【四】 熱海~小田原
翌日も空は晴れわたっていた。
明け方に熱海を発った三人は海沿いの道を北へ向かっていた。
道の右手には九尺(三メートル弱)ほどの高さの松並木が道沿いにずらっと続いている。海からの風を防ぐためのものだ。
左手の田圃の向こう側には遠く、緑濃い箱根の山並みが見え、その向こうに富士山が覗いている。
この時間、風は海側から吹いていた。
固まりになった松の葉がわずかな風に揺れる。
湯治からの帰り客で、人通りはそこそこ多い。
「四鬼って奴ら……追ってきてますかね」
玲華の包みを代わりに背負っている八兵衛が格之進の顔を多少不安げに見る。
「おそらくな。話が本当なら、連中は玄人だ。尻尾を出すような尾行け方はしないだろう。――後ろは見るなよ」
玲華の方をふと見る。
小さく鼻歌を歌いながら軽やかに歩いている。なぜか楽しそうだ。
格之進の顔が少しほころんだ。
「玲華、なんで楽しそうなんだ?」
え? と言って振り向いた顔は微笑んでいる。
「ああ、そうだね。――ずっと一人だたから、三人だと思うとなんだか嬉しくて」
そう言ってまた微笑んだまま前を向く。
そんな横顔は、まだ幼さの面影が残る十代の少女の顔だ。
格之進は少し羨ましくなった。
小高い丘の上で少し立ち止まって、海側を見るふりをしながら来た道をそれとなく見る。
町人風の男女が数人、むしろにくるまった荷物を載せた馬を引く男が一人。
商家風の二人連れの女性に、老夫婦が一組。
行き来する人影にそれらしい風体はない。
海に目をやる。
波がしらが白く風に散る。
左側から沖へと延びるごつごつとした真鶴半島が見えた。先端は波しぶきが打ち付ける真鶴岬だ。
沖に群れ集う海猫の鳴き声がかすかに耳に届く。
――この海の向こう側にも人がいる。
そんな当たり前の事実が、格之進の心をわずかにざわつかせた。
こうしている今も長崎には遥かな海を渡ってくる南蛮人たちがおり、玲華のように大陸から渡ってくる人々がいる。
いずれはこの日本からも、反対に大陸へ、外の国へと人が渡っていくことになるのだろう。
その頃、この国はどうなっているのだろうか。
武士、というものはどのような存在になっていくのだろうか。
国学、というものに触れてからこの方、格之進が折に触れて考えるようになったことだった。
考えたところで答えのある問いではないことは百も承知だ。
だがそんな時、自分はいかにあるべきか、と考えてしまうのも、どうしようもない格之進の性であった。
「――老格、なに考えてる?」
玲華が格之進の顔をひょこりと覗き込んだ。
あどけないその表情に格之進は少しうろたえた。
「……あ? いや、なんでもない。――おい八、行くぞ」
とりとめのない思いを振り切って、路傍に座り込んで汗を拭いている八兵衛の方を向いて言った。
※
夕刻前に小田原宿に入った。
暮れ方の城下町の賑わいはひときわで、通りは行き来する人で一杯だ。
商家、旅籠が棟を並べ、物売りや呼び込みの声が飛び交う。
露天の行商人が路傍に店を開き、大声で見栄を切る香具師の周囲に小さな人だかりができていた。
格之進は十字路で立ち止まった。
「おい八。来るときに使った旅籠、覚えてるか」
「へい。入瀬屋ですね。よく覚えてますよお、晩飯のおでんが旨かったとこですよね」
「お前は食い物しか覚えてないのか。――外郎の店、どこだかわかるか」
「へ? 格さん腹でもこわしましたか?」
外郎は古くからある丸薬である。
販売している店舗は現在も小田原市内に存在する。
「お前と一緒にするな。道々面倒だからここで二三人分まとめて仕入れてこい。金はあとで払う。入瀬屋で合流しよう」
「へい、合点で」
ひょこひょこと左へ道を逸れていく。
離れた八兵衛を鋭く目で追った。
人波に乱れが生じるかどうかを確認するためだった。
尾行者がいるとすれば、目標が二つに分かれれば手を分けるはずだ、と踏んだのだ。
彼方でかすかに見える人影が左右に分かれたのを格之進は見逃さなかった。
――やはり尾行けられている、か。
独り言ちた。
「奴らだね」
玲華が鋭くつぶやく。格之進は通りから目を外さない。
「たぶんな、わかるのか」
少し感心した。
「この国の人、みな平和。殺気を放つ奴、いないね。いたとすると、それは敵」
玲華の眼が鋭くなる。
「歩こう。立ち止まっていると、気づいたと思われる」
促されて玲華も歩き出す。
「唐手は誰に習った?」歩きながら訊いた。
「カラテ? 功夫のことかな。――村はずれの寺が嵩山(少林寺)の末寺の系列だた。兄と一緒に、そこで教わた。わたしスジがいいて、お坊さんにほめられた。兄に負けないように、一人でもいぱい練習したね」
ほう、と感心する。
玲華の鍛えられた腹筋を思い出した。と同時に裸の上半身も思い出してしまって、少しどきりとした。
おほん、と咳払いして誤魔化す。
「四鬼という連中、腕は立つのか」
「立つ。でも一人ずつならそこまでではない、思う。二人で組まれる、かなり手強い」
「奴ら、武器は何を使うんだ」
「多いのは長剣と円月刀。胡蝶剣、得意。あとは九節鞭」
「九節鞭?」
「尖った鉄を十、繋げた鎖みたいな武器。伸ばすとこれぐらい」
両手をいっぱいに広げた。
「先尖ってる。びゅんびゅん振り回す。速すぎて、動き見えないね。刺さる、ノド斬られる、死ぬ。腕に絡ませる、引っ張る、腕斬れる。痛いね。ノドに絡ませる、引っ張る、首斬れる、死ぬ」
手振りで示しながら説明する。
「厄介だな」
「長剣や円月刀、大きい。船持ち込めないね。海賊、間違われる。多分奴ら、持ってない。九節鞭、小さく畳める。奴ら、必ず持ってるね」
ふむ、と歩きながら考える。
交易船の中には大きな武器は持ち込めない。目立ちすぎるからだ。
せいぜいが短刀、あとは手裏剣か。そして九節鞭。
――なにか手を考えておかねばな。
格之進の頭が忙しく回り始める。
「老格も、なにか武術、やってるね?」
ちらりと格之進の顔を見る。見返した玲華の目は少し笑っている。
「なんでそう思う」
「目配り、鋭いね。町の人、あんまりそんな目、しないね。あと――首と肩、硬くて盛り上がってた。身体、鍛えてるね」
一瞬、意味がわからなかった。顔を見る。――いつ俺に触った?
いたずらっぽく笑っている。
あ、と思った。
風呂の中だ。
やわらかい乳房の感触がふと甦り、格之進は目を逸らせてしまった。
「――背中、大きね。……兄、みたい」
横を向いた玲華がふと目を伏せて、ぼそりと呟いた。
え、と格之進が目を向けると、なんでもない、と言ってかぶりを振った。
頬に少し紅が差していた。
※
格之進は闇の中でふ、と目を開いた。
そっと布団から上体を起こすと、窓辺に近寄った。
注意しながら板窓を一寸ほど開ける。
裏手は山だ。旅籠の敷地とは高低差があり、こちらからは三階分ほどの高さから見下ろす格好になる。
月灯りは朧で、眼下に広がる山裾は一面の藪、漆黒の闇だ。
何かが動く気配を感じる。
おい八、と隣で口を開けて寝ている八兵衛の肩を揺すった。
「ふえあ――格さん、もう、食べられません、てば」
目を開かずにもごもご口を動かす。
ちょっと起きろ八、ともう一度強く揺する。
玲華が音もなく起き上がった。
「老格――まさか」
口を開こうとする玲華を手で制した。
八兵衛が目をこすりながらのそのそと起き上がる。
「むえい……なんですかあ」
「ちょっと外を見てみろ」
へえ、と言って窓辺に寄る。
「老八――闇の中、見えるですか」
格之進が玲華の方を向く。
「こいつが利くのは食い物に対する鼻だけじゃないのさ。夜目も利く。耳も敏い。隠れた才能だな」
八兵衛が窓の外を覗いて、ぴくっと体を震わせた。目が覚めたらしい。
「居ますね、二人――や、さんに……ん? ん? もう一人いるかな」
「四鬼!」
ばっと玲華が立ち上がった。
「火! 点けられる! 皆、殺され――」
しっ、と言った格之進が素早く立ち上がって玲華の口を塞ぐ。
「む! う!」
目を見開いて、がたがたと震えだす。格之進がそのまま片腕で玲華の身体を抱きしめた。
「聞かれるぞ――落ち着け! 見張っているだけだ。何もしやせん」
声を静めながら諭した。玲華が目を見開いて身をよじる。
「口を開いてはダメだ。――いいか、手を離すぞ」
ゆっくりと手を離した。
玲華は格之進の襟をぎゅっと掴んではっはっ、と荒い息をつく。
――よほど怖い思いをしたのだな。
もう一度肩を抱いて手に力を込めた。
「大丈夫だ。落ち着くんだ」
低い声で言い聞かせる。玲華がゆっくり息を吸い、吐く。もう一度繰り返した。
大丈夫なのか。玲華を抱き、虚空を睨みながら、格之進の心に不安がよぎった。
敵は手練れの四人。
玲華がこの状態で迎え撃てるか。
――このままではだめだ。
格之進はぎゅっと眉根を寄せた。