蔑まれた勇者と、その仲間たちの話
作中差別的な表現が出てきますが、この作品にそうした行為を賛美したり或は助長する意図はありません。
昔々、魔王がいました。魔王は強大な力と残酷な性格で世界を蹂躙しました。人々はその力に恐れおののき、何もできませんでした。
そんな時です。
一人の青年が魔王に挑んだのです。
彼は最初の頃こそ弱く、非力でしたが、様々な人との出会いや経験を得て、徐々に力をつけていきました。そして、とうとう彼は幾人の仲間と共に魔王の前に立つことに成功したのです。
けれども、魔王の力はあまりにも圧倒的でした。一人倒れ、二人倒れ、三人倒れ……。
最後に立っていたのは青年だけでした。
「勇者よ、もうお前は一人だ。一人で塵へと帰るがいい」
膝をついた青年に魔王はとどめを刺そうとします。
ですが、その言葉に青年は逆に奮起しました。
「俺は、未だ立てる」
「それがどうした」
「俺には、仲間がいる」
「皆、倒れ力尽きている」
魔王は青年をあざ笑います。ですが、彼はそれを笑い返しました。
「倒れていても――例え、死んでいたとしても――思いだけは失われない。そして、それが俺をどこまでも強くする」
魔王はその言葉に初めて動揺しました。何故なら、彼は自分の力が圧倒的過ぎて、周囲を顧みるといったことは終ぞ無かったのです。
「最、後の一撃だああっ!」
青年は渾身の力を込めて、剣を魔王に叩きこみました。
――そして
とうとう、魔王は沈黙しました。
その後の青年の生活は詳らかには伝わってません。けれども勇者と呼ばれ、王国のお姫様を娶り、そしてたくさんの仲間とずっと幸せに暮らした、ということは確かなようです。
「って言う私たちモデルの話を考えたんだけれど、どうかしら、メルヴィン?」
我ながら、愛と友情と希望に満ち溢れた中々いい話だと思う。
「……レジーナ、言っちゃ悪いけど、それは本当に僕らをモデルにした話かい?」
「ええ、もちろん」
逆にこの勇者はメルヴィン以外の誰だろうというのか。
「前も聞いた気がするけど、この顔を見てもそんなことを言えるのかい?」
メルヴィンの白い端正な顔の半分は夜の海を思わせる、濃紺と白の大波を模した仮面によって覆われている。彼は呪われ、いずれ魔物へと堕ちる証であると自嘲するけど、私はそれをとても美しいと思う。
「でも、残念ながら僕を見て、そう思ってくれる人は決して多くない。というか、百人中九十九人が醜い、気持ち悪いといった感想を抱くんじゃないかな?」
「私はそうは思わないわ」
メルヴィンはため息をつく。
「確かに僕らは王からの勅命で”魔物”と呼ばれる生物を狩るべく各地を旅している。でも、その話は決して童話と同列に語ることのできるものではない。実際、俗にいう経験値に関しては――」
「メルヴィン、村が見えたわ!」
私はメルヴィンの話を遮るように、眼前に先ほどから見えていた、目的地の村を指さす。彼は暫く私を見つめていたが、やがて黙りこくり、そして村へと足早に歩を進めた。
――きっと、彼もわかっているのだろう。その話題は私たち以外には誰にも理解されず、かといってここで話すには重すぎるという事実を。
連れてきた猟犬が何かを悲しむように、遠く吠えた。
村に到着すると、蜂の巣をつついたような大騒ぎだった。それは決して歓声交じりのものではない。私たちは、まるで人の目から隠れるようにして村長と対面する。
「……村外れには空き家がある。そこに泊まるが良い。だが、必ず三日以内に仕事を終えてこの村を出ていけ」
「お気遣い、感謝いたします」
歓迎するにしては余りにも冷たすぎる村長の言葉。
けれども、メルヴィンの言葉は皮肉なことに半ば以上が本心である。場合によっては、文字通り石を投げつけられて、村の外で野営をすることを強いられることも多々あるのだ。宿泊許可が出た分、この村の長は親切と言わざるを得ない。
それでも、一つ決して慣れず、また許せないことがある。
「ねえ、メルヴィン」
村人の好奇と侮蔑の混じった視線。そして――
「不浄の息子」
「魔物」
「人喰い」
密やかに、しかしこちらに聞かせるために発せられる数々の罵倒の言葉。
「残念だけど僕らは耐えなければいけない」
「……わかってるわよ」
私たちの仕事は王国から”勇者”に値すると呼ばれ、実際やっていることもそれほど変わらないはずなのだ。けれども、同時に村人が私たちにああいう言葉を投げかけるのには正当な理由があるのも事実なのだ。
もし、魔王が現実にいるんだとしたら、それは決して打倒しえない社会の現実を指すのだろう。
――ああ、なんて理不尽。
突然、私の頭上に温かな手が置かれる。
「大丈夫さ」
「え?」
メルヴィンは柔らかな笑みを私に向けていた。
「いつか、僕が全ての魔物を狩りつくす。そして、魔物狩りは僕の代で終わらせる」
優しく、しかし鉄よりも硬い意志。
「だから、その時は君もいい人を見つけて幸せに暮らせるさ」
「違うの、私は」
「ああ、アレが村長さんが言っていた空き家かな? 早速お邪魔してみようか」
「ねえ、ちょっと」
彼はそのまま、廃墟、もとい藁葺の空家の中に足を踏み入れる。
「うわっ、埃っぽいし、黴臭いな」
「……そうね」
色々言いたいことはあるが、確かにまずは部屋の片づけをすべきだろう。連れてきた猟犬などは、そのすさまじい臭いせいで家から飛び出しそうな勢いだ。
とはいえ、家の中には殆ど物がない。パッと見て、目立った家具はベッドくらいしかない上に、竈に蜘蛛の巣が張っている状態である。片づけ自体は簡単だろう。
けれど、それを邪魔するかのように血の混じった嘔吐の音が聞こえる。
「メルヴィン!?」
慌てて、駆け寄ると彼は吐瀉物の中でうずくまり、私に待ったをかけてくる。
「……申し訳ない。とりあえず、ベッドの準備と薬の準備を先にしていてくれ。僕自身の片づけをしてくるから」
「わかったわ」
これが始まったのは、もう、一年くらい前になるだろうか。魔物を狩って、経験値を積んでいく際の呪縛の副産物のようなもの。このせいで、本来なら彼はとっくに死んでいてもおかしくないのだが、未だ逝けないのは幸か不幸か。
とにもかくにも、ベッド周りの準備は終える。これでひとまず、メルヴィンには休息をとってもらおう。
したがって、次は薬の準備とそのためのお湯を沸かさなければならないのだが……。
「薪は、ある訳ないか」
村人からの支援は期待するべきではない。ならば、それこそ山に芝刈りに行くことになるのだが、病人一人置いて行くのは憚られる。
――どうしたものか。
「あれ、お客さんかしら? それとも、私の同族ですか?」
開け放たれたドアから、突如として発せられる幼い声とそれを警戒する猟犬の唸り声。
振り返ると、そこには頭陀袋を引きずり、背には自らの五体よりも重いであろう薪を背負った黒髪の少女がいた。
「勝手に入って申し訳ない、ミス・クレイン。この家は空き家であると村長から聞いていたものだから」
「その呼ばれ方はこそばゆいですね。どうせ、未だ十の小娘なんですから、気楽にエステルって呼んでください」
トイレから出てきたメルヴィンは薬茶を飲みながら、少女――年齢にしてはませすぎている気もするが――エステルにお礼を言う。
「何らかの代償はするわ。だから、ここに泊まらせてくれないかしら?」
私はともかく、メルヴィンは出来るだけ安静なところにいさせたい。
「いいですよ。どうせ、村人もハナから私をいないものとして扱っていますし」
つまりは村八分。それが意味するところは――
「まさか」
「そう、そのまさかです。私も貴方達と同じく”不浄の息子”です」
不浄の息子。この国における、罪人とその子孫たちのことだ。公然とした差別を受け、職業選択にも制限がかかる。
例えば、動物の屠殺や死刑場の死体処理など血や死に関わる仕事、それから糞尿処理などの非衛生的な活動。そして、最底辺たる――
「貴方方魔物狩り。不浄で不潔で苦しくて同じ魔物の道を這って、死後すらも救われない仕事。同じ不浄の息子でも同情します」
彼女の言う通りなのだ。不浄の息子の中でも、魔物狩りは最底辺に位置するだけの理由が存在するのだ。
「流石に、そんな可哀そうな人たちを見下すような村人たちほど私はまだ人間腐ってないですよ」
「悪いが、それは聞き捨てならない」
メルヴィンが静かに、しかし力を込めて声を上げる。
「確かに君の言葉の大半は僕らが常日頃感じていることだ」
けれど、と彼は一拍置いて、死が間近な病人とは思えないほど力強い声を出す。
「我々の末路が地獄であるということと君の謂れなき同情は否定させてもらおう」
「それは、強がりですか?」
「いや、本音さ」
エステルの目付きは心底信じられないような、それでいてどこか此方を馬鹿にするような目である。だが、メルヴィンは知っている。彼女の目こそ――
「我々を最も苦しめる、無知の目だ」
少数ながら貴族様の中には憐れみゆえ、我々への援助を申し出てくれる人間がいる。それ自体は有り難いものだが、彼らはけれども私たち、魔物狩りと決して同じ地平に立たない。
それは、同情の押し付けだ。
「……気分を害したなら、謝ります。ごめんなさい」
頭を下げるエステルをメルヴィンは暫く見つめていたが、彼は一転してまた柔和な笑みをその顔に浮かべる。
「まあ、でも、正直こんなことは慣れっこだから実のところ怒ってはいない」
私も怒りは感じていない。あるとしたら、それは諦めだろう。
けれども、メルヴィンの目は私と違って未だ力強い輝きを失っていなかった。
「そうだね。いい機会だ。君は、ここらの山に詳しいのかな?」
「ええ、もちろん。落穂拾いと山にこそこそ入るくらいしか私が糊口をしのぐ方法はないですから」
じゃあ、と言ってメルヴィンは私の方を見る。
「彼女と一緒に僕の仕事を代わりにやってもらおうか」
「魔物狩りの仕事って、こう、もっと肉体的で力任せのものかと思っていました」
「確かに、そう言うのはあるけど寧ろこうした準備の方が本業よ」
「へえ」
エステルが罠用の魔法を仕掛けている私を見ながら、少し驚いたように話す。
よくある勘違いだが魔物は私たちよりも、はるかに強い。少なくともフィジカル面では決して勝ちえない。だから、罠を駆けたり、しっかりとした戦術を立てたりと、割と頭脳労働的側面が強くなるのだ。
「でも、経験値を得て強くなっていくんでしょう?」
「あれじゃ肉体面は強化されないわ。まあ、一万体とか魔物を食えば話は別だけど」
俗にいう経験値は私たち自身を直接的には強くは決してしないのだ。もし、肉体に変質を来すレベルで経験値をためている人がいたら、それは人間ではなく最早魔物になり果てているだろう。
「そもそも、経験値って何なんですか?」
「まず、経験値っていう言い方が間違っているのよ。そうね」
私は地を這う百足を一匹捕まえて、可哀そうなものを見る目をしたエステルを横目にそのまま一飲みにする。
やはり、これは慣れないし、気持ち悪い。体を整える薬を飲んで吐きそうな気持を落ち着かせるが、それでもひどい気分だ。
「……そうね、ここから西に三百メートルほど行ったところに小さな池があって、そこに大きな樫の木がある。そしてその周辺にはマガモの集団がいる。けれど、水は汚染されていて、使い物にならない。こんなところかしら?」
「すごい。鴨がいるかどうかはともかくとして、それ以外の情報はあってます」
「行ってみましょうか」
果たして、そこに行くと小さな池の周りにマガモのおびただしい死体の山があった。恐らく、標的の魔物による被害だろう。とりあえず、ここにも教会の人から習った魔術の罠を仕掛けておく。
それを見てエステルはうんうん唸っていたが、やがて何かに気づいたようだ。
「なんとなくわかりました。つまり経験値って」
エステルがどこか期待を込めた瞳で此方を見てくるので、ちらりとそちらに視線を返す。
「その生物の記憶よ」
これを最初に誰がやりだしたかはわからない。
けれども、これのおかげで人類は亜人の技術や、戦術、それから本来魔物にしか使えない魔法などを使えるようになり、そしてそれらをさらに洗練させていくことが可能になった。
「でも、生きたまま食べる必要はないでしょう。こんなことを繰り返しているから、体はボロボロになっていくんです」
「あるんだな、それが」
「なんでですか」
「私もよく知らないけど、生物は死んだら直ぐに体から魂が離れて記憶も失われるとか何とか」
とはいえ考えてみれば、当然の話かもしれない。単に相手を殺しただけで経験値が入るならば、屠殺業者や普通の狩人は普通に生活しているだけで強くなっていくはずだ。それがないというのは、つまり、そういうことなのだろう。
だが、その回答はエステルの満足のいくものではなかったらしい。
「なんで、そこまでするんですか?逃げちゃえばいいじゃないですか」
確かに彼女の言う通りなのだ。実際、この仕事は死亡率はある理由で十割であり、それを嫌がって逃亡する人間が後を絶たない。
「なら、なぜ」
「私の父親はね、クーデター未遂を起こして死刑になったの。そんな人の子供なんて行き場所があると思う?」
エステルはやや迷ってから首を振る。多分、逃げたところで物乞いか山の中で野人のように生きていくしかないだろう。
だが、もう一つ私にとって大事な理由がある。
「不浄の息子に堕ちてからの生活は悲惨だった。かつての友人からは唾を吐きかけられ、同胞からは好奇の目で見られる。そんなの、今じゃ慣れたけど、当時は何度も首を吊ろうかと思ったわ」
最も、教会は自殺を許していないから、それすらも辱めの対象になるだろうけど。
「そんな時だった。メルヴィンが私に手を差し伸べてくれたのは」
彼はおせっかいな人間だった。一日中私と一緒に街を回ったり、時には私を家まで連れて行って食事を食べさせてくれたりした。
「なんで、そこまでするのって、彼に一度聞いたの。そしたら、彼、なんて答えたと思う?」
「わからないですよ」
エステルは口を尖らせて言う。どこか、背伸びをしている感じがして可愛らしい。
「『辛い顔をしているのは見て取れた。けれども、口だけではどうにかならないと思ったから手を出した』ですって。それで気づいたの。彼は本当にお人よしなんだって」
メルヴィンの父は十数年前の大凶作の折、食うに困って盗みを働いてこの身分に落とされたという。多分、世が世なら彼は真っ当に育っていたのだろう。
「それで、私は決めたのよ。彼の最期を看取るまでは一緒に歩んでいこうって」
エステルはふうん、と訳が分かったように鼻息を一つつく。
「貴方が魔物狩りになった理由はわかるわ。でも、私にとってはやっぱり、この職業は辛いものにしか思えない。特にその末路は」
彼女の言う通りなのだ。私は彼の、そして自分自身もいずれ歩むであろう末路をまだ認めることが出来ない。
多分、それこそが最も魔物狩りが忌み嫌われ、そして憐れまれる理由なのだ。
「ねえ、答えてよ」
「それは……」
「そろそろ罠の仕掛けと探索は終わったかな?」
枯れ枝を踏みしめる音。驚いて見ると、そこにはクロスボウに数え切れないほどの護符を身にまとい、二頭の猟犬を連れたメルヴィンがいた。
「メルヴィン!じっとしてなきゃ!それにそんな重装備……」
「やっぱり、少し心配でさ。どのみち狩りには僕がいなきゃいけないし、どこで敵と会うかわからないからね」
そう言うメルヴィンを制して、私は荷物とクロスボウを無理やり彼から取り上げる。これはいくらなんでもダメだろう。
「全く、レジーナは大げさだなあ」
「貴方が色々雑すぎるのよ」
「それで、罠は?」
「……探知用の罠を通り道に幾つか、それから水飲み場に一つ致命的なのを。それから……」
私は進捗状況をメルヴィンに粛々と説明していく。彼はそれを頷きながら、一つずつ質問をしながら確認していく。
「じゃあ、十分だろうけど……」
「どうしたの?」
メルヴィンは何故かエステルを見て、何か悩むような素振りを見せる。
「これだけ、準備もできているし、比較的弱い敵だからなあ。乗り掛かった舟だ、エステル、君も仮に連いてくると良い」
「メルヴィン!?」
いったい何を考えているのだろう、メルヴィンは。ずぶの素人を連れていくのはどう考えても危ない。
けれども、彼は私の声を無視してなおも自分の意見を言い続ける。
「山に慣れているみたいだし、そろそろ後継者も探さなきゃいけない時分だ。どうだい?」
「……」
「いざとなったら、僕らが守るよ」
エステルは腕を組んで私たちを睨み付けていたが、やがて顔の筋を緩める。
「わかりました。確かに一番大事なところを知らないで貴方達の仕事についてどうこう言うのも確かにおかしいですしね」
メルヴィンはこちらを向いて、親指を上げてくる。私はそれを見て首を振る。彼は善人だが、どうにも調子が良すぎるところがある。
とはいえ、まあ、彼は腐っても歴戦の勇士だし、いざとなれば私が動けばいい。何とかなる、と思う。
「それで、肝心の狩る対象は何なんですか?」
待ってました、と言わんばかりにメルヴィンは口角を上げる。
「大した奴じゃないよ。穢れた雄鶏、コカトリスだ」
月すら出ない曇り空の夜、騒めく森の中で私たちは息を潜めてじっと、その時が来るのを待っていた。
「本当に大丈夫かしら?」
「大丈夫さ。君の仕掛けた罠なんだから」
コカトリス。蛇の尾に竜の翼を持つ、穢れた雄鶏。体は比較的小さいとは言え、石化の視線を持つなど、各地で被害を多く出している魔物だ。
「けれども、一番気をつけなければいけないのは毒の吐息だろう」
水を飲めばその場所が汚染され、草を食めば周囲一帯が完全に不毛の地と化すほどの強い毒。護符で防御していても、数十秒間体が持ったら良い方だ。だから、常に標的の位置を確認しておく必要がある。けれども、視覚に頼ると視線で身体を麻痺させられて、それこそ致命傷を食らう可能性が高い。
だから、視覚以外の別の方法が必要になるのだが――
突如として、耳をつんざく狂気に染まった鶏の鳴き声が響く。
「東の方よ」
「これは、近いな。……よし、行こうか」
メルヴィンは猟犬の一頭と共に声がした方へと駆けだす。果たして、東の方に少し行くと、壊れたトラバサミと夥しい血の跡、そしてまるで酸で溶かしたような枯れ葉が飛び散っていた。
「うわ……ひどい臭いですね」
「一応、回復用の薬はあるとはいえ、あまり近づかないほうがいいわよ」
実際、猟犬は後ずさっている。人間でもきついのだ。犬の嗅覚では如何ばかりの劇臭だろうか。後で、一等いい肉をあげなければなるまい。
それでも、彼らは鼻を鳴らした後、さらに私が昼に罠を仕掛けた方へと駆けていく。
「レジーナ、君はエステルを守りながら反対側から回り込んでくれ。多分、大丈夫だろうけど逃げられては困る」
「全く、無茶を言うんだから」
私はクロスボウに矢を込めるが。
「……待って。流石にこんな重装備で走り続けるなんて、いくらなんでも、限界です……」
エステルは既に息を切らしていた。まだ十になったばかりの子供だから、仕方ないが。
「メルヴィン、遅くとも数分で追いつくわ」
「わかった。じゃあ、お先に」
彼は血が迸る道を矢をつがえながら、夜闇の中へ消えていった。
それを確認して、私は腕を小刀で軽く切る。
「な、何をしてるんですか!?」
「良いから、黙ってみていて。『ああ、主よ。どうか、我を忘れることなかれ。どうぞ、我が罪を許し……』」
古語で聖句を唱えつつ、血で腕に文字を書き続ける。
「『我に今一度、力を与えたまえ』」
唱え終わると同時に、エステルを小脇に抱え走り出す。
「え、えええええええ」
「貴方が何を思っているか、わからないけど。奇跡は本来こういうモノよ」
代償と共に主に許しを請い神の似姿としての人の力をほんの少し取り戻したり、あるいは何らかの捧げものをすることで神に代わって自然現象を僅かに操る術。
どちらにせよ、重要なのは代償という概念。だから――
「奇跡は発動までにそれなりに時間がかかるし、何の代償もなかったらそれは悪魔や魔物の業なのよ」
「け、結構不便、なんですね」
「そう、不便よ。けれども一度発動した時の報酬はとてつもなく大きい。ほら、あんな風に」
突然、雨も降っていないのに雷鳴が鳴り響き、しかしそれとは全く違う、まるでかつて罪の街を焼いたような赤い光が池の向こう側に閃いたのが見えた。
「アレだと……かなり、喰ってるわね」
「どういうことです?」
問いかけに応えず、急いでメルヴィンと合流すべく走り出す。
魔物が”魔”足る所以はその異常な力でもおぞましい姿でもない。代償を得ずしてただ他者を貪り喰らうことで力を得、神の御許に帰るべき魂をその体の内に留めているが故なのだ。
「だから、魔物は人間よりも神罰が効く」
とはいえ、どんな生物であれ大なり小なり罪を重ねている。だから、当然赤雷が落ちた周辺は悲惨なことになるし、人間もそれを食らったら半端ではないダメージを貰うことになる。
「まあ、メルヴィンは大丈夫だと思ったけど」
「伊達に十数年修羅場を潜ってきたわけじゃないからね」
だが、各部からの出血で明らかに体はふら付いており、そして服の一部が黒く煙っぽい臭いを燻らせている。息も切らしていて、立っていることすらきつそうだ。
全盛期の彼なら、かすり傷一つ付けずにそこから離脱していただろう。
「大丈夫?」
「ああ、問題ないさ。……それよりも、こいつを」
メルヴィンは一メートル程もあるコカトリスの方を見やる。足は千切れ、胴体には幾つもの矢が刺さり、そして翼は完全に燃え落ちて使い物にならなくなっていた。
それにも拘らず、まだコカトリスは息をし、こちらを憎々し気にその蛇の目で睨み付けていた。
「全く、手強い奴だ」
「……ええ。そうね」
多分、それは違う。いつもなら、もう少し手際よく倒せていた。
「さて、さっさと喰って終わらせようか」
メルヴィンは銀鉄の短剣を取り出し、コカトリスに近づく。
「へえ、魔物って言っても、こうなればもうどうしようもないですね」
エステルが興味深そうにコカトリスを眺めている。まあ、魔物なんて普通に暮らしていれば十年に一度見るかどうか位だから無理もないが、そこら辺は年相応と言ったところか。
「でも、意外と大したことないんですね。もう少し強いと思っていたんですけど」
「こら、やめなさい。そんなに近づくと」
明らかにはしゃいでいるのを隠し切れない彼女を引きはがそうとする。
だが、一手遅かった。
コカトリスの目の色が変わり、瀕死のはずの体をまるで闘鶏のように奮いたたせる。
そして、その嘴が私の首に向かってくるのが見える。
「しまった――」
絶対に避けえない、死の予感がスローモーションで近づいてくる。
けれども突然、そのゆっくりとした時間は解除される。
気が付くと私はめいいっぱいの力で突き飛ばされ、そして冷たい地面に尻もちをついて呆けていた。
けれど、目に入ってきたものは――
「とりあえずは、大、丈夫かな?」
「あ、あああ、ああ」
仮面ごと左目を貫かれ、そして毒によって急速に体が萎んでいくメルヴィンの姿と声にならない叫びをあげて地面に倒れ込むエステルの姿だった。
「怪我がないなら、良かった。じゃあ、今度こそ仕事を終えよう」
彼は尋常でないほどの脂汗を流しながらコカトリスの胴体を掴んで離さず、今度こそ、その首を斬り落とす。
瞬く間に周囲の大地と草を枯らしていく毒血から半ば引きずるようにして、メルヴィンを死体から離す。
「とりあえず、応急手当てをするわね。それから、エステルの家に戻って――」
「いや、いい」
彼は首を振る。
「どの道、僕は長くない。――だから、レジーナ。僕の経験値を君に譲る」
「――それは!」
魔物狩りは決して病死や老衰など、畳の上で死ぬことは決してない。
死ぬときには後継者に自らの記憶を差し出す――即ち、生きながらにして喰われる――ことによって経験値を引き継がせる必要があるからだ。
魔物の道を歩み、それを以て魔物を討つがゆえに忌み嫌われ、そして死後も決して安らぎは与えられることのない存在。それが、魔物狩り。
「……私には出来ない」
「大丈夫さ」
メルヴィンは最早爛れて崩れた左半分の顔を隠そうとせずに、私に微笑を向ける。
「君の罪は、僕が自らの命を以て償う。だから、安心して」
「それじゃ、メルヴィンが救われないじゃない!」
誰よりも人に尽くして、誰よりも優しくて、そして私にとって一番大切な人。
「その人の最期が、こんな、こんな苦悶と絶望に満ちたものだなんて、私は認めない!」
地面が塩辛い雨で濡れていく。
メルヴィンは漸く辛そうな表情を浮かべて、静かに目を閉じる。
「僕はね、まだ、死にたくない」
「知ってる」
そして、それが叶わぬ夢だということも。
「なら、僕は。僕だけの天国に行きたい。君といつまでも一緒にいたい。原初の魔物狩りが大事な人にかつて、そうしてもらったように。そして、僕の師匠と、僕がかつてそうしたように」
「……」
「駄目、かな」
――分かった。絞り出すようにして、その決断を口に出す。
「ありがとう。……それじゃ、ここからは教育上余りよくないから、君はちょっと向うを見ておいてくれるかな」
けれども、エステルは腰を抜かしつつも首を横に振った。
「そうか」
エステルが涙目で、けれどもこちらをしかと視線に入れたのを確認して、また彼の顔に笑顔が戻ってくる。
「……何か、言い残したことはあるかしら」
メルヴィンの目はもう、焦点が合ってない。次が最後だろう。
「約束守れなかったね。ごめん」
「別にいいわよ」
「あと」
――愛しているよ。
――知ってるわ。この世の誰よりも。
私はそして小さく、さよなら、と呟いてから彼の首元に犬歯を剝き出しにしてキスをした。
次の日の朝、私は村長から報酬の銀貨を貰って半ば追い出されるようにして村を出発した。当然、見送りなどある訳はない。エステルに至っては、家からその姿を消していた。まあ、昨日のアレを見れば無理もないことだろう。
「一人に、なっちゃった」
わずか半日前までは私の隣にいた大事な人を想う。ふとしたことで、そこに居ないはずのメルヴィンに話しかけていたり、食事を二人分作ってしまう自分がいる。
「早く、慣れなきゃね」
歯を食いしばり、一歩を踏み出す。けれども、前が霞んで歩けない。
「何、泣いているんですか」
つい最近知ったはずの、けれど懐かしい声がする。
「エステル……」
「どうせ、村には居場所がないから、連いていってあげます」
彼女は朝陽を背にして、力強く立っていた。
「彼は貴方を天国と呼ぶほど愛していました。それで充分じゃないですか」
わかっている。分かっているけど、それとこれとは別なのだ。
「メルヴィンさんは貴方と一緒に今もいます」
その言葉に気づかされる。
それは決して万能の免罪符になるわけでもないし、またそうするべきでもない。
けれども。
多分、彼はそうしたものにすがってでも私に前へ歩いて行くことを望むだろう。
やっと、足に力が入る。
「出発、しましょうか」
「ええ、これからよろしくお願いしますね」
「よろしくね」
私はこの状況に至らしめた社会は嫌いだし、それに最終的に負けてメルヴィンを殺して喰ってしまった自分を一生許せる気はしない。
でも、それに負けて何もしないのはもっと許せない。
それは私の前に斃れていった仲間やメルヴィンの想いを無駄にすることになるから。
だから、私がどんな最期を迎えるかわからないけど、死の瞬間まで戦い続けよう。この世を支配する、理不尽という名前の魔王を倒すまで。
そして――私が本当の勇者になって誰かに想いを渡す時まで。
色々とっ散らかっていて読みづらかったと思いますが、何卒ご意見を頂けるとありがたく存じます。