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【五】 戸塚~品川~隅田


「ふえーい、いい風呂でしたあ。お待たせし――あれ」

 妙な声を出した八兵衛が手拭いを下げて障子を開いたとき、格之進は筆を置いたところだった。

 玲華リンホアは窓辺に腰かけて行きかう人通りをなんとなく眺めている。

「手紙……ですか?」

 む、と格之進は紙を折りたたみながら生返事をし、懐に仕舞うと立ち上がった。

「ちょっと問屋場といやばへ行ってくる。荷物番をしててくれ」

 へい、と八兵衛が言うと玲華がぱっと振り向いた。

「――あ、わたし、一緒行く」



 小田原を早立ちして、夕方には戸塚宿に入っていた。


 玲華は一日浮かない顔をしていた。

 昨晩の件が尾を引いているのか、前日のような笑顔はなく時折目だけを動かして背後を窺っていたのだ。


 二人は通りへ出た。


 こちらも小田原に負けない喧騒である。

 江戸から西へ向かう者にとっては大概の場合最初の宿となり、これから始まる旅路への期待は高まる。

 西から江戸へ向かう者にとっては逆に最後の宿となり、まだ見ぬ到着する地、または家路へと向かう思いは強くなる。

 旅人たちの交錯するそんな思いが、あるいは宿場のにぎやかさとなっているのかもしれなかった。


 旅籠は宿場で最も大きく、宿泊客の多そうな場所を選んだ。入っている部屋の特定がされにくいためだ。



老格ラオジェ

 通りの喧騒を眺めながら歩く玲華がぽつりと言った。

「わたし、戦えるか? 四鬼スーグイと」

 格之進はちらりと玲華の顔を見た。


 少女の顔。言うべきか、少し迷った。


「無理、かもしれん。――今のままでは」

 突き放すような響きにならないように気を付けた。玲華がやや下を向いた。

「そう、だよね。こんなじゃだめ。――わかているのに」

 悔しそうに唇を噛む。


 無理はない。格之進は思った。

 同時に玲華の背中の刀傷を思い出した。


「自分を責めてもなんにもならんよ。誰にだって恐怖はある。俺だって怖いさ、殺し合いはね」

 少し投げやりに見える目で格之進を見た。

「老格は、人を殺したこと、あるんだね。――わたしにはない。今のわたし、戦ても四鬼殺せない」

「それがいけないこと、だとは、俺は思わんな」

 玲華が大きな瞳を少し開いた。

「――ためらいもなく人を殺せる方がおかしいのさ。人であれば、人を殺せないと思うのは当然だよ」

「憎くても? 父と兄を殺した相手でも?」

 少し怒気を含んでいた。だが、その怒りは、他でもない玲華自身に向けられたものだった。


「そうだ」

 格之進の目が玲華の瞳をまっすぐに見た。

「――それが『仁』であり、『徳』。朱老師の教えの大元だよ。お前の父や兄に授けていたであろう、朱老師の、な」

 格之進は少し微笑んだ。玲華の大きな瞳が潤む。

「――ジン……それが父や兄への教え」 

 歩きながら目を伏せた。

「でも、わたし、四鬼許せない。わたし間違てる、なのか?」

 格之進が首を振った。

「お前が戦おうとしているのは『義』のためだ。それもまた儒学の教えだよ。間違ってはいない。だが、戦う相手を間違っている。お前が今、戦わなければならない相手は、玲華――お前自身だ」

 打たれたように立ち止まった。格之進も立ち止まる。

「――わたし、自身?」

 格之進が頷いた。


「怖れを知らぬ者が勇者なのではない。勇者とは、怖れを知りながら、しかもそれを怖れない者のことを言うのだ」


 玲華の内側で何かが逡巡しゅんじゅんした。

 不安げに格之進の顔を見返す。


「できる、だろか。わたしに」

 格之進が強く頷いた。片手で玲華の肩をつかむ。

「玲華ならできる。――必ずできる。俺を信じろ」


 格之進の顔を見返した大きな瞳にみるみるうちに涙があふれ、ぽろぽろとこぼれ落ちた。

 玲華が無言で格之進の腕にしがみついて顔を伏せた。小さく肩を震わせて、泣いた。



 格之進は小さな肩を抱いたまま、しばらくそのまま佇んでいた。





 翌朝、戸塚宿を明け前に発ち、昼には品川宿に入った。


「御殿山の桜はもう終わっちゃってますかねえ」

 並んだ床几しょうぎに腰かけた八兵衛が蕎麦を啜りながら、ふいと山の方を向いて言った。


 見遥かす低い山は若葉の緑に覆われ、その上を白い綿雲が東へ流れていく。

 わずかに吹いてくる風に乗って、川向こうの遊郭から人の笑い声と三味線の音が聞こえてきた。


「なんだ八、ここまで来てまだ物見遊山に行く気なのか」

 同じく蕎麦を口へ運んでいた格之進が白けた口調で言う。玲華は丼から蕎麦を二三本箸でつまみ上げ、めつすがめつしてから目をくりっと上に向けたまま啜っていた。

 口を離して格之進の顔を見る。

「おいしね、これ。明のミェンとちょと違うけど」

「へへへ、江戸前の蕎麦ですからね、鰹節が利いてるでしょ。この茶屋の名物なのさ」

 八兵衛が得意げに言ったが、玲華はあまり聞いてなさげにまたつまみ上げた蕎麦を見つめている。

 なにか閃いたような顔になった。


「――そうか、ミェンを打つんだ」


 格之進がん、という顔になる。

 それ、と言って玲華が床几に置かれた白い包みの方を見た。

「レンコンの粉で、ですかい? どんな味になるんですかね」

 八兵衛が妙な顔になる。

「明の料理にあるです。薬膳汁麺。食べる薬。水戸に誰か病気なりかけの人、いるですね」


 格之進と八兵衛が顔を見合わせる。


「ご老公、ですかね」

「まあ、一応元気だがたまに病気がちというか弱るというか。あの背中の痛みも持病の冷えが原因だろう」

 格之進が言うと玲華がしたり顔で頷いた。


「薬膳、血の道の病に効くですね。朱老師、たぶんその人に作ってあげるつもりで、わたし呼んだですね。早く行かないとですね」

 ふむ、と言って格之進が考える顔になった。


「早く着きたいのはやまやまだが……まずくっついてくる厄介者をなんとかせんとな」


 玲華がかすかに眉を寄せた。





 江戸の街に入る。


「さあさあさあお急ぎの方そうでない方、爺さん姉さん寄っておいで寄っておいで! これなるはさてお江戸の一大事! あの時の人、鳴木屋徳之助と吉原芸者お朱鷺太夫との恋の行方はいかばかりか!――」

 瓦版屋のけたたましい呼び声に迎えられた。

 いそいそと駆け寄っていく年増女。人ごみをひらりひらりと避けながら先を急ぐ職人風。

「どいたどいたあ!」と罵声を上げながら荷車を引く半裸の男。笑顔を交わしながら喋りあう町娘たち。悠然と歩を進める虚無僧。

 奉公人と連れ歩く恰幅の良い商人。鳥追い女。天秤棒を担いだ魚売り。胡乱な目つきで軒先で煙草を吸いつける女衒ぜげん風の男。


 種々雑多な人々が入り混じり、町中がざわめいているようだ。

 宿場町とはけた違いの人の多さに玲華が目を白黒させた。


「すごい人の数……広州の都にもこんなに人、いないよ」

「この国の中心のような街さ。お国で言えば北京ペイジンとかいう場所と同じようなものなのかな」

「北京……行たことない。すごい人多い、聞いたね。こんな風、なのか」


 芝から汐留、築地を抜け、八丁堀、浜町から浅草橋を渡り、蔵前を抜ける。


 巨大な蔵の白壁が通りいっぱいに連なっている。

 荷車にいくつもの米俵を積んだ荷馬車がいくつも行き交い、馬子たちの怒声、札差の呼び声が飛び交ってあたりは騒然としている。

 馬糞の匂いと馬の体臭がぷんと鼻を衝く。

 やがて大勢の人が往来する巨大な辻にぶつかると格之進は右に折れた。

 目の前の先には大きく盛り上がった土手の間に蔵前橋が見える。


「あれ、格さん、こっちの方角って……」

 歩きながら八兵衛が怪訝そうな顔になる。

「まあ、お前の考えている通りだ。黙って歩いていろ」

 八兵衛は釈然としない顔で蔵前橋を渡る。

 往来する人や馬の足音でどたばたと騒々しく橋の床板が鳴る。

「なんで大川橋|(吾妻橋)まで出ないんですかい。これじゃ土手を歩いていくことになっちゃいませんか」

 まあな、と格之進はそっけない。

 橋を渡り切って左に折れる。


 大川端の土手の上を歩いていく。大通りと違って人が少なめだ。

 緑色が濃くなり始めた枝垂れ柳の枝が隅田川からの風に揺れる。並木道が巨大な縄暖簾(のれん)のようだ。

 右手には隅田の街並みが広がっており、火の見の鐘が陽光を照り返してにぶく光っていた。


「人、少ないの、わたしたち、目立たないか」

 玲華が少し不安げに格之進の顔を見る。

 格之進は玲華を見て、少し口を曲げた。

「連中、江戸の人ごみに面食らってるだろう。見失われたら困るからちょっと案内してやろうと思ってな」


 玲華の頭から疑問符が湧いて出ていたが、格之進は構わずに歩いていく。


 土手の道は吾妻橋を左手に見、その先で隅田川に合流した源森川に遮られる。

 川の向こう側に見える土手沿いには、高さ二十尺|(約六メートル)を超える松並木が連なっており、源森川と並行して白塗りの塀が西側へ広がっていた。


 荷馬車がやっとすれ違えるほどの幅しかない源森橋を渡り、一定間隔で小窓の開いた白く連なった塀を左手に見ながら北に向かって歩く。

 角を折れて、松並木の見える西側へ向かう。道には二三人ほどの人影しかない。右手は一面の田圃、その向こうは茅葺屋根の集落だ。


 やがて塀の切れ目に豪壮な長屋門が現れた。玲華が上を見上げる。


 格之進がちょっと背後を見る。玲華は少し曇った顔だ。荷物を背負った八兵衛が後に続く。

「老格……ここ、どこ? 宿、じゃない、ね?」

「しっ、水戸藩の下屋敷ですよっ」

 八兵衛が声をひそめて指を立てた。

「ミトハン? ――シモ? 屋敷?」

 玲華が首を傾げた。


 年季が入った焦げ茶色の勝手口を格之進がどんどんどん、と三度叩いた。返事はない。少し間を置いて四度叩く。


「誰だ」

 門の向こうから声がする。

「五郎次、俺だ。澹泊たんぱくだ」

 へっ? と門の向こうの声が裏返った。

「か――格之進様? しょ、少々お待ちを」

 がたがたとかんぬきをはずす音がして、門がそろそろと向こう側に二尺ほど開くとびんの薄くなった初老の男の顔が覗いた。


「久しぶりだな」

 格之進が歯を見せると五郎次と呼ばれた中間ちゅうげんの男は目を丸くした。

「おお、確かに格之進様じゃ。――ご老公とご一緒ではなかったので?」

「ちょっと訳あって別行動なんだ。佐馬之助はいるか」

「は、おそらくおられる、と思います。お呼びしますか」

「頼む。とりあえず入るぞ」

 格之進に続いて玲華、そして八兵衛が門をくぐった。

「へへへ、五郎次さん、お久しぶり」

「おや、八兵衛さんもですか。こりゃ今日はにぎやかですな」

 五郎次が少し笑う。


「――これから、もう少しにぎやかになる予定なんだがな」


 格之進があさっての方を向いたままにこりともせずに言った。





〈入ったか〉

〈入ったな〉

〈宿ではないな〉

〈宿ではない〉

〈屋敷か〉

〈屋敷だな〉

〈何をかはかるか〉

〈解らぬ〉

〈宿ならずばはかりごとありしか〉

〈在りか〉

〈在り〉

〈在り〉

〈余人多きとは思えぬ。侵入はいるはやすいと見るが、如何いかにする〉

〈調べるか〉


〈調べよ〉



〈調べよ〉



〈調べよ〉









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