」
「娼婦が見ちゃダメな謂れはないだろ?」
どんな場所にいたって、人は夢を見るもんさ。
娼婦だからって夢が叶わないことはない。現に、アタシの夢はこうして叶っちまってるわけだしね。まあ、ダイアンの場合はちゃんとした娼婦をやる前に足抜けしてんだけどさ。
「未来の大作家様の書く本を、いの一番に読んでやりたいのさ。本屋に並んで、発売日に買って、そしたらアタシが一番の大読者様だろ。元姉貴分として、内容についての感想を聞かせてやりたくてね」
旦那は驚いたように眼を見開くと、戻してから言った。
「僕が教えようか?」
「え……いいのかい」
「もちろんだ。教えた経験はないけれど、君の勤勉さならきっとすぐに娯楽本の類くらい読めるようになる」
そりゃまた、随分と過大評価じゃないか。
愛する男から太鼓判をいただいちまったねえ。
「やさしく手ほどきしてくれよ。初めてのとき、アタシがしてやったみたいに」
「そ、それは言わないで」
からかうと、露骨に困った顔をする。
そんな反応もかわいくて、アタシはこの人のことを好きになったんだ。
夢はいつか必ず叶う、なんて保証はない。この人が見つけてくれなかったら、アタシだって今頃どうなっていたかわからない。けれど夢があるなら、それに向かって進み続けなければ、叶うことは絶対にあり得ない。
叶っちまった夢と、途上にある夢。
娼婦をやめて、この人と一緒になって。
アタシの次に見る夢はこの魔道具店をより大きく、この街一番にすることさ。今や旦那だけじゃなく、それはアタシにとっての夢でもあるんだ。ダイアンだけじゃない。マークだって、きっと夢を見ることはあるだろうさ。更生して、ダイアンと一緒にパーティを組むようになって、やっこさんもとうとう前に進みだした。
日々自分の夢を追いながら、傍らにある他の夢の状況も見る。
今のこの生活を、アタシは結構気に入っているんだ。
「それじゃあ、そろそろ眠ろうか」
「ああ。明日も元気でやろうね」
蝋燭の火を吹き消して、訪れた暗闇の中で願う。
明日も小さな歩みが、大きなしあわせに繋がってゆきますように――。
ここまでお読みいただきありがとうございました
気づけば娼館の設定がなんだか遊郭みたいになっちゃいましたね
感想等ありましたら、教えていただけますと今後の励みになります