【九】 水戸~那珂湊
「ここで、いいよ」
玲華が立ち止まって格之進を振り返る。
低い雑草が生い茂った築堤を越え、目の前に白い砂浜が広がった。
その向こうには青い、青い海。
少し先に見える砂丘の向こう側に石積みの港がある。二人が立っている場所から、陽光を照り返す船の帆柱が見えていた。
水戸藩、那珂湊。廻船の寄港地である。
今日も晴天だ。
空の青と海の青、二つの青が水平線で溶けて一つになる。
沖合を飛ぶ鴎が三羽、船の周囲に近づいて旋回している。
海からの風はやや冷たく、潮の香を乗せて町側へ吹きわたっていく。
浜を覆う浜昼顔の群落が風に揺れる。
格之進の着流しの裾もわずかにはためいた。
玲華の顔を見つめた。
「ここからまた、故郷への長い旅、か」
ぼそりと呟く。玲華が頷く。
「――遠いね。ずっと、ずっと遠い」
二人は船の向こうの海を見つめた。
「この国に留まる気は――ないのか? 老師のように、ここにいることもできるのだぞ」
答えが半ば判っていながらも、格之進は尋ねた。
国へ帰すことの不安を口にしていた舜水の顔を思い出す。
玲華の眼と、口元がふっと緩んだ。
「ありがと……老格。でも、あっちでは――まだ、戦ってる人たち、いる。老師が元気なこと、応大人以外の人、伝えたことない。わたし、伝える。たぶん、戦ってる人たち、力になる。それに、仇討ったことも伝えないと、ね」
微笑んだ。
少し間があった。
「故郷ではまだ戦なのだろう? 応大人はお前に生きていてほしかったから、この国へよこしたのだと思うぞ。――荷物だけなら送れば済むことだ」
玲華が少し下を向いた。
「そうかもしれない……。でも、わたしには、この国、居場所、ないね」
「老師の元にいられないのか?」
小さく首を振った。
「そうじゃなくて、気持ちの、居場所。故郷には、それがあるから」
格之進は黙った。
二三歩、玲華が歩いて振り返り、格之進の顔をじっと見つめた。
「もし……老格がお嫁さんにしてくれるなら――考えてもいいかな」
口元は微笑っていたが、眼は笑っていない。
格之進の顔が固まった。
海からの風が吹きわたる。
二人の間になにかが交錯した。
格之進がわずかに目を伏せる。
口を開く前に、玲華が小さく破顔した。
「うそ。――できないの、知ってるよ。老格は、サムライサン。わたし、よその国の人」
少し寂しげに笑った。
なぜ、目を上げることができないのだ。
少女の気持ちひとつ、応えることもできないのか。
お前はその程度の男なのか。
自分が、自身に問う。
「すまん……。根が不器用なもんでな。――なんて言えばいいのかわからんのだ」
我ながら情けない声だった。
自分に小さく失望した。
玲華が微笑む。
「老格は、不器用、違うよ。老格みたいな人、武侠、言うよ。嘘つかない。真面目で、誠実な人。そして――戦う侠」
格之進が自嘲するように笑った。
「そんなに大層な男じゃない……。融通が利かないだけだ」
いいの、と玲華が言った。
思わず格之進が顔を上げる。
「それでも。そんな、老格が――」
何かを続けそうになって、ふと右手で口を押えた。
目が潤む。
黙ったまま、格之進に近寄る。
目を伏せたまま、格之進の胸にことんと首を預けた。
動くことができない。
黙って抱きしめるだけでいいのだ。
それだけが、なぜ、できない。
「老格、謝謝了。そして――再見」
ぽつり、と言った。微かな、涙声。
玲華は格之進にくるりと背を向けた。
刹那、視線が交差した。
潤んだ瞳の残像が、格之進の目の奥に焼き付いた。
小走りに駆け出す。
足元で小さく砂が舞い、風が吹き払っていく。
小さな背中が、砂丘の上まで達すると、少女が振り返って手を振った。
格之進も手を上げて応えた。
再び駆け出した。
もう、振り向かない。
戦いの地へ帰って行く少女に、自分はなにをしてやれたというのだろう。
滅びゆく故郷へあえて戻って行く者に、どんな言葉をかけてやれるというのだろう。
その胸に、千々に乱れる想いはいかばかりか苦しかろう。
格之進は思った。
たとえその進んでいく先に、未来が無かろうとも、
明日という日が無かろうとも、
進んで行かねばならぬ道、というものが、ひとにはある。
少女の背中は、そう語っていた。
自分たちも、いつかは同じ道を行かねばならぬ日がくるのだ。
そう思った。
少女が消えて行った砂丘の向こう側を見つめながら、格之進はいつまでも立ち尽くしていた。
※
永暦十五年、明の魯王と鄭成功が病死し、南明の滅亡は決定的となる。
延宝元年からの三藩の乱において、鄭氏の旧勢力も三藩の中心・呉三桂に味方し、江南は呉三桂が抑えたが、清軍が次第に優勢となり、同九年に清は三藩を平定した。
その後も遺族らによって抵抗は続けられたが、天和三年、ついに鄭氏政権は清に降伏する。
ここにおいて、明再興の道は閉ざされた。
朱舜水はその後もついに日本を離れることなく、江戸駒込の水戸藩中屋敷に居住、夢叶うことのないまま天和二年、同地にて世を去った。
駒込には現在も没地記念の碑が残されている。
林玲華がいかなる生涯を送ったかは、定かでない。
(了)