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【一】 南明・石庄村


「ぎゃああ!」

「おげえっ!」


 吹きすさぶ風の音に混じって複数の悲鳴が聞こえた。

 大粒の雨が容赦なく顔に打ち付ける。


 荒い息を吐き、走りながら玲華リンホアは後ろを振り返った。

 板屋根から炎が噴きあがり家並が燃え盛る。白漆喰の壁に開いた窓から火の粉が噴きあがっていた。

 宙を舞う雨しぶきに炎のあかが散る。


 照り返す炎が玲華の雨に濡れた白い顔を照らした。

 

 炎の中をまろび出る人影が横切る。その背後から別の黒い影が追いすがり、振り下ろされた長剣が炎を反射した。

 があっ、と声がして虚空を掴むように手を上げた人影が倒れる。


 長剣を下げた人型の影が玲華の方を向いた。


 玲華が再び走り出す。

 背後からおらび(・・・)声が聞こえた。水音を散らし、複数の足音が追ってくる。


 ――だめだ、追いつかれる!


 雨に濡れた服がからみ、足を遅らせる。


 ――こうなったら、かなわぬまでも!


 急に足を止め、振り向く。

 炎を背後にして、長剣を掲げる影二つが迫る。

 走ってきた勢いをそのまま反転させ、玲華の白い姿が影に向かっておどりかかった。


「はいいいいい!」

 

 気迫を声にして両腕を広げ、独楽こまのように旋回。右の影が振り下ろす長剣を袖でかわし、手の甲を左の影の顔面に思い切り叩きつける。

 左の影がひるんだ。右の影が刀を返す前に開いた玲華の左手が影の腕を叩く。

 下がった剣を膝で跳ね、正拳を顔に叩きこむ。


「ばッ!」


 影がのけ反った。左の影が下から斬り上げる。身体を返す。袖をかすった。右から剣。かいくぐって跳び下がる。

 左右から同時に剣が来る。前に飛び込む。影の間をすり抜けて前転。

 ぐっしょり濡れた背中の感触が玲華の頭を一瞬冷ます。


 ――間合いが近い!


 右に跳んで側転。影が刀を返すわずかな隙に体を落として軸足を払った。

 転んだ影の顔面に蹴りを見舞う前に反対側から剣が振り下ろされる。身を返してかわした。右、左と剣がはしる。

 膝を屈め、背後にとんぼを切る。もう一人が突いてくる。間一髪で躱す。

 体を横に。

 ぴうっと音がして背中を斜めに冷たい感触が走った。


 ――あッ!


 斬られた、と思う間もなく熱い痛みが背を焼く。


 ――くそッ!


 右手で左の肩口を押さえながら、歯を食いしばる。

 動きが止まった。

 二つの影も剣を構えたまま動きを止める。


 影が、かざした刀の先端をくるくると回しながらじりじりと間合いを詰めてきた。間断なく顔に雨が打ち付ける。

 痛みと悔しさで目頭が熱くなる。


 ――四鬼スーグイ……こんな奴らに――!



「りやあああああ!」


 影の背後から別の影が突進してきた。

 ふりかざしたこんを二人の間に突き入れ、左右に振った。

 たちまち二人が分かれる。


 炎が影の顔を照らした。眉根を寄せた端正な顔があかく浮かび上がる。


ジン兄さん!」

 玲華が叫ぶ。


「逃げろ玲華!」

 京も叫び返す。


パイ!」と影の一人が呼ぶと剣を片方に向かって投げた。白と呼ばれた男が受け取る。

「回るぞイン


 白がすすっと距離を取る。

 銀が懐から何かを取り出すと、両手に持った。ちゃらりと音を立てた二つのそれが地面に向かって垂れた。

 繋がった金属のくさびが十、先端は鋭く尖っており、炎の灯りを鈍く反射している。


 はおッ! と叫ぶと鎖を物凄い速さで振り回す。

 ひゅんひゅんと鳴る銀色の輪が雨を放射状に散らす。右から左、左から右へと両手の鎖が交互に空を切る。

 京が棍を正眼に構えて、じりっじりっと後ずさる。


 玲華は京の背後に回った。


「兄さん! 私も!」

「――その怪我では無理だ」

 京は端正な顔を前に向けたままだ。


「でも!」

 玲華が踏み出す。

 京がわずかに下がって顔を横に向けた。


「生き延びろ! ――生きて馬羊マーヨウ応大人オウターレンにこのことを伝えろ!」

 玲華が首を振る。目尻から涙がこぼれる。

「嫌だ! 兄さんも!」


 ほう! と声がして銀のべんが飛ぶ。

 京が背中をくぐらせて棍を回し、下から跳ね上げる。きいん、と音がして鞭の先端を弾いた。

 右から二本の剣を風車のように振り回しながら白が斬りかかる。

 棍を素早く右に回して剣を逸らす。


「はッ!」


 踏み込んで白の顔面を突く。白が剣で左へ躱す。

 左へ引いたところへ銀の鞭が水平に飛ぶ。立てた棍に鞭が絡みついた。


「白! 娘を殺れ!」

 銀の声を受けて、白が玲華の方に走り出そうとする。京が棍の先端を銀の方に向けて振り、白に蹴りを放った。

 白が剣の柄を立てて防ぐ。


「玲華! 早く!」

 京が叫ぶ。刹那、玲華の動きが止まって、唇が震えた。

 振り切るように背を向け、走り出す。


 白が剣を左右に払う。受ける京の棍には銀の鞭が巻き付いたまま離れない。

 白が玲華を追う。


「くそッ!」

 京が銀の鞭を振り払おうとするが、銀の右手が手元に手繰られると棍が引きずられた。

 棍を両手で引き寄せ、前蹴りを放つ、が空を切った。

 すかさず銀の左手の鞭が京の首筋へ飛んだ。

 思わず右手を放して防ぐ、と手首に鞭が巻き付いた。左手が緩み、銀に引っ張られた棍が手を離れて地面に飛んだ。


 家並から吹きあがる炎を背に、もう二つの影が迫ってくる。


 鞭に縛られた手首から血が滴ってくる。



 京は獣のような叫び声をあげ、敵に突っ込んで行った。




 走る。


 背後で叫び声が聞こえる。


 ――兄さん!


 歯を食いしばって玲華は走った。

 背中がずきずきと痛んだが、気にしている暇はない。


 背後から雨を蹴立てて追う足音がする。


 前が暗い。光が届かない。

 紫色の闇。

 くろぐろと葉が生い茂る森を沸き立たせるように雨音が響く。


 はっ、と足を止めた。


 前に道がない。


 踏みとどまった足元の砂利が前面の闇に呑み込まれて落ちていく。

 雨音よりも大きい水音が轟々と響く。


 川だ。――濁流。


 振り向く。

 両手に長剣を持った影が迫ってくる。


 影が大きくなる。


 背後をちらりと見た。

 影が迫る。剣を振り上げた。



 白が振り下ろそうとした刹那、玲華の身体は背後の闇に消えていた。




 ※    ※    ※




「――逃がした?」


 男の鋭い目がぎろりと横に動き、高くなった廊下の上から庭の方を見下ろした。

 白い砂が敷き詰められた庭に四人が横並びに控えていた。


 四人の濡れた服が闇のように黒い。

 同時にこうべを垂れた。


「しかし――急流でしたので、おそらく命はないかと」

「――言い切れるのか?」

 男の声が鋭さを増した。四人の頭が少し低くなる。


「手の者に下流までひとわたり探させたのですが……」

「見つからなかった、のだろう」


 は、と言って黙った。

 男は庭から目をはずし、朱塗りの柱の陰から唐破風からはふの軒の向こう側に目を遣った。

 頬の下まで伸びた泥鰌髭を指先で避ける。


 瓦を載せた白塗りの塀の上には薄明るい空が広がっている。

 濁った黒い雲の塊が足早に西の空へ流れていく。


「匪の山賊の仕業、という筋書は見直しだな」

 誰に言うともなくつぶやいて、深緑色の広い袖の中で腕を組んだ。

林元峰リン・ユァンフェン林京リン・ジンは間違いなく村ごと片付けたな?」


 は、と四人の声が揃った。

「一人も生かしてはおりません」

「娘以外、だろう」


 四人がまた少し小さくなった。

「――おそらく林元峰の娘、玲華か。馬羊の応、と言ったのは確かか?」

 は、と白が頷いた。

「そう聞こえました」


 ふむ、と言って少し黙った。

「鄭成功は死んだが、みんの残党どもはまだ元気だ。みかどは残党どもと呉三桂ウー・サンチーが手を組んだら、この三藩のいくさは厄介なことになる、と心を痛めておいでだ」

 

 存じております、とジンが答えた。男がちらりと金の方を見た。

「残党どもの士気の源は、いまだに倭国でぴんぴんしている朱舜水だ。直弟子の林元峰とせがれを片付けても、結局生きておる舜水が思想的な支えになっておることに変わりはない」


 少し考えるように言葉を切った。

「馬羊の応宗白が舜水と連絡を取り合っていることはとうに掴んでいる。市中の守りが固いので手は出せないが、万が一娘が合流したとすれば、後継を託すために舜水のもとへ送る可能性はある」


 四人の方へ目を向けた。

「あちらから船を出すとすると……海口ハイコウか。――港を見張らせろ。間者を飛ばして、どの船に誰を乗せるかを掴んでおくのだ」

 はっ、と四人が頭を下げた。



「娘もだが――舜水を消す手を考えねばならん」










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