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【七】 隅田~取手~荒川沖


「大丈夫なのか? ――二三名供を付けたほうがいいと思うが。こっちは困らんぞ?」

 佐間之助が腕を組んで、草鞋の紐を締める格之進を見遣った。

「戦力を比較して考えればまあ、そう願いたいところなんだが」

 格之進が顔を上げた。


「他の三人も昨日の騒ぎには聞き耳を立てていただろうから大方成り行きは察している。仲間も戻ってこないしな。――だが奴らは俺が水戸の家中であることまでは知らない。俺たちが奴らを返り討ちにしても、明の小娘と町人風情にやられたということで終わりだ。しかしここで水戸藩が人を出せば話は違う。

 もし万が一、奴らのうちの一人でも本国に戻ったりしたら、今度は清国が水戸藩を敵と看做す可能性が出てくる。お上の方針にも角を立てることになってしまうから、藩の立場上それはまずかろう。

 ――あくまでも俺たちだけの間でけりを付けた形にしなければならん」


 うーむ、と言って佐間之助が黙ってから、ふ、と笑った。

「音に聞こえた頑固者、渥美格之進澹泊(たんぱく)がそうまで言うのでは仕方あるまいな。――だが気をつけろよ」


 ああ、と言って立ち上がった。





 取手宿に着いた頃にはもう陽が落ちかけていた。


 利根川を越えたところで玲華も八兵衛も肩で息をしている。

 いささか急ぎ旅になったので、慣れていない玲華には多少負担となったようだった。


 手前の青山宿でも良かったのだが、人通りの多さに紛れ込むためには取手宿まで足を延ばしておく必要があったためだ。

 

 当時の取手宿は単なる宿場町ではなく、利根川水運の物資集積地でもあり、旅人以外の人足、水運業者、問屋などが集まっており人の出入りが激しく、旅籠以外の集落も多かった。

 その喧騒を隠れ蓑にする必要があったのだ。



「ふああ、疲れたあ」

 旅籠に着いて部屋に入るや、荷物を置いた八兵衛が畳の上に大の字になって音を上げた。

 玲華もぺたりと座り込んで、ふうと息をついた。


 格之進は窓から外を覗く。

 日暮れの中を五台もの荷車が大荷物を載せてがらがらと音を立てて通りを抜けていくのに目をやると、障子をゆっくりと閉め、畳に腰を下ろした。


「ご苦労だった、と言いたいところだが、くつろぐ前に打ち合わせだ」

 へ、と八兵衛の首が横を向く。


 格之進が分け荷を開けて街道図を取り出すと畳に広げた。

 玲華と八兵衛がにじりよって覗き込む。

 格之進が二人の顔を見渡した。


「敵は三人。とりあえず、こいつらを水戸へ入れるわけにはいかない。朱老師を守る。これが絶対条件だ」

 二人が頷く。

「戦力から考えるとこちらは不利だ。おそらく昨日の男の風体なりから察するに、連中は道中で旅人を襲って衣服と金、手形を奪って俺たちの追跡を続けているんだろう」

「じゃあ――襲われた旅の人は……」

 玲華が眉をひそめる。

 格之進が頷いた。

「もちろん、命はなかろうな」

「やることがいちいちひでえな……」八兵衛が顔をしかめた。


「だが慣れない国での長い道中でおそらく連中にもかなりの疲れがあるだろう。それにこちらには地の利がある。――これを生かして、水戸に入る前に奴らを迎え撃つ」

 なるほど、と八兵衛が得心した。

「あいつらは道知らないんですもんね。こちらは年中ご老公と付き合っての帰り道だ。どこになにがあるかまで全部知ってるわけでさあね」

 自慢げに玲華を見る。玲華がくすりと笑った。


 格之進が頷く。そこでだ、と切り出した。街道図を指で追う。


取手ここを発って藤代から若柴へは上り坂、若柴から牛久へは谷へ下ってまた登りだ。ここら辺りは脇道も人通りが多いから斬った張ったの立ち回りには向いていない」

「牛久沼もありますしね」

 八兵衛が図を見ながらふむふむと頷く。

「そこで牛久から荒川沖だ。多少の起伏はあるがここらはほぼ平坦地だ。逆に荒川沖を過ぎるとまた土浦、中貫あたりまで起伏が激しくなるし人通りも多くなる」

「霞ヶ浦がありますからねえ。するてえと……荒川沖? 午前中には通ることになりますね」

 そうだ、と言って図を指し示す。


「宿場から左へ入ると乙戸おっとの集落があって、その先は乙戸沼だ。ここで道が三つに分かれる。ここを覚えてるか八」

「ええと……確か前にご老公が菖蒲あやめを見ようとか言って寄り道したとこ、ですよね?」

 そうだ、と格之進が頷く。

「ここからの分かれ道がこう沼を回って、またこの道に合流している。ここらあたりになるとかなり人通りは減るはずだ。地場の連中は野良に出ているから、ほぼひと気はないだろう。――で、こちら側の道だが」

 と言って道の右側を指し示す。

「原野があって、この先は竹林だ。その手前側だが、今の季節、どうなっていると思う?」

 格之進が意味在りげに八兵衛を見る。八兵衛がしばし考え込んで、はっとした顔になった。

「あ! わかった! 蓮華畑! ――読めましたよ、格さん」


 格之進がにやりと笑う。玲華はやりとりの意味がわからずにきょとんとしていた。



「よし、――次は具体的な段取りだ」







 雲一つない晴天になっていた。


 牛久宿を越えたあたりから街道の人通りが減り始めた。

 道の両側に椎や山毛欅ぶなの林が続き、道に影を落としている。春の高い空で雲雀ひばりのかん高い啼き声が遠くに響いていた。


 小高い丘を越えるころ、やがて左手に荒川沖の一里塚が見えてくる。

 苔むしたそれに、一匹の紋白蝶が止まっていた。陽光に鮮やかな白い色が光る。

 玲華がふと微笑んだ。


 三人は無言で歩いていた。


 乙戸川を越え、荒川沖宿へ入る。

 人通りが多少多くなるが、今まで逗留した大きな宿場に比べると閑散としている印象がある。

 街並みを越え、茅葺屋根の商家を左に折れる。


 三町|(四百メートル弱)ほど歩くと田圃の先に集落が見えてきた。

 ひと気はない。


 周囲の田圃の中には点々と人影が見える。

 田起こしが始まっている季節だ。男も女も野良へ出ているに違いなかった。


 集落を抜ける。


 右手の田圃が切れ、原野が現れた。左手に分かれ道が見えてくる。

 道の分岐の中央に小さな鳥居がある。奥には神社への参道があるものと思われた。


 その手前に差し掛かったところで、格之進が目配せをする。

 二人が頷く、と同時に八兵衛が左側の道を走り出した。格之進が右の道へ走り出し、玲華が後に続いた。


 走りながら格之進がちらりと背後を見る。


 遥かな背後で二つの人影が走り出した。

 驚いたことに片方は僧侶の風体なりをしている。笠を片手で押さえ、片手に錫杖を持ったまま走っていた。もう一人は頭に手拭いを乗せた商人風だ。こちらは背負っていた荷物を放り出して走り出す。

 八兵衛を追っているであろうもう一人は見えなかった。


 道を逸れ、緩い斜面を一気に駆け下り、雑草の伸びかけた遥かな原野を走り抜ける。


 小川の向こう側に蓮華畑が見えてきた。

 まるで場違いな、華やいだ風景だ。その奥には竹林。高さ二十尺を越える細い先端があるか無きかの風にさやさやと揺れている。


 小川を飛び越える。花畑の脇へ向かう。

「花の中に入るな! 真っ直ぐ俺の後ろについてこい!」

 格之進が怒鳴った。玲華には聞こえ、後ろの男たちには聞こえない。

 玲華は素直に従った。格之進の真後ろについて走る。


 蓮華畑の外側を大きく回り込む。竹林との間に十畳間ほどの空間ができていた。

 格之進が彼方を見遣る。僧侶と商人が走ってくる。


 竹林に急ぎながらも注意深く踏み込む。

 脇差を抜き、竹を何本か掴んで握りの手ごろなものを選ぶと、根元から斜めに斬り、次いで反対側を斬る。

 六尺ほどの竹槍を二本作ると、一本を玲華に渡した。

 

「ここにいろ。向こうの道を見張ってくれ」鋭く言った。玲華が頷く。


 格之進は脇差のつばに嵌められた小柄を引き抜いて手の中に握ると、竹槍を持ったまま蓮華畑に向かって駆け出した。

 大きく三つに分かれた蓮華畑の間を細いあぜ道が二本、真っすぐに通っている。

 迷わずあぜ道に突進した。

 向こう側からは咲き乱れる花に遮られて格之進の足元は見えない。


 追手との距離がみるみる縮まった。


『一人は生かしておけ! 朱の居場所を吐かせてから殺せ!』

 僧侶が叫ぶ。商人が応、と吠えると真っすぐ花畑に突っ込んできた。


 大きく二歩進んだところでがくっ、と動きが止まる。


「!!」


 商人の顔に驚愕の表情が浮かんだ。

 僧侶が片足を踏み込んだところで急に止まる。


 見た目こそ花畑であるが、蓮華畑は実際は田圃である。根瘤に含まれる窒素を肥料にするために植えてあるだけだ。

 花の下はずぶずぶの泥濘ぬかるみなのだった。


 商人は思い切りそこへ踏み込んだ。

 姿勢を崩して上体がよろける。


 あぜ道を駆け寄った格之進の手から渾身の力を込めた小柄が放たれた。

 がっ、と音を立てて商人の眉間に小柄が突き立つ。


「が、はッ!」


 商人がのけ反って蓮華畑の中に大の字になって倒れこんだ。


ジン!」


 僧侶が叫びながら泥濘から片足を引き抜いた。

 向き直った笠の下の顔がぎりっと歯を食いしばる。右手に向かって走る。

 格之進がそれを見据えながらあぜ道を駆け戻った。


 玲華が見据える道の向こうから八兵衛が走ってくるのが見える。

 速い。玲華が目を見張った。


 逃げ足の速さも八兵衛の自慢のひとつだ。それを生かした格之進の作戦だった。


 八兵衛の後ろから少し離れて紺色の職人風の服を着た男が追ってくる。

 八兵衛は段取り通り、道を逸れて玲華たちのいる場所へ向かってくる。が、その先には蓮華畑を回り込もうとする僧侶が走っており、八兵衛が来る方向に向かっていた。

(――まずい!)

 玲華が走り出す。


 花畑を巻いたところで僧侶が走りながら錫杖を振り上げた。玲華が竹槍を棍の要領で振り回す。

「はッ!」

 右から左。僧侶の立てた錫杖に当たる。かあん、と澄んだ音が響く。

 僧侶が飛び下がった。

 竹槍を回転させながら左右に振り回す玲華の後ろを八兵衛が駆け抜けた。戻ってきた格之進とすれ違うと一目散に竹林の中へ駆け込んだ。


 職人が走ってきた勢いのまま跳ぶ。稲妻のような蹴りが格之進の顔面に向かった。

 右に避けた。

 降り立った職人が向き直る。素早く懐から九節鞭を取り出すと、真っすぐ格之進の顔に向けて放った。

 返した竹槍が飛んできた先端を弾いた。下段に構える。


 職人がびゅんびゅんと鞭を振り回す。上から下への正回転。肘にかけて体を反転してすぐに逆回転。

 速い。先端の軌跡しか見えない。

 格之進が竹槍を逆手に構えた。上から鞭。逆手で弾いて槍を突き出す。職人が左に躱して横から鞭。頭を下げて躱す。


 僧侶が錫杖をぶんぶんと振り回す。上から来る。玲華が右へ、槍で躱す。僧侶が突く。先端を弾いて逸らす。下から上。左へ躱して槍を突く。笠の縁に当たる。

 跳び下がって顎の紐を解き、笠を投げ捨てた。玲華が顔を見る。


 忘れもしない、闇の中で見据えた双眸そうぼうが脳裏に蘇った。

 

「――パイ」玲華が呻いた。


 職人の鞭が右から来る。槍を立てた。鞭が巻き付く。両手で槍を掴んで引き寄せ、格之進が蹴りを放つ。右へ躱す。鞭は離さない。上体が引き寄せられる。職人が鞭を両手で持って引く。

 引き合いになった。力が拮抗する。

 格之進が右に走る。職人が同じ方向に走る。向かう先は竹林だ。ひえっと叫んだ八兵衛が慌てて林の奥に入った。


 右、左、右。振り回すパイの錫杖を次々と玲華が跳ね返す。錫杖ははがねだ。竹槍の玲華が徐々に押されていく。上から来る。左へ。下から来る。右へ。

 白が錫杖を前に構え、体ごとぶつかってくる。正面に構えたが跳ね飛ばされる。槍をがっと地面に突き立てて堪えた。

 と、玲華が下を見る。土。――これだ!

 錫杖が足元へ。飛び上がりざま、槍を振る。白が頭を引いた、が槍の匙状の先端に着いた土が白の顔面にかかった。

「ぬ!」

 一瞬白が怯んで目を閉じた。――いまだ!


「やああッッ!!」槍を思い切り突き出した。


 先端が白の喉に突き刺さった。



 格之進が竹林に踏み込む。槍を立てた。竹の一本を支点にしてくるりと身体を返す。

 竹に鞭が巻き付いた。

 職人が驚愕した表情になり、鞭から手を離すと格之進に貫手ぬきてを放つ。竹の背後にいる格之進には当たらない。

 手を引き戻した職人が手を交差して構えようとするが、竹が邪魔になってうまく動けない。


もろこしの拳のかなめは速さと流れだ。このいずれかを断ち切れば勝機はおのれにあると知れ)

 

 柔術の師、関口氏心(うじむね)の言葉が甦った。

 格之進がさっと足を放つ。職人が向う脛を蹴られて思わず足を下げた。


「くうッ!」

 職人の口から声が漏れる。一瞬眼が下を向く。


 たけのこを踏んだのだ。格之進が地面にも注意していたのはこれが理由だった。


 格之進は見逃さない。再び竹を支点にしてひゅるりと体を入れ替えると職人の背後を取り、竹を挟んだまま右腕を職人の首にがっちりと巻き付けた。左腕を噛ませ、そのままぎりぎりと絞め上げる。

「ぬうう! ――おおッ!」渾身の力で絞め上げていく。

「ぐ……! が!」職人が身もだえしながら片手で懐から何かを取り出す。

 小刀だ。片手で格之進の腕を押さえながら、首にかかった腕に突き立てる。

 

 がちっと音がしたが、格之進の腕はびくともしない。


「無駄だよっ……俺の手甲てっこうには鎖が縫い込んであるのさ。――素手が売り物なんで、ね!」

 さらに力を入れて絞めた。小刀が手を離れ、職人の両手が格之進の腕を掻きむしる。

 格之進の腕にごりっと手ごたえが伝わる、と同時に職人の身体からぐにゃりと力が抜けた。


 喉仏が潰れたのだった。



 槍を引き抜いた。

 

 白の喉からどう、と血が流れだす。法衣がみるみる朱に染まる。目が見開かれ、腕が上がり、途中で止まる。

 がくりと膝を着き、前のめりに倒れた。


 手を離れた竹槍が地面に落ちた。

 はあはあと荒い息をつきながら、倒れた白を見下ろした。


(父さん、兄さん……村のみんな……仇、取ったよ……)


 玲華の肩に手が置かれた。振り返る。

 微笑む格之進の顔がそこにあった。


 こみあげてくるものがある。

 眼が潤む。


 ぐ、っと堪えた。


 わたしは勝った。――もう、泣くまい。


 格之進が頷く。



 唇をぎゅっと引き結び、涙を溜めたまま、玲華も頷いた。







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