【六】 隅田
「おう、格之進。ご無沙汰じゃの。――意外と早かったな」
格之進たちが階段下で草鞋を脱いでいると、廊下の端から海老茶の着物に紺の袴姿の武士が現れた。
「おお、久しぶりだな佐馬之助。一晩世話になるが、構わんか」
なに、気にするな、と言って佐馬之助は腰をかがめた。
御留守居役右内佐馬之助は格之進と齢一つしか違わない。同じ関口新心流門下で柔術の技を競った仲だった。
「右内さん、ご無沙汰しております」
八兵衛がひょこりと頭を下げる。
「八さんは相変わらずか。今度は何を食いに行ってきたんだ」
佐馬之助ははっはっは、と笑って八兵衛の肩を小突いた。玲華の方を見てから格之進の顔を見る。
「――こちらの嬢やは?」
「林玲華。わざわざ明国から来た朱先生のお客人だよ。――嬢やだなんて言っていると度突かれるぞ」
佐馬之助が目を丸くした。
「朱先生の? 明国から? それはそれはまた遠いところからわざわざ……」と言って言葉を切り、格之進の方をちらと見る。
「――手紙の件と関係があるのか?」
「まあな。届いたか」
佐馬之助が頷いた。
「昼前にな。取り急ぎ手練れを五人集めた。少ないかと思ったが上屋敷もあまり手薄にはできんのでな。頭数だけならやたらにいるが、俺も含めてこっちには使えるのはいま五人だ」
「それで充分だ、と思う」
八兵衛と玲華が二人のやりとりをきょとんとした顔で眺めている。
佐馬之助がその顔に気づいてお、という顔になる。
「とりあえず部屋だな。――五郎次、二人を部屋へ案内してやってくれ」
控えていた五郎次がへい、と言って廊下へ上がり、こちらへ、と手で示す。
玲華が少し不安げな顔のまま、八兵衛とともに廊下を下がっていく。
二人が廊下の角を曲がるのを見届けると佐馬之助が少し顔を寄せた。
「――で、具体的に、どうする」
うむ、と格之進が頷いて顔を見た。
「計画は、こうだ――」
※
水戸藩徳川家下屋敷は、現在の墨田区向島一丁目。押上駅から西へ向かった川沿いにある隅田公園がそれにあたる。
敷地は広いが、蔵屋敷としての機能を兼ねていたため、当時の庭園は現在ほど広くはなかった。
中央部に池を配し、周囲を造園したものであったが、塀に近い側は巨大な蔵が立ち並び、臣下の者が居住する長屋を擁していたため、全体としてはかなり圧迫感のある構造であった。
屋敷の本殿は南側にあり、広い中庭を挟み、廊下で離れに繋がったコの字型の構造になっていた。
夜。
耳の鳴るような静寂の中で、田圃のある北側から鰍蛙の鳴き声がざわざわと響き、時折、犬の遠吠えや不寝番の拍子木の音がかすかに聞こえてくる。
月は満月まであと三日と近く、空は紺色に光っている。動きの鈍いちぎれ雲が周囲を月明かりに照らされて金色に光りながら中空を漂っていた。
屋敷の敷地内は風もなく、穏やかに静まり返っている。
玲華は中庭に面した八畳間のほぼ中央に座っていた。周囲の障子も襖も閉ざされたままだ。
しん、と静まった気配が玲華の心をざわつかせた。揺らめく行灯の灯りに浮かび上がる屏風の影がなんとなく不安を掻き立てる。
(老格の言う通りにしたけど――何が起こるのだろう、これから)
月明かりに照らされた外廊下を着流しの格之進がひたひたと歩いていた。片手には太刀を下げている。
中庭に目をやる。
低い松の木、庭石、伽羅玉。敷き砂利にも乱れはない。
ふ、と不敵に微笑った。
しばらく廊下を進む。ほぼすべての部屋に灯が入れられ、障子は閉め切られている。一室だけ灯りのない板間の横で立ち止まる。障子も開いたままだ。
中をちらりとのぞき込む。
闇の中で床板に耳を付けた姿勢の八兵衛が気づいて音もなく体を起こした。
格之進が目配せをする。
八兵衛が無言のまま、両腕で頭上に大きな丸を作った。
格之進が頷く。
さらに廊下を進む。玲華のいる部屋の手前で立ち止まり、「玲華」と声をかけた。
静かな廊下にやけに大きく響く。
部屋から「是的、老格」と声がする。
入るぞ、と言いながら障子を引き開けた。部屋の中に入って障子をぴしゃりと音を立てて閉める。
玲華は怪訝な顔だ。ぶら下げた太刀に目がいく。
「老格、それ――」
格之進が指を一本立てた。玲華が口ごもる。
部屋の中央に進み、玲華の前で片膝を着いた。
格之進がじっと顔を見つめる。
玲華はちょっとどきりとした。顔を見返す。
「玲華、実は折り入って話があるのだ。――もう少し近くへ寄ってくれ」
玲華がにじり寄った。
「老格……話って――」
「――うむ、実はな」
立膝のまま逆手で刀の柄に手をかけ、太刀を素早く引き抜くと両手で柄を握って真っ直ぐに畳の床に突き通した。
どかっ、と大きな音がする。
足の下、床下でざざっ、と何かが動く音がした。玲華が驚いて飛びのいた。格之進が素早く立ち上がってぱあんと勢いよく障子を引き開ける。
「曲者だ!」
大声が屋敷中に響く。
どたどたっと複数人の足音がしてぱんぱんぱん! と障子が一斉に開かれ、武士たちが飛び出してきた。
格之進たちの方へ目をくれることなく、次々と中庭へ飛び降りていく。
廊下の下から人影が中庭へ転げ出た。男だ。
腰を低くしてすぐに立ち上がる。
一言の指示も言葉もなく三人が庭園へ抜ける道を塞ぐ。二人が塀側へ回り込み、二人が門へ抜ける空間に展開し、一人が廊下から弓を構えた。侵入者を中心にして全員中庭中央に向き直る。
降りた全員がいつでも抜刀できる姿勢を取っていた。
男が素早く周囲に目をやる。
左右にわずかに動いたが、構える武士たちが行く手を遮るように動くため走り出すことができない。
縞の小袖に藍色の股引、頭には手拭いの頬かむり。完全に町人の姿だ。どこで身なりを揃えたのか、想像するまでもなかった。
右腕の肩口を左手で押さえている。格之進の刀で手傷を負ったのだ。肩口にじわりと黒い染みが広がっている。
格之進が一歩踏み出した。
「かかったか。普段と違う動きをする敵を見たら確認せずにはおられまいと見たが当たったな。――刺客の悲しい性よの」
佐馬之助が廊下に出てきた玲華の横に立った。
「清国の刺客とやらはこいつか。水戸の屋敷に忍び込むとはいい度胸だ、と言いたいところだが理解してはおらんだろうな」
刀の柄に手をかけた。
格之進が手で制する。佐間之助がちらっと横に目を走らせた。
「全員手を出すな。退路を断て。獲物に気をつけろ」格之進の声が響く。玲華の顔をはたと見た。
玲華が見返す。
「――お前がやるんだ」
びくっと顔が動く。
「わたし?」
格之進が頷く。
玲華の顔が夜目にも蒼ざめて見えた。微かに目を伏せる。
「わたし――でき……」
格之進の左手が玲華の肩を掴んだ。
「玲華――兄が見ているぞ。……今が戦う時だ、自分とな」
「――兄が」玲華の顔が固まった。「――見ている」
自分の前の虚空に何かが存在するかのように眉根を寄せる。
わずかな間があった。
男が肩口から手を離し、懐から素早く何かを取り出した。
それは手元から素早く五尺程伸びるとひゅんひゅんと回りだす。武士たちが刀の柄に手をかけ全員がじりっと半歩下がった。
格之進の顔が険しくなる。
「あれが九節鞭、か」
かっと音を立てるように玲華の顔が上がる。男を睨みつけた。
「――你是什麼顏色(お前は何色だ)!?」鋭い声が飛ぶ。
男がちらっと玲華の顔を向く。目は武士たちの動きを追って左右に動いている。
「――黒」にたりと笑った。
玲華の肩が強張った。二歩前に出る。こきこきっと首を振り、肩を上下させた。
両拳を斜め下にびっと伸ばす。左右の手が二三度鋭く交差して前構えの形でぴたっと止まった。
「はいいいい! やあっ!」
裂帛の気合と共に玲華の身体が躍り上がった。
両腕を鳥の翼のように広げ、中庭に降り立つと、黒に向かって三歩踏み出す。
縦回転する鞭が横回転になる。ぐん、と前に延びた円弧を頭を下げて躱す。男がさらに踏み込む。のけ反って躱す。再び縦回転。肘に絡ませた鞭を体を反転させると逆回転になっている。
下から鞭の先端が顎を捕えようとする。間一髪、のけ反った姿勢のまま地に手をついて回転、黒が踏み込む。再び横から鞭が襲う。次いで足元。跳んで躱す。敷砂利が鞭に弾かれて飛び散った。
「まずいな――動きが速すぎて踏み込めん」
佐馬之助が柄を掴む手に込めた。格之進が再び制する。
「――いいのか?」格之進の顔を鋭く見る。
「まだだ」
格之進が唇をぎゅっと引き結んだ。
二度、三度、真横から回転する鞭が鋭く空を切る。左右に身体を捻り、僅差で躱しているが徐々に押されていく。
(――このままではダメだ)
来る、躱す。
(やはり――わたしでは)
縦回転。顔の横を掠める。
(――兄さん)
横回転。胸元。服が触れる。
(――お願い! わたしに、力を!)
鞭がびゅんびゅんと回る。頭上に横回転。下に来る。咄嗟に踏み込んで左腕を翳す。ちゃりりり、と音をたてて腕に鞭が巻き付いた。先端が顔をぴっと弾く。
紅蓮の炎を噴くような眼は黒から逸らさない。
「いまだ! ――玲華!」
格之進の声よりも速く、玲華が大きく踏み込んだ。
渾身の前蹴りが黒の顎を捕えた。ぱあん、と音がする。片腕に傷を負っているので防げない。
「がっ!」
黒の顎がのけ反って態勢が崩れる。鞭を巻き付けたまま腕を戻し、さらに思い切り踏み込んだ。
「はいはいはいっ! はいやあッ!!」
腹に三連打を叩き込み、裏拳が顔面を捉えた。体が横に傾いだ瞬間、
「はりゃああッ!!」
閃光のような回し蹴りが側頭部を撃つ。
黒ががくっと地に膝を着いた。
「それまでだ! 捕えろ!」
格之進の声が響く。八人の武士が一斉に黒に躍りかかった。二人が首と肩を押さえ込み、一人が腕を捻じり上げる。
黒は砂利敷の地面に顔を押し付けられ、動けなくなった。一人が手首を縄で縛りあげていく。
玲華がはあはあと肩で息をしている。
腕が下がる。巻き付いていた鞭がちゃららら、と音を立てて地面に落ちた。
鞭が巻き付いていた袖に血がにじんでいた。
降りた格之進が肩に触れた。玲華が振り向く。
「老格――わたし――」
格之進が頷く。
「勝ったんだよ、玲華。――自分に、な」微笑んだ。
「勝った……敵に。――自分に」
格之進を見つめる眼がみるみるうちに潤む。
顔がゆがむ。
格之進の胸に頭を預け、玲華は小さくすすり泣き始めた。
「よくやった」
肩を抱く。玲華は、ただ頷いていた。
「おい? ――おい? お……動かないぞ」
黒を押さえつけていた武士の一人が、他の武士の顔を見る。
一人が黒の身体を起こし、仰向けにした。
黒の首ががくりと横に倒れる。
「む? ――死んでる?」
格之進と玲華が振り向いた。
黒の食いしばった口元から赤黒い筋が垂れていた。
一人が口元を覗き込む。匂いを嗅いだ。
「舌じゃないな。――たぶん、毒物。石見(石見銀山・砒素系の毒薬)かな。歯に仕込んであったか」
「逃れられぬと知って自害したか。――用意のいい連中だな」
佐馬之助が口を曲げた。
「油断ならん奴らだ、ということは分かった」
ふう、と格之進が息をついた。