【八】 水戸
玲華がわあ、と声を出した。
口がそのままぽかんと開く。
九尺もの高さがある格子天井を見上げていた。
広さも三間はあろうか。聚楽の壁は古く、時代を感じさせる貫禄と落ち着きがあり、一尺はありそうな太い柱は茶褐色で、過ぎてきた永い歳月を思わせた。
玲華が居心地悪そうに左右を見渡す。眉根を寄せた。
「そんなに警戒しなくてもいい。――取って食われやせんよ」
格之進がくすりと笑った。
荒川沖からさらに二日かけて三人はようやく水戸にたどり着いたのだった。
玄関から奥に通じる幅一間もの廊下の奥から人影が近づいてきた。
「おお、格さん、八兵衛、ご苦労じゃったな。――お嬢さんもようこそ来られたの」
光圀が現れて破顔した。
格之進が只今戻りました、と頭を下げる。玲華がきょとんとして光圀を見つめた。
え? という顔。
「こら、徳川光圀公だぞ。控えろ」格之進が横を向いてたしなめる。
「ミツクニコウ? ――誰?」
玲華がしれっと尋ねる。思わず格之進がずっこけると光圀がかっかっか、と笑った。
「誰でもいいの! 偉い人!」八兵衛がこそっと耳打ちする。
「あ――り、林玲華、です」
慌てて玲華が腕を組んで頭を下げた。
「あー良い良い、気にせんで。外つ国の人にとっては所詮ただの老いぼれにしか見えんじゃろ」後ろを向いた。「こちらですよ、朱先生」
光圀の脇から臙脂色の着物を着た長い白髪の老人が現れた。
白い泥鰌髭が顎までかかり、白い総髪は後ろで束ねられていた。
顔じゅうに深い皺が刻まれ、目も口も皺と同様に刻み込まれたような苦悩の歴史を思わせた。
そんな皺に埋もれた両目がかっと見開かれた。
「これは先生、ご無沙汰いたしております」
格之進が頭を下げたが老人の目はそれを見ていない。玲華が深々と頭を下げた。
「初めまして老師。わたしは――」
「――玲華? まさか……玲華かの?」
しわがれた声が大きくなった。
玲華がは? と頭を上げる。
舜水が玄関で膝を折った。玲華の目線まで下がる。
「おお、おお、確かに玲華じゃ……。こんなに大きゅうなって、見違えたぞ。――達者であったか」
「先生――玲華をご存じで?」格之進が舜水の顔を見た。
うむうむ、と頷く。その顔がまるで自身の孫を見るように崩れた。
「覚えておらんじゃろう、無理はない。当時まだお前はほんの小さな子供じゃったからの」
過ぐる昔、明に戻った際、林元峰の元を訪れた時幼い玲華に会っていた、という事だった。
そうでしたか、と答えた玲華だったが、ふと目を伏せた。
「でも……父はもう――」
舜水も斜め下を向いた。
「宗白から前に報せをもろうた……。この齢になってあんなに泣くことになろうとは思わなんだ……」
悔し気に顔を歪める。玲華が舜水の顔を見た。
「父と兄を殺した奴ら、老師を殺すためにわたしの後をつけてこの国まできました。でも、老格たちのおかげで討ち果たすことできました」
いきさつを掻い摘んで話した。
「苦労をかけたの……。藕粉は頼んだものの、まさか玲華が届けてくれるとは思ってもみなんだ」
舜水が玲華の肩に手をかけた。
「ご老公に供せんと頼んだものだが、今は――その気力もなく、思いが新たになる度に辛くなるばかりでの……」
玲華が顔を起こす。
「わたし、料理、作ります。――そのために来たです」
舜水の顔がほころんだ。
切ない笑みだった。
※
翌日、台所はちょっとした騒ぎになっていた。
大きな竈では一抱えもある大釜が二つ、ぐらぐらと沸いて湯気を噴き出し、薪を抱えた男が竈へ向かう。
別の男が炉端で何かを焼いている。煮える椎茸の香りが漂う。
格之進が覗くと、玲華は口を引き結んで大きな台の上に甕から粉を開けている最中だった。
腕を捲って紐で縛り、頭に布巾を被って浅黄色の前掛けを締めたその姿はいっぱしの料理人のそれだった。
台の上に山のように盛られた粉をいっぱいに広げ、明から運んできた箱の中身と思われる素焼きの甕の蓋を開けて小脇に抱え、しゃもじで粉を落としていく。
粉を両手で丁寧に混ぜるとそこに塩を混ぜ、富士山のような形に整え、中央部で掌を回しながら窪みを作っていった。
その表情は真剣そのものだが、どこかに明るさが漂っていた。思わず格之進も笑顔になる。
「どうだ、調子は」
玲華が横を見た。
「うん、これから麺打つ。――老格、見ててもいいよ」
微笑んだ。格之進が頷く。大釜から吹きこぼれた湯が竈で音を立てて蒸発すると、独特の匂いが漂った。
「釜で何を煮てるんだ?」
「豚の骨と鳥の骨。汁の素になるね。豚、長崎から持てこさせた、聞いたね」
ほう、と感心する。
光圀の食道楽はつとに有名だ。
牛肉、豚肉、羊肉から牛乳に至るまで、珍しい食材があると聞けば、手に入れるための手間は惜しまなかったという。
粉の山の窪みに柄杓で水を入れていく。目分量だが、玲華には加減がわかるようだった。
水の周囲からゆっくりと円を描くように粉と混ぜていく。
始めは粉っぽいぱらぱらした塊だったものが、捏ね上げられていくうちにだんだんと滑らかな大きい塊になっていく。
枕ほどもあるそれを、よっ、と持ち上げて台に叩きつけた。
二度、三度と繰り返してから、上から全体重をかけて捏ねていく。なかなかの力仕事だ。
「うまいもんだな」格之進が感心すると、玲華が少し自慢げな顔になる。
「麺打ち、男の人の方が向いてるね、力あるから。――よいしょっと」
再び台に塊を打ち付ける。
台所で料理を作る玲華の姿を想像した。
案外悪くないかな、と思った格之進だった。
※
座敷に座っていた光圀の前に、湯気の立つ丼の乗った膳が運ばれた。
思わず光圀が覗き込む。ほう、と声が漏れた。
黄金色の汁はうっすらと油膜を浮かべ、麺はやや白い小麦色、焼いた豚肉と煮込んだ椎茸が乗り、刻んだ分葱が散らしてある。
中央には三粒の赤い種が乗っていた。
膳には丼と箸のほかに、五つの小皿が添えられている。
「これは、何じゃな?」小皿を指さす。
「五辛、と申します」
舜水が答えた。玲華は舜水の後ろに控えている。格之進は光圀の脇にいた。
「韮、辣韭、葱、大蒜、生姜を細かく刻んだものです。お好みで混ぜてみられるがよろしいかと」
言われた光圀が興味深そうに小皿の中身をおのおの半分ほど丼に入れてみる。
麺と汁を箸で軽く混ぜ、丼を持ち上げてずずっ、と汁を一口啜った。
香辛料と出汁の馥郁とした香りが格之進の鼻にも届いた。生唾が出そうになる。八兵衛がいたらひと騒ぎだ。
「ほお……これは旨いのう」
しみじみと息を吐きだす。
麺を持ち上げ、ふうふうと息を吹きかけると一口、口にして啜りこんだ。また一口汁を含む。
「これは――なにやら温もってきますな」
舜水が頷く。
「薬膳料理、と申しましてな。儂らの言ういわゆる『食薬』は『五気』を基本としております」
指を立てた。
「熱、温、涼、寒、平。これらの加減によって、人の状態に合わせた料理を摂らせることで心気を整えるものでございます。
五辛は熱温性、藕粉は涼寒性でありますので、これを一つの料理で摂ることにより身気充実の効用があるのです。
さらにこれに中薬として平性の枸杞子を用いて五気を整えます」
なるほど、と光圀が頷く。
「食にも『五行』がおありか……。いや、なかなかに美味ですな」
光圀が次々と箸を進める。
やがて汁を最後まで飲み干すと、丼を置いてほおっと大きな息をついた。
額にうっすらと汗が滲んでいる。
「や、実に美味。しかも温まる……。これはなにやら効きそうな感じがしますぞ」
感服したように言う。懐から取り出した手拭いで額を押さえた。
「――して、この料理、名はなんと?」
舜水が少し困ったような顔になる。
「さて、――特に名はございません。儂らはただ『麺』と呼ぶか、まあ『湯麺』とか……ですかな」
ふむ、と光圀が白い顎髭に手をやる。
「『麺』か……。それもちと味気ないのう。これだけの味の料理、なにか名が欲しいところじゃが」
「老格と老八が助けてくれたからできた麺。――だから、『老麺』でいいんじゃない、かな、です」
大人しく黙っていた玲華が口を開いた。
こら、玲華、と格之進がたしなめる。玲華がちろっと舌を出した。
よいよい、と光圀が頷いた。
「うむ、『らぁめん』か。――なかなかよいのではないか、のう格さん」
振られた格之進が少し慌てる。
なんと答えていいかわからない。
結局、はっ、と頭を下げただけだった。
光圀がはっはっはっは、と笑う。
玲華がおかしそうにくすくすと笑った。
※
皆如院日乗上人の日記によれば、晩年、光圀は舜水の伝授した麺料理を作り家臣に振舞ったという。
その麺料理については『うどんの如く』との表記がなされており、後に「後楽うどん」という名を冠したと伝えられる。
元となった料理の名称は明らかになっていない。