【三】 熱海
『――で、林玲華さんとやら、この国の言葉は話せないのか?』
町一番とも二番とも思われる大きな湯宿に腰を落ち着け、改めて湯に浸かりなおした後、冷たい茶を啜りながら格之進が尋ねた。
三人は八畳間の窓辺に車座になっている。
日暮れの訪れた街には灯籠に灯が入り、淡い光に浮かび上がった街並みの中を湯上りの客が三々五々ぶらついているのが見える。
さざめきの様な喧騒が窓から流れ込んできていた。
浴衣姿になった玲華は、町湯にいた時よりもやけに小さく、はかなげに見えた。
「あ――すこし、なら、話、できる」
玲華が訥々(とつとつ)と話すと、後頭部のたんこぶを濡れた手拭いで冷やしていた八兵衛が起き直った。
「へえ、すごいね、若いのに。先生は誰?」
八兵衛を見る目はまだ少し怪訝そうだ。
「父に習った。――父は朱老師の弟子、林元峰。父は、老師から教わった、と聞いた」
格之進の眉が動く。
「林氏……老師から聞いたことがあるな。確か、一番弟子とかだったか?」
玲華が頷いた。
「父は……老師から、信頼、厚かた。老師の後を継ぐ者、戦いのない倭国に逃がす、考えてた。台湾にいる鄭家の家族、一緒に清と戦う。倭国に手伝てもらう、言てた」
格之進の手が顎を覆う。ふむ、と言って考え込んだ。
朱老師が以前から、明王朝の再興の為に水戸老公を通じてお上に援助を要請していることは知っていた。
林氏は、自身ではなく、老師の後継者と目した人物を日本に送り込み、台湾の鄭一族が建てた代理王朝と組んで、清への反撃の要として日本に援助してもらおうとしていた、という事か。
ただ実際にはお上の腰は重い。
内戦の最中とは言え、勢力を増しつつあり、中華全土を掌握せんとしていた清王朝にあからさまに敵対することは、現時点では幕府にとって得策ではない、とお上が考えているであろうことは格之進にも想像できた。
倭国ってなんです、と八兵衛が首を捻る。この国のことだよ、と格之進がたしなめた。
「――てえことは、玲華さんが老師の後を継ぐ者、ってことで日本に来たんですかい?」
玲華が憮然と首を振る。
「後を継ぐ者、本当は兄、京。わたし、ただの小娘。兄はみんなの指導者だった。仲間たくさん。人望あった。――でも……殺された」
玲華の目が下を向いた。唇を引き結ぶ。
「話していた『四鬼』とやらのことかな。何者なんだ?」
玲華が格之進の顔を見る。
「清の、人殺し。四人組。金鬼、銀鬼、黒鬼、白鬼。吏官の命令で、なんでもやる。石庄の村の人、みんな四鬼に殺された。子供も、年寄りも。家、全部焼かれた。――男も女も、皆殺しね」
ひでえな、と八兵衛が顔をしかめた。
「清のやつらには、南明の、軍の、先生? みたい役目してた父と兄が邪魔だた。村の人、巻き添え」
「よく助かったな」
膝の上で拳をぎゅっと握った。まだ下を向いている。
「兄が、わたし、逃がしたね。兄は……わたし、追わせまいとして、殺された。わたし追い詰められて、川に落ちた。その後、覚えてない。気が付いたら、農家の人の納屋。寝かされてた。農家の人、たまたま南明の味方だた。荷車に隠れて、馬羊まで連れて行てもらた。馬羊にいる応大人にこのこと伝えろと、兄に言われてた」
格之進がちらっとあさっての方を見た。
「馬羊の応――応宗白氏のことかな」
「格さんお知り合いですかい」
いや、と首を振る。
「直接会ったことはない、が、朱老師招聘の使いだった家中の小宅が明側の窓口として書を交わしていたのが、確か応氏だとか聞いている。――玲華さんをこの国に寄越したのは応氏なのかな?」
玲華が頷いた。
「大人に事情話した。しばらく匿ってもらてた。何日か経って、朱老師の希望で倭国に大事な品物を届けてほしい、言われた。大人が手配して、わたし、荷物持て船に乗た」
「品物? あの大事そうに抱えてた包みですね? ――あらあ、何ですかい」
八兵衛が部屋の隅に置いてあった包みを指さした。
「藕粉です」
玲華が少し間を置いて答えた。八兵衛が首を捻る。
格之進が傍らに置いてあった分け荷を開け、矢立と懐紙を取り出した。筆を少ししがむと墨をつけ、玲華に渡す。玲華が懐紙にすらすらと文字を書いた。
格之進が顔を寄せる。
「藕粉。――レンコンの粉、か。なんでまたそんなものをわざわざ明から……。レンコンなら国内にありそうなもんだが」
格之進が怪訝そうな顔をすると、玲華がくすっと笑った。
笑うと梅の花がほころんだような可憐な顔になる。
少しどきっとした。
「この国のレンコン、太さ、どれぐらいあるね?」
笑みを含んだ顔のまま、玲華が尋ねる。
八兵衛が指を一寸|(約三センチ)程広げる。「こんぐらい、ですかね」
格之進がなんとなく頷く。
「明の国のレンコン、太いよ。これぐらい」と言って玲華が両手でリンゴ程の大きさの輪を作った。
八兵衛がふえっと変な声を出した。
「随分太いんだな」格之進が感心する。
この時代、当然のことながら国産のレンコンは存在したが、全国的な栽培量はまだ少なく、種としても貧弱なものであった。
中国との差は土壌成分の差異によるものと思われるが、詳細は不明である。
日本での本格的な栽培が行われたのは明治時代以降だ。ちなみに、現在全国で最も出荷量が多いのは、水戸藩のあった茨城県である。
「明のレンコン、滋養豊富。精も強いね。『食薬』としては涼寒性。熱温性の材料と一緒に煮物や湯で合わせるね。身体、元気になるね」
「玲華さん、詳しいのだな」
少し得意げな玲華の顔が可笑しくなった格之進が笑いながら言った。
「わたし、こう見えても料理、得意。応大人、材料と一緒に料理人も送ったね」
少し誇らしげに顔を上に向ける。
「玲華さんに何を作らせるつもりなんだろ。おいらも食べられるかな」
食い物の話題と見るや八兵衛が身を乗り出す。
んー、と言って少し考え込んだ。
「詳しいことは聞いていないね。粉だからたぶん練り物、かな」
「鴨と一緒に出汁で煮たらうまそうっすね、へっへっへ」
こら八、と格之進がたしなめた。
玲華がくすくすと笑った。
「――そういえば、あなたたち、名前、まだ聞いていないね。変だね、こんなに話ししてるのに」
格之進がお、という顔になる。
「それはそれで失礼だったな。俺は格之進。こいつは八兵衛だ」
筆を執って懐紙に名前を書く。
玲華がのぞき込む。
「んー……格之進と八兵衛。――じゃあ、老格と老八だね。わたしは玲華でいいよ」
えー、と八兵衛が妙な顔になる。
「老、なんて老け込んでるみたいでやだなあ」
「あちらでは目上の者にはみな『老』をつけるんだ。別にお前が老けてるわけじゃあない。あ、玲華。こいつはただの『ハチ』でいいからな」
はっち? と言って玲華が小首を傾げる。
勘弁してくださいよお、と八兵衛が泣き顔になった。
「――とすると、玲華はこれからわざわざ水戸へ向かうことになるんだな。なんでまた熱海なんぞにいたんだ?」
格之進が思い出したように訊く。
玲華が少し困ったような顔になった。
「朱老師、ミトにいる。聞いてたね。ミトのどこだかわたし、知らないね。ミトハンに行って訊け、言われてた。乗っていた船、本当はミトの中身納豆に着くはずだた」
「中身? 納豆? ――ああ、那珂湊か。それならわかるな。水戸から一里しか離れていない」
「ところが沖で船、アラシにあったね。船揺れて、死ぬかと思たよ。アタミ、ホントは寄るはずなかた。船の大事なところにヒビ入った、言ってた。船旅、続けるの危ない。直すのに材料こない。五日よりもとかかる、言われた。荷物、馬に積み替え。人、あとは歩いて行け、言われたね」
なるほど、と格之進は独り言ちた。
「港、着いたけど、どうしていいかわからない。歩いていたら、お風呂見つけたね。老格たちがいたね。わたし、助かたね」
ほっと息をついて、胸に手を当てた。
小さくて可憐な手だ。
惨劇の修羅場をくぐってきたような手には見えなかった。
背中の刀傷をふと思い出し、格之進はなんとなくやるせなくなった。
「そういえば、その四鬼とやら、町湯で口にしていたが、――まさか、ここまで追ってきているわけではあるまいな」
玲華の表情がふ、と曇った。
「わからないね……。船の中でも見張られてる気配、してたね。あの時の怖かたこと思い出して、生きた心地、しなかたね」
うむ、と格之進は考え込んだ。
一度殺しそこなった相手。
殺すつもりなら船の中でやっているはずだ、と思った。
陸に上がってからでは何かと面倒だ。とすれば、生かしておいて後を追う理由がある、ということだ。
清の刺客だとするならば、標的は一つしか考えられない。
朱老師だ。
※
夜の浜辺。
群雲が絶え間なく続く空。
切れ切れの月明かりが照らしては隠れ、雑木林の暗さをいや増している。
寄せては返す潮騒の音の間を縫って、ほう、ほう、と声がする。
雑木林の向こう側からも、ぴゅい、とかすかな笛のような声。
影が四つ、雑木林の闇の中に集まった。
ひとつの黒い塊になる。
〈宿はつかんだ〉
〈男が二人一緒だ〉
〈どういうことだ。知人などいるはずがない〉
〈わからぬ。三人は一緒にいるようだ〉
〈火を放って、全員……〉
〈馬鹿を言うな。国の中でもないのに無茶はできん〉
〈それに朱の居場所を掴むのが優先だ〉
〈そうだ〉
〈そうだ〉
〈奴らの道中を見張れ〉
〈見張れ〉
〈見張れ〉