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1-2 洞窟の光

 坂を駆け下りている途中、ファロウが唐突に止まって鳴いた。


 初めて会った時から不思議な猫だった。


 透き通るように輝く真っ白な毛並み。

 インペリアルトパーズ色の瞳。

 六年前に出会ったときから人の言葉が分かるように振る舞い、時に危険を察知して警告してくれる。

 初めから大人びていて、未だに老いた様子はない。


「どうしたファロウ?」


 統真はファロウが顔を向ける先を見る。

 谷筋を挟んで向こうの側の斜面、木立の隙間からちらと黒い人影が駆け抜けてゆく。

 黒服の集団のようにも見えたが、はっきりとは分からない。


 違和感がある。

 登る様子は、まるで滑るようだった。


「そういえば、連休か――」


 ゴールデンウィークには、どこから来るのかと呆れるほど、登山客が増える。きっとそういう登山客なのだろうと統真は思った。登山服らしくない黒服と見えたのも、木立の影にいるせいだと考えるのが自然である。


 しかし、看過はできない。

 ここは私有地なのだから。


 勝手に私有地に入って勝手に遭難されるのは迷惑だし、危険な場所もある。

 登山客を見かけた際の統真の役目は、下山を促すことである。

 ファロウの警告は、そういう無礼で無鉄砲で無思慮な登山客の侵入を発見したことなのだろうと統真は思った。


 だが、子供だという理由でだいたい無視される。

 そうした連中が話を聞き従順になるのは、道に迷って進退に窮してからだった。

 結局遭難し掛かるまで待つしかないというのが、統真が経験によって得た結論だった。


「あっちは後だ。どのみちここから谷に降りて向こう側に行くルートはない。空でも飛べれば別だけど。一度下に降りてからになる」

 統真が視線を向けると、ファロウは頷いた。


「まずは、瑠璃だ。とりあえず早めに謝っておかないと、後が怖い」

 統真が駆けだすと、ファロウが先導するように先を駆ける。


 少しだけ近道をする。


 木の根や岩が飛び出た斜面を駆け下りていく。

 ひとつ足の置き場を間違えれば、転んだり滑ったり、大怪我するだろう。


 ファロウが通った後を進めば安全だった。

 まるで足を置くべき場所を予め示すように、ファロウは安全な足場から足場へと飛び移る。

 統真はただ、ファロウが行く後を踏みしめていけばいい。


 家が見えてきた。


 工房と母屋がL字のように繋がる家である。

 統真の父親は、紙漉かみすきを生業なりわいとしている。


「何か変だ」

 瞬間で脳裏に浮かび上がった警鐘に改めて周囲に視線を巡らせる。


 家の前の畑が踏み荒らされていた。


 警戒すべき何者かが家に来ていることを悟った。

 同時にそれが複数人であり、無造作に他人の畑を踏み荒らすような悪人であると推定する。


 また父親の車はなく、玄関脇に瑠璃の自転車が倒れているのが見えた。

 異常事態を悟り、乱れそうになる呼吸の調子を乱さずに抑え、最後の斜面を駆け下りる。


 工房裏側の勝手口。

 開いたままだった。


 ファロウが先に飛び込んで行く。

 統真も構わず飛び込んだ。

 ファロウが中で急停止する。

 統真も止まろうと踏ん張り、土間の上で足を滑らせて急停止した。


 工房の中は、がらんとしていた。

 紙漉きの道具がことごとく無い。

 だがそんなことより、瑠璃の姿も見えない。


「瑠璃!」

 統真の声に反応はない。


 ファロウが鳴いた。


 視線を転じる。

 工房の窓際に据え付けられた石造りの作業台の上、ファロウが見上げている。

 窓に、紙が張り付いている。


〈娘を預かった。洞窟で待つ〉

 墨書ぼくしょであろう文字で書かれている。


「親父のせいだ」

 その紙を窓から剥がして握り締める。


 雪が解けた春休みの頃だった。

「妙な客が来た」と父親が言っていた。

 杖を突き黒服にシルクハットの出で立ちで現れた小柄な男が、高級外車で乗り付けてきたと。


 専属の紙漉き職人として雇いたいという勧誘だった。

 月の給金は五〇万エンで生涯雇用という条件だった。

 即座に断ると、即座に倍額が提示されたという。

 一言で倍になるという話が胡散臭いと、再度断ったのだという。


 男に断った理由を聞かれたという。

「この地を離れたくない」

 その父親の言葉を聞いた男は、上着の内ポケットから一枚の紙を取り出した。


「これと同等の紙を作ってくれるなら、同じ条件で金は払う」

 男の提案を聞いた父親は、真っ当な仕事の依頼ではないと、改めて断ったと言う。

「また来る」

 そう言い残して男は去って行ったと聞いた。


 統真は瞬間的に、その怪しい男が瑠璃を誘拐したのだと悟った。

 瑠璃は、父の実の娘だと勘違いされたのだ。


「けどなんで、洞窟なんだ?」


 工房にあった紙漉きの道具などを持ち去る嫌がらせをしておきながら、子供を誘拐して連れ去る先が裏山の洞窟というのが、統真には理解できなかった。


 再びファロウの声がする。


 背後からの声に振り返る。

 ファロウは、勝手口の前に立っていた。

 追いかけようと促しているのだと分かる。

 同時に統真は、さっき谷の向こうに見た黒ずくめの連中が瑠璃を連れ去ったのだと気づいた。


「そういうことか。ファロウごめん。君の警告を軽く見ていた」

 しかし、仮に先程瑠璃に気づいたとしても、最も早く追いつける道は、変わらない。

 一度家に立ち寄った分だけ、時間を浪費したのだ。


「だったらその分、速く駆ければいいんだ」

 統真は、裏手の登山道へと駆け入った。

 いつもの登山靴を履いている。岩場を気にする必要はない。


 登山道は山の中腹にある、洞窟の前に続いている。

 途中、沢沿いの岩場を登り、急斜面の獣道を駆け登り、可能な限り近道を駆ける。

 最後、草に覆われた崖の岩を手掛かり足がかりにして駆け登り、洞窟に続く道に出た。


 息が上がっている。


 いつになく無理をしたハイペースで駆け登ってきた。

 一旦止まり、呼吸を整える。


 左へ数十メートル行けば洞窟の入口で、右へ行けば登山道を下ることになる。

 先行されたとは言え、ここまで駆けてくれば、瑠璃を攫った連中の先回りができただろうと統真は考えていた。

 ここから登山道を下れば、出会えるはずだった。


 だが、ファロウが鳴く声は後ろから聞こえた。

 統真は振り返る。

 洞窟の方に駆けて行くファロウの後ろ姿が見える。


 信じられない思いを抱きながら、統真は洞窟へと走った。

 細道を曲がると、山側の斜面に窪みが見えた。

 ファロウが待っている。


 新緑が芽吹く藪に覆われた窪み。

 階段となる積み石の回りだけ刈り取られている。

 洞窟の入口を覆っていた金網は、切断されていた。


 鋭い断面を誇示するように左右に外側に向けてねじ曲げられている。

 その先の山肌には、直径二メートルほどの洞窟の入り口がある。


「どうやってこんな――」

 統真は今朝もここに来たから知っている。

 窪みは藪に覆われ石段は見えず、危険な洞窟に登山者が入らないように設置した金網は洞窟の入り口を塞いでいた。


「嘘だろ?」

 常識からの問いかけは目の前の現実によって答えは出されている。


 チェーンロックを切断するような油圧カッターでも使えば金網は切ることはできる。

 だが、上から下までほぼ一直線に揃った切断面にはならない。

 不穏な予感に統真は不安をかき立てられた。


 近道しても先回りできなかった事実。

 金網が長い刃物で一刀両断したような切断面である事実。

 この二つだけでも恐ろしい現実を予感させられる。


 統真よりも身体能力が優れていて、刀剣類を持った複数の大人。

 想像する犯人像を思うと、統真には勝ち目が見えなかった。

 瑠璃を助けられる自信が持てず、統真は足を踏み出すのを躊躇した。


 再びファロウが鳴いた。

 視線を向けると、洞窟の入口に立っている。

「そうだね。瑠璃の方が怯えている」


 統真は覚悟を決めた。

 積まれた石の段を下り、洞窟へと入る。


 入り口はすぐに左右に分かれる。

 右から先が下るように洞窟の奥へと通じる道。

 左はすぐ行き止まる。


 統真は一旦左に向かった、

 行き止まりで積んでいた石をどかす。

 裏側に現れた空洞に手を突っ込み、ビニール袋に包まれた斜めがけの巾着袋を取り出す。


 父親に内緒で洞窟に入るための装備だった。

 この巾着袋は、口紐にストッパーが付いていて、反対側は袋の下側に通されている。

 紐が袋の対角線上に通されているため、斜めに背負うことができる。


 母親が生前手製の紙で作ってくれたとても丈夫な袋だった。

 中には上着と手袋と懐中電灯、携帯食が入っている。


 汗をかいたまま洞窟の冷気に当てられると、体温が急激に低下する危険がある。


 統真は巾着袋から上着を出して身に付け、手袋をはめ、懐中電灯を一旦上着のポケットに入れ、巾着を肩から斜めに掛ける。

 装備を確認するように服の上からポケットを叩く。


 ズボンのポケットに押し込んでいた紙に気づいた。

 工房に残されていた誘拐犯からのメッセージである。

「こんな時、あんな親父でも頼らないといけないか」


 巾着袋を入れていたビニール袋に誘拐犯からのメッセージカードを入れると、隠し穴に押し込み、石を積んで隠した。


 統真は入口まで戻る。


 ウェストポーチからスマートフォンを取り出す。

 手短に文を書く。

【洞窟に入る。左奥隠し穴見ろ】

 即座に父親にメールを送信する。

 送信済みになったのを確認して、洞窟の奥へと下った。


 上着のポケットから懐中電灯を取り出して、照らす。

 その光の先を、ファロウが行く。

 暗闇の中で白い体は光って見える。

 ファロウを目印に統真は駆けた。


 誘拐犯の気配があれば、ファロウがいち早く気づいて教えてくれると信じて、統真は必要以上の警戒をせずに走った。

 洞窟は入り組み、奥は深い。


 途中渡し板を飛び越え、あるいは岩から飛び降り、駆け登り、複雑に入り組んだ洞窟を奥へと進む。


 五メートル先でファロウが止まる。

 統真は岩の側面に飛び、膝を曲げて衝撃と勢いを吸収し、止まった。

 懐中電灯を消し、耳を澄ましながら闇に目が慣れるのを待つ。


 闇の中、朧気にファロウの体が浮かび上がる。


 この先がどうなっているのか、統真は良く知っている。一度左に曲がり、少し上り、真っ直ぐに進むと、少し広くなった空間に出る。


「あいつら、女神の間に何の用だ?」


 一度スマートフォンの電源を入れて時間を確かめる。

全力で追いかけてきたがそれでも入り口から二時間が経過している。

 統真は自分の遅さに苛立った。


 ファロウは先導するように先へ進む。

 統真も付いていく。

 岩に突き当たる。

 ゆっくりと登って頭を覗かせる。

 この先にある女神の間から、光が漏れていた。


 ファロウは止まらずに進んでいく。

 誘拐犯に気づかれた様子はない。

 物音も聞こえない。


 ファロウの体が女神の間に近付くにつれ、姿がはっきりと見えてくる。

 間違いなく、ファロウ自身が光っている。

 躊躇せずにファロウは先へ進み、女神の間へと入った。


 ファロウが小さく鳴く声が聞こえた。

 統真が残りの距離を一気に駆けて中に入る。


 初めて目にする現象だった。

 不思議な光景が広がっている。

 女神の間全体が光っていた。


「ファロウ、これは一体……」


 統真にとって女神の間は安らぎと痛みの空間だった。


 この洞窟を見付けたときからこうだと、父親から聞いている。

 光を向けると、空間にうっすらと女性の姿が浮かび上がるように見える。

 理由は分からないが、女神の間と呼ぶのはこの現象に由来している。


 統真はそれを、母の魂が宿っているのだと考えていた。


 父から洞窟に入るなときつく言われていたが、それでも黙って何度も来ていたのは、母の面影を求めていたからだった。


 幼い頃は女神の間に行けば母を感じられる気がした。

 母から受けたであろう愛情を感じ、母が見守ってくれているのだと思っていた。

 今は、ここに母の魂が宿ってはいないと思っている。

 それでも当時は心の拠り所だった。


 それが今は、女性の姿が見えないほどに中は光っている。


 ファロウが洞窟に中心に立ち、前足で何かを掘ろうとしている。

 統真がしゃがんで見ると、花の飾りが付いたヘアピンがあった。


「瑠璃のだ」

 ファロウは統真を見上げると凛とした声で鳴いた。


 より強く、ファロウの体から光が放たれる。

 共鳴するように、壁に点在する複数の箇所が明滅する。

 その内いくつかが消え、光る箇所が限定される。


 さらに共鳴するように岩が光り出す。

 女神の間全体が薄靄に包まれ始める。水蒸気だろうかと統真は思った。

 光と光が結ばれていく軌跡が空間に描かれる。


「ファロウ、君は一体……」

 ファロウがまばゆく光る。

 同時に女神の間に光の線で張り巡らされた模様も光を放った。


 世界が光に包まれる。あまりの眩しさに統真は両腕で目を覆うが、それでも眩しい。


 しばらくして、光が弱まったように感じた。


 風が頬と髪を撫でていく。

 鳥のさえずりが聞こえる。


 統真はゆっくりと腕を下ろし、目を開けた。

 いつの間にか草原に立っていた。

 見慣れた草原ではない。


 周囲に石柱が立ち並ぶ中心に立っている。

 世界はどこまでも終わることなく続いている。


〈タタ・クレユ〉

 何者かの声が聞こえた――。

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